【若菜上 35】柏木、女三の宮に執着 源氏の出家を待つ

衛門督《ゑもんのかむ》の君も、院に常に参り、親しくさぶらひ馴れたまひし人なれば、この宮を父帝のかしづきあがめたてまつりたまひし御心おきてなどくはしく見たてまつりおきて、さまざまの御定めありしころほひより聞こえ寄り、院にもめざましとは思しのたまはせずと聞きしを、かく異《こと》ざまになりたまへるは、いと口惜しく胸いたき心地すれば、なほえ思ひ離れず。そのをりより語らひつきにける女房のたよりに、御ありさまなども聞き伝ふるを慰めに思ふぞはかなかりける。「対の上の御けはひには、なほ圧《お》されたまひてなむ」と、世人もまねび伝ふるを聞きては、「かたじけなくとも、さるものは思はせたてまつらざらまし。げにたぐひなき御身にこそあたらざらめ」と、常にこの小侍従といふ御|乳主《ちぬし》をも、言ひはげまして、世の中定めなきを、大殿《おとど》の君もとより本意《ほい》ありて思しおきてたる方におもむきたまはば、とたゆみなく思ひ歩《あり》きけり。

現代語訳

衛門督の君(柏木)も、朱雀院にいつも参上し、親しくお仕え馴れていらっしゃる人であるので、この宮(女三の宮)を父帝(朱雀院)が大切にお可愛がりになられていらした御心持ちなどは詳しく存じ上げていて、さまざまに婿選びの取決めがあったころから自分もその意思があることを申し出ていて、また朱雀院も、自分のことを「目障りな」とはお思いにもならず、おっしゃりもしないと聞いていたので、このように思いの外の結果となられたことは、ひどく残念で胸の痛い気持ちがするので、やはり断念することができない。

その頃から馴染みになっていた女房(小侍従)のつてで、宮(女三の宮)のご様子など聞き伝えることを慰めと思っているのは、はかないことであった。「対の上(紫の上)の御威勢には、やはり気圧されていらっしゃる」と、世間の人が噂するのを聞いては、「畏れ多いことではあるが、もし私が夫であったら、そんな物思いはおさせ申し上げなかったろうに。なるほど、類なく高貴な御身からしてみれば私など分不相応ではあろうが」と、いつもこの小侍従という乳母長をも責め立てて、「世の中は不定であるので、大臣の君(源氏)がもともと願っていらした出家の道に赴かれたなら」と絶えず思いながら徘徊しているのだった。

語句

■さまざまの御定め… 女三の宮の婿選びの時、柏木は朧月夜を通して名乗り出たが地位が低いことを理由に退けられた(【若菜上 06】)。 ■院にもめざましとは思しのたまはせずと 朱雀院が女三の宮の婿として柏木が必ずしもふさわしくないわけではない、と言ったことは物語中に記述がない。朧月夜が聞いて柏木に伝えたものか。 ■かく異ざまに 女三の宮が源氏の妻となったこと。 ■そのをりより 柏木が女三の宮に求婚した時から。 ■語らひつきにける 馴染みになっていた。 ■なほ圧されたまひてなん 下に「ありける」を補い読む。 ■かたじけなくとも 畏れ多いことだが自分が女三の宮の婿だとしたら。 ■さるものは 「さる」は紫の上に圧倒されて源氏から愛情が十分に注がれないこと。 ■げに 柏木は朧月夜が自分が女三の宮の婿として退けられたのは身分の低さのゆえであると伝えられたのだろう。それで「げに」となる。

朗読・解説:左大臣光永