【若菜上 36】春の六条院 蹴鞠の遊び 夕霧・柏木加わる

三月《やよひ》ばかりの空うららかなる日、六条院に、兵部卿宮、衛門督など参りたまへり。大殿《おとど》出でたまひて、御物語などしたまふ。「しづかなる住まひは、このごろこそいとつれづれに紛るることなかりけれ。公私《おほやけわたくし》に事なしや。何わざしてかは暮らすべき」などのたまひて、「今朝《けさ》、大将のものしつるはいづ方にぞ。いとさうざうしきを、例の小弓《こゆみ》射させて見るべかりけり。好むめる若人《わかうど》どもも見えつるを、ねたう、出でやしぬる」と問はせたまふ。大将の君は丑寅《うしとら》の町に、人々あまたして鞠《まり》もてあそばして見たまふ、と聞こしめして、「乱れがはしきことの、さすがに目さめてかどかどしきぞかし。いづら、こなたに」とて御|消息《せうそこ》あれば、参りたまへり。若君達《わかきむだち》めく人々多かりけり。「鞠《まり》持たせたまへりや。誰々かものしつる」とのたまふ。「これかれはべりつ」、「こなたへまかでむや」とのたまひて、寝殿の東面《ひむがしおもて》、桐壺は若宮|具《ぐ》したてまつりて、参りたまひにしころなれば、こなた隠ろへたりけり、遣水《やりみず》などの行《ゆ》きあひはれて、よしあるかかりのほどを尋ねて立ち出づ。太政大臣殿《おほきおほいどの》の君たち、頭弁《とうのべん》、兵衛佐《ひやうゑのすけ》、大夫《たいふ》の君など過ぐしたるも、まだ片なりなるも、さまざまに、人よりまさりてのみものしたまふ。やうやう暮れかかるに、風吹かずかしこき日なり、と興じて、弁の君もえしづめず立ちまじれば、大殿、「弁官もえをさめあへざめるを、上達部なりとも、若き衛府司《ゑふつかさ》たちはなどか乱れたまはざらむ。かばかりの齢《よはひ》にては、あやしく見過ぐす、口惜しくおぼえしわざなり。さるは、いと軽々《きやうぎやう》なりや、このことのさまよ」などのたまふに、大将《だいしやう》も督《かむ》の君も、みな下《お》りたまひて、えならぬ花の蔭にさまよひたまふ。夕映《ゆふば》えいときよげなり。をさをさ、さまよく静かならぬ乱れ事なめれど、所がら人柄なりけり。ゆゑある庭の木立のいたく霞《かす》みこめたるに、色々紐《ひも》ときわたる花の木ども、わづかなる萌木《もえぎ》の蔭に、かくはかなき事なれど、よきあしきけぢめあるをいどみつつ、我も劣らじと思ひ顔なる中に、衛門督のかりそめに立ちまじりたまへる足もとに並ぶ人なかりけり。容貌《かたち》いときよげになまめきたるさましたる人の、用意いたくして、さすがに乱りがはしき、をかしく見ゆ。御階《みはし》の間《ま》に当れる桜の蔭によりて、人々、花の上も忘れて心に入れたるを、大殿《おとど》も宮も隅《すみ》の高欄《かうら》に出でて御覧ず。

いと労《らう》ある心ばへども見えて、数多くなりゆくに、上臈《じやうらふ》も乱れて、冠《かうぶり》の額《ひたひ》すこしくつろぎたり。大将の君も、御位のほど思ふこそ例ならぬ乱りがはしさかなとおぼゆれ、見る目は人よりけに若くをかしげにて、桜の直衣《なほし》のやや萎《な》えたるに、指貫《さしぬき》の裾《すそ》つ方すこしふくみて、けしきばかり引き上げたまへり。軽々《かろがろ》しうも見えず、ものきよげなるうちとけ姿に、花の雪のやうに降りかかれば、うち見上げて、しをれたる枝すこし押し折りて、御階《みはし》の中の階《しな》のほどにゐたまひぬ。督《かむ》の君つづきて、「花乱りがはしく散るめりや。桜は避《よ》きてこそ」などのたまひつつ、宮の御前の方を後目《しりめ》に見れば、例のことにをさまらぬけはひどもして、色々こぼれ出でたる御簾《みす》のつまづま透影《すきかげ》など、春の手向《たむけ》の幣袋《ぬさぶくろ》にやとおぼゆ。

