【若菜上 37】猫が御簾を引き開け、柏木、女三の宮の姿を見る

御|几帳《きちやう》どもしどけなく引きやりつつ、人げ近く世づきてぞ見ゆるに、唐猫《からねこ》のいと小さくをかしげなるを、すこし大きなる猫追ひつづきて、にはかに御簾のつまより走り出づるに、人々おびえ騒ぎてそよそよと身じろきさまよふけはひども、衣《きぬ》の音なひ、耳かしがましき心地す。猫は、まだよく人にもなつかぬにや、綱いと長くつきたりけるを、物にひきかけまつはれにけるを、逃げむとひこじろふほどに、御簾のそばいとあらはに引き開けられたるをとみにひきなほす人もなし。この柱のもとにありつる人々も心あわたたしげにて、もの怖《お》ぢしたるけはひどもなり。

几帳の際《きは》すこし入りたるほどに、袿姿《うちきすがた》にて立ちたまへる人あり。階《はし》より西の二の間《ま》の東《ひむがし》のそばなれば、紛れどころもなくあらはに見入れらる。紅梅にやあらむ、濃き薄きすぎすぎにあまた重なりたるけぢめはなやかに、草子《さうし》のつまのやうに見えて、桜の織物の細長《ほそなが》なるべし。御髪《みぐし》の裾《すそ》までけざやかに見ゆるは、糸をよりかけたるやうになびきて、裾のふさやかにそがれたる、いとうつくしげにて、七八寸ばかりぞあまりたまへる。御衣の裾がちに、いと細くささやかにて、姿つき、髪のかかりたまへるそばめ、いひ知らずあてにらうたげなり。夕影《ゆふかげ》なれば、さやかならず奥暗き心地するも、いと飽かず口惜し。鞠《まり》に身をなぐる若君達《わかきむだち》の、花の散るを惜しみもあへぬけしきどもを見るとて、人々、あらはをふともえ見つけぬなるべし。猫のいたくなけば、見返りたまへる面《おも》もちもてなしなど、いとおいらかにて、若くうつくしの人やとふと見えたり。

大将、いとかたはらいたけれど、はひ寄らんもなかなかいと軽々《かるがる》しければ、ただ心を得させてうちしはぶきたまへるにぞ、やをらひき入りたまふ。さるは、わが心地にも、いと飽かぬ心地したまへど、猫の綱ゆるしつれば心にもあらずうち嘆かる。ましてさばかり心をしめたる衛門督は、胸ふとふたがりて、誰《たれ》ばかりにかはあらむ、ここらの中にしるき袿姿《うちきすがた》よりも人に紛《まぎ》るべくもあらざりつる御けはひなど、心にかかりておぼゆ。さらぬ顔にもてなしたれど、まさに目とどめじや、と大将はいとほしく思さる。わりなき心地の慰めに、猫を招き寄せてかき抱きたれば、いとかうばしくてらうたげにうちなくもなつかしく思ひよそへらるるぞ、すきずきしきや。

大殿《おとど》御覧じおこせて、「上達部の座、いと軽々《かろがろ》しや。こなたにこそ」とて、対《たい》の南面《みなみおもて》に入りたまへれば、みなそなたに参りたまひぬ。宮も、ゐなほりたまひて御物語したまふ。次々の殿上人は、簣子《すのこ》に円座《わらふだ》召して、わざとなく、椿餅《つばいもちひ》、梨《なし》、柑子《かうじ》やうの物ども、さまざまに、箱の蓋《ふた》どもにとりまぜつつあるを、若き人々そぼれとり食ふ。さるべき干物《からもの》ばかりして、御|土器《かはらけ》まゐる。

現代語訳

御几帳などを無作法に部屋の隅に寄せてあって、そこに人の気配が迫っていて、世なれた感じに見えるところに、唐猫のとても小さく可愛らしいのを、すこし大きい猫が追いかけてきて、急に御簾の端から走り出すので、女房たちが、おびえ騷いで、あれあれと身じろぎして、右往左往する気配や、衣ずれの音が、耳にうるさい感じがする。猫は、まだよく人に懐いていないのだろうか、綱をとても長くつけていたのを、物に引っ掛けて、からみついていたので、逃げようと強く引っ張るうちに、御簾の端をそれはもう筒抜けに引き開けられたのだが、それをすぐに引き直す人もいない。この柱のそばにいた人たちも、大慌てのようすで、皆何か怖がっている様子である。

几帳のところから少し入ったあたりに、袿姿で立っていらっしゃる人がある。階から西にニつ目の柱の間の東側の端であるので、紛れようもなく筒抜けに中が見える。紅梅襲だろうか、濃い色薄い色、次々に多くの衣を重ね着している袖口の重なり具合も華やかに、草子の小口のように見えて、上は桜襲の織物の細長にちがいない。御髪の、裾まであざかやに見えているのが、糸をよりかけたように後ろに引かれて、髪の裾がゆたかに切りそろえてあるのが、まことに可愛らしく、地について七八寸ほど余っていらっしゃる。御衣に対して裳の裾が長く余っていて、とてもきゃしゃで小柄で、その姿も、髪がかかっていらっしゃる横顔も、言いようもなく気品があり可愛らしい。夕方の薄暗い光であるので、はっきりとは見えず部屋の奥が暗い感じがするのも、まことに物足りなく、残念ではある。蹴鞠に没頭している若君達の、花の散るのを惜しんでもいられないありさまを見ようとして、女房たちは、すっかり御簾が引き開けられてしまったことに、すぐには気づかないようである。猫がたいそう鳴くので、振り返られた顔立ち、立ち居振る舞いなど、まことにおっとりして、若くて可愛らしい人だなと、直感された。

