【若菜上 38】柏木、女三の宮を想い悶々とする

衛門督は、いといたく思ひしめりて、ややもすれば、花の木に目をつけてながめやる。大将は、心知りに、あやしかりつる御簾《みす》の 透影《すきかげ》思ひ出づることやあらむと思ひたまふ。いと端近《はしぢか》なりつるありさまを、かつは軽々《かろがろ》しと思ふらむかし。いでや、こなたの御ありさまのさはあるまじかめるものを、と思ふに、かかればこそ世のおぼえのほどよりは、内々の御心ざしぬるきやうにはありけれ、と思ひあはせて、なほ内外《うちと》の用意多からずいはけなきは、らうたきやうなれどうしろめたきやうなりや、と思ひおとさる。

宰相《さいしやう》の君は、よろづの罪をもをさをさたどられず、おぼえぬ物の隙《ひま》より、ほのかにも、それと見たてまつりつるにも、わが昔よりの心ざしのしるしあるべきにやと契りうれしき心地して、飽かずのみおぼゆ。

院は、昔物語し出でたまひて、「太政大臣《おほきおとど》の、よろづのことにたち並びて勝負《かちまけ》の定めしたまひし中に、鞠な《まり》むえ及ばずなりにし。はかなきことは伝へあるまじけれど、ものの筋はなほこよなかりけり。いと目も及ばずかしこうこそ見えつれ」とのたまへば、うちほほ笑みて、「はかばかしき方にはぬるくはべる家の風の、さしも吹き伝へはべらむに、後《のち》の世のためことなることなくこそはべりぬべけれ」と申したまへば、「いかでか。何ごとも人に異《こと》なるけぢめをば記《しる》し伝ふべきなり。家の伝へなどに書きとどめ入れたらむこそ、興はあらめ」など戯《たはぶ》れたまふ御さまの、にほひやかにきよらなるを見たてまつるにも、「かかる人に並びて、いかばかりのことにか心を移す人はものしたまはん。何ごとにつけてか、あはれと見ゆるしたまふばかりはなびかしきこゆべき」と思ひめぐらすに、いとどこよなく御あたりはるかなるべき身のほども思ひ知らるれば、胸のみふたがりてまかでたまひぬ。

現代語訳

衛門督(柏木)は、もうすっかりうちしおれてしまって、どうかすると、桜花の木に目をやって、ぼんやり眺めている。大将(夕霧)は、その意中がわかっているので、さきほど妙なはずみで垣間見た御簾の透影を思い出しているのだろう、とお思いになる。ひどく部屋の端近くにいらした宮(女三の宮)のありさまを、大将は、一方では軽率だと思っているようである。さて、それにしても、こちらの対の上(紫の上)のお立ち居振る舞いは、けしてそんなふうではなかろうに、と思うにつけ、こうだからこそ、父大殿(源氏)は、宮(女三の宮)が世間からの評価が高いわりには、内々のご愛情は薄いようであるのだろう、と合点がいき、やはり内外の気配りが十分でなく幼いことは、可愛らしいようではあるが、また残念なようでもあるよと、宮(女三の宮)に対する評価をついお下げになる。

宰相の君(柏木)は、宮(女三の宮)については、どんな欠点にも少しも気がつかず、思わず物の陰から、ほんの少しでも、それと拝見したことにつけても、自分の昔からの気持がかなえられるしるしではなかろうかと、前世からの宿縁を思うにつけ嬉しくなって、いつまで宮のことを想っていても想い足りない。

院(源氏)は、思い出話をお始めになって、(源氏)「太政大臣が、万事私と肩をならべて勝ち負けの争いをなさったが、その中で、私は蹴鞠だけは、とても叶いませんでした。こうしたささやかな遊び事には、秘伝というものはないだろうが、名人の血筋は、やはり見事なものでしたよ。まったく私には及びもつかぬほど、上手に見えました」とおっしゃると、衛門督(柏木)は苦笑して、(柏木)「実務上のしっかりした方面にはぬるく吹いておりますわが家の風が、そのような他愛も無い方面に吹き伝わっておりますことは、子孫のためには別段役に立つこともないようですな」と申されると、(源氏)「どうしてそんな。何ごとも人と異なるところは記録し、後世に伝えるべきなのだ。家の伝えなどに書き残し入れるのは、たいそう面白いだろうよ」などとお戯れになるご様子の、美しげに清らかであるのを拝見するにつけても、(柏木)「このような人を夫としていながら、どれほどのことに、心を移す人がいらっしゃるだろうか。いったい何ごとにつけて、私のことをいじらしいと見てお許しになっていただける程度には、お心を動かし申しあげることができようか」と思いめぐらすにつけ、ますますこの上もなく、宮(女三の宮)のおそばから遠くかけ離れた身のほども思い知られるので、胸がいっぱいになるばかりで、退出なさった。

語句

■ながめやる たまたま垣間見た女三の宮の姿に圧倒され、呆然と立ち尽くしている。 ■さはあるまじかめる 紫の上は女三の宮のように軽率に人前に姿を見せるようなことはしないというのである。 ■よろづの罪をもをさをさたどられず 柏木は女三の宮に夢中で、その軽率な振る舞いなど気にならない。 ■物の隙 簾の隙間。 ■わが昔よりの心ざしのしるしあるべきにや 柏木は、偶然女三の宮の姿を垣間見ることができたのを、わが念願が成就する前兆かと、都合よく解釈する。 ■太政大臣 柏木の父。 ■ものの筋 柏木の蹴鞠の技量がすぐれていることを父太政大臣を引き合いに出してほめる。 ■目も及ばず とても味わい尽くすことができないほど造詣が深いこと。 ■はかばかしき方 実務上のこと。 ■家の風 参考「久方の月の桂も折るばかり家の風をも吹かせてしがな」(拾遺・雑上 菅原道真の母)。 ■いかでか 下に「さはあらん」などを補い読む。 ■かかる人に並びて 柏木は源氏と自分の間の途方もない落差を実感して絶望する。 ■御あたりはるかなるべき身のほど 柏木はかつて官位が低いことを理由に女三の宮への求婚を退けられたことを根に持っている(【若菜上 35】)。

朗読・解説:左大臣光永