現代語訳

三月ごろの空がうららかに晴れた日、六条院に、兵部卿宮、衛門督(柏木)などが参られた。大殿(源氏)がお出になられて、お話などなさる。(源氏)「静かな住まいは、最近ひどく退屈で、気が紛れることがないですね。公私にわたって平和そのものです。何をして過ごせばよいだろう」などとおっしゃって、(源氏)「今朝、大将(夕霧)が来ていたが、どこに行ったのだろう。ひどく物寂しいので、いつものように小弓を射させて見物すればよかった。そういうことが好きそうな若人たちも見えていたのだが、惜しいことに、帰ってしまったか」と尋ねになる。大将の君(夕霧)は丑寅の町に、多くの人々に蹴鞠を遊ばせてご覧になっていらつしゃる、とお聞きになられて、(源氏)「騒がしい遊びではあるが、そうはいってもやはりはっきりと技量があらわれる競技でもある。どうです、こちらでなさっては」とご連絡なさると、参られた。若公達めいた人々が多いのだった。(源氏)「鞠をお持たせになられたか。誰々が来ているのか」とおっしゃる。(夕霧)「これかれの者が参ってございます」(源氏)「こちらに来ませんか」とおっしゃって、寝殿の東面、そこは桐壷(明石の女御)が若宮をお連れ申し上げて、東宮へお戻りになられた後なので、今はひっそりとしていたのだったが、そのあたり、遣水などの合流するところが広場になっているので、風情ある蹴鞠の場所を探して、そこに集まってくる。太政大臣の子息たち、頭弁、兵衛佐、大夫の君などは、年がいったのも若いのもおり、さまざまであるが、皆蹴鞠の技はたいそう人よりすぐれていらっしゃる。日がようやく暮れかかるころで、風も吹かず、「これは賢い日だ」と興じて、弁の君もがまんができずに蹴鞠の輪に加わると、大殿(源氏)は、「弁官も我慢ができないようであるが、上達部などでも、若い衛府司《えふつかさ》たちは、どうして騒がないのかな。私もこれくらいの年であった頃は、不思議に、こういう席を黙って見ているのが、残念に思えたことですよ。それにしても、ひどく騒々しいね、この有様は」などとおっしゃるので、大将(夕霧)も、督の君(柏木)も、みな階の下にお降りになられて、えもいわれず見事な花の陰を行き来していらっしゃる。その御姿は、夕陽に映えてまことに美しげである。蹴鞠は、あまり体裁のよいものでもなく、静かでもない騒々しい遊びであるようだが、それも場所と人柄によるのだった。風情ある庭の木立に、霞が、とても深く立ち込めているところに、色とりどりに蕾を開かせている花の木々や、わずかな芽の吹き出た木陰に、こんな何ということもない遊びではあるが、上手下手の違いを競い合っては、自分も負けられないという面持ちでいる、その中に、衛門督(柏木)が軽く立ちまじっていらっしゃる、その足さばきに並ぶ人はいないのだった。容貌がとても美しげで優美な様子をしている人が、ひどく気を遣って、それでもやはり我を忘れて夢中になっているのは、おもしろく見える。ちょうど御階の間のところにある桜の蔭に近寄って、人々が花のことも忘れて蹴鞠に夢中になっているのを、大殿(源氏)も、宮(兵部卿宮)も、隅の高欄に出てご覧になられる。

まことに熟練した人々の技量が見えて、鞠を蹴り上げる回数が多くなっていくと、身分の高い者も夢中になって、冠の額ぎわが、少しゆるくなっている。大将の君(夕霧)も、御位のほどを考えると普通でない熱中ぶりであるよと思わうが、見た目には人よりまことに若くお美しく、桜の直衣の少し萎えたのを着て、指貫の裾のほうがすくし膨らんでいるのを、ほんの心持ち引き上げていらっしゃる。そう軽々しくは見えない。何となく美しげでくつろいだ姿に、桜の花が雪のように降りかかるので、ちらっと見上げて、たわんでいる枝を少し押し折って、御階の中ほどの段のあたりにお座りになった。督の君(柏木)も続いて座り込んで、「花がやたらと散り乱れますね。風も、桜を避けて吹くといいのに」などとおっしゃっては、宮(女三の宮)の御前の方を流し目に見れば、いつものように、女房たちが、それぞれ慎みのないようすをして、色とりどりの衣の裾を御簾の端々から外に出しているのや、簾を透かして見えるその陰などは、春の手向けの幣袋だろうかと思われる。