大将(夕霧)は、ひどくはらはらしたが、御簾を直しにそっと近寄るのも、かえって軽率にすぎるので、ただ気づかせるため咳払いをなさると、宮はそっと中にお入りになられた。大将は、そうすることも、自分自身の気持ちとしても、ひどくもったいない気がなさったが、猫の綱を離したので御簾がもとのように閉じてしまい、思わずため息がもれる。それ以上に、あれほど宮に執着している衛門督(柏木)は、胸がたちまちいっぱいになって、「誰が他にあるだろう、たくさんの女房たちがいる中に、はっきり他と異なる袿姿、そしてそれ以上に、他の人と紛れようもない御気配」など、心にかかって思われるのである。何食わぬ顔をつくろっているが、どうしてあのお姿を見過ごすはずがあろうかと、大将(夕霧)は、宮(女三の宮)のため、おいたわしくお思いになる。衛門督(柏木)は、どうしようもない気持を慰めるため、猫を招き寄せてかき抱くと、まことに香ばしく可愛げに鳴くのにも心惹かれ、あの御方のことが自然と重なって思えるのも、酔狂なことではある。

大殿(源氏)がこちらをご覧になられて、「上達部の座に、ひどく軽々しくお座りになれることよ。こちらに参られよ」と、東の対の南面にお入りになられたので、みなそちらに参られた。宮(兵部卿宮)も、座をお改めになられて、そちらで世間話をなさる。それより身分の低い殿上人たちは、簀子に円座《わろうだ》を敷かせて、むぞうさに、椿餅、梨、柑子といった食物が、さまざまに、数々の蓋の箱の上に取り混ぜて出されたのを、若い人々は戯れながら取って食べている。適当な干物ぐらいを肴として、御酒がふるまわれる。

語句

■しどけなく 無作法に。 ■ひきやり 几帳を部屋の隅に寄せている。 ■唐猫 渡来種の猫。 ■人々 女三の宮つきの女房たち。 ■綱いと長くつきたりける 綱が猫の体にからまりつく。 ■綱いと長くつきたりける 猫の首に綱をつけてある。 ■まつはれにける 綱が猫の体にからみつく。 ■ひこじろふ 「引こじろふ」。強く引っぱる。 ■御簾のそばいとあらはに 猫の首につながった綱が御簾に絡まって引かれて、たまたま中が見える角度に動いた。 ■袿姿 袿は女性の平服。女房たちは主人の前では唐衣を着るので、袿姿であるのは主人であることをしめす。 ■立ちたまへる ふつう貴婦人は座っているもの。蹴鞠を見物するために立ち上がった。 ■階より西のニの間の東のそば 寝殿南面の階より西二つ目の柱と柱の間の東端。 ■紅梅 紅梅襲。表は紅、裏は紫。 ■けぢめ 袖口や袖の衣の重なりの色の具合 ■草子のつま 異なる色の紙を重ねて草子を作る。その重なりがみえている小口の部分。 ■なびきて ここでは風になびいているのでなく、髪の毛が後ろに引っ張られるようになっていること。 ■七八寸 背丈より七八寸髪の毛が長い。一寸は約3センチ。 ■御衣の裾がち 御衣の裳の裾が、身長にたいしてあまりに長い。女三の宮は小柄である。 ■そばめ 側面。横顔。 ■身をなぐる 夢中になること。 ■花の散るを惜しみもあへぬ 鞠が花に当って。 ■人々 女三の宮つきの女房たち。 ■わが心地にも 前に「見たてまつるをりありなむや、とゆかしく思ひきこえたまひけり」(【若菜上 34】)とあった。 ■猫の綱ゆるしつれば 猫の綱を解いたので、御簾ももとどおり閉じてしまった。女三の宮つきの女房が猫の綱を離したか。 ■さばかり心をしめたる 柏木は婿選びから漏れた後も女三の宮に執着していた(【若菜上 35】)。 ■袿姿より 袿姿は女性の平服。女房たちは主人の前では唐衣・裳をまとうので、袿姿の人物は主人以外にありえない。 ■まさに 下に反語を伴い「どうして」。 ■いとかうばしくて 女三の宮の移り香。 ■思ひよそへらるる 猫に女三の宮が重なって思える。 ■すきずきしや 作者の言葉。 ■上達部の座 夕霧と柏木が寝殿の南面に座っていることをいう。本来畏まって控えるべき場所に、軽々しく座っていることを冗談めかして咎めたか。 ■対の南面 東の対の南面。源氏は寝殿の東南の隅で蹴鞠を見ていたが、そこから渡殿を渡って東の対南面の廂の間まで移動し、そちらに皆を招く。寝殿には女三の宮つきの女房たちがいるので男たちに覗かれることを避けたものだろう。 ■円座 藁や菅を渦巻状に丸く編んだ敷物。 ■椿餅 干飯をかためたものの上下を椿の葉で包み、細い紙を帯にして結んだもの。 ■そぼれ 「戯《そぼ》る」は戯れる。 ■干物 魚や貝類の干物。

朗読・解説:左大臣光永