語句

■三月ばかり 三月は明石の女御の出産があった。その産養なども終わり、女御が東宮へ帰ってからのこと。三月の末だろう。 ■兵部卿宮 源氏の義弟。螢兵部卿宮。 ■しづかなる住まひ 六条院。 ■公私に事なしや 明石の女御の出産と産養が終わり、女御が東宮に帰った後。暇である。 ■小弓 座って矢を射る競技らしい。 ■丑寅の町 花散里の居所。 ■乱れがはしきこと 蹴鞠は下級貴族の遊びで上流階級ではやらない。 ■目さめてかどかどしき 上手下手がはっきりわかるの意か。 ■こなたへまかでんや 「こなた」は東南の町の寝殿の東庭。 ■参りたまひにし 女御は若宮をつれて東宮に帰った(【若菜上 30】)。 ■行きあはれて 未詳。遣水が合流したところが蹴鞠を行うにふさわしく広場になっていると一応取る。 ■かかり 蹴鞠をする場所。 ■かしこき日なり 蹴鞠に都合の悪い強い風など吹かないことを「賢い日だ」と洒落た。 ■上達部なりとも 源氏が夕霧、柏木にすすめて言う。 ■かばかりの齢にては 自分が衛府司たちの年の頃は。 ■軽々 蹴鞠に対する評価。蹴鞠は若く身分の低い貴族の遊び。 ■ことのさま 有様。 ■花の蔭に 庭の桜花の蔭に。 ■夕映え 夕暮れの薄明かりに映える姿。 ■所がら人柄なり 一般に蹴鞠はそう風情がなく奥ゆかしくもないと思われているが、それも場所とやる人次第であるの意。 ■紐とき 「紐とく」は、蕾が開くこと。 ■いどみつつ 蹴鞠に勝敗はなく、地上に落とさず蹴り続けることだけを目的とする。とはいえ、いかに上手く蹴るかで、各人の間におのずと競争意識が生まれるのだろう。 ■足もと 柏木の絶妙な足さばきをいうが、その見事な容姿もふくんでのことだろう。 ■用意いたくして 無作法にならないよう気を遣って。 ■御階の間 寝殿造の南面の階段に面した柱と柱の間。鞠を蹴りながら東面から南面へ移動してきたのである。 ■労ある 熟練した。 ■数多くなりゆくに 鞠を蹴り上げる回数が。実際には三度、四度つなげるのも簡単ではない。 ■冠の額すこしくつろぎたり 汗をかいて、冠があみだになってきた。 ■桜の直衣 表は白、裏は赤または葡萄染め。 ■指貫の裾つ方すこしふくみて 動きやすいように指貫の括り紐を高い一で括っていため、裾がふくらんで見える。 ■軽々しうも見えず 指貫の裾をたくし上げるのは身分の低い者がやることだが、夕霧は軽々しく見えない。 ■しをれたる 「しをる」はたわむ。蹴り上げた鞠が当って、たわんでいるのかもしれない。 ■桜は避きてこそ 「春宮の帯刀陣《たちはきのじん》にて桜の花の散るをよめる/春風は花のあたりをよきて吹け心づからや移ろふと見む」(古今・春下 藤原好風)。「吹く風よ心しあらばこの春は桜はよきて散らさざらなむ」(源氏釈)。 ■宮の御前 女三の宮の居所。寝殿の西側。 ■をさまらぬ 女房たちが部屋の中でじっとしていられず、御簾のきわまで来て見物している。その慎みのない気配。 ■色々こぼれ出でたる 女房たちの色とりどりの衣の裾が御簾の下から外に出ている。 ■透影 御簾を通して見える女房たちの姿。 ■春の手向の幣袋 「春の手向」は春の女神である佐保姫への捧げ物。「幣袋」は神に捧げる「幣」…紙や布の細切れを入れる袋。

朗読・解説:左大臣光永