【若菜下 13】源氏、女三の宮に琴を熱心に教える

宮は、もとより琴《きん》の御|琴《こと》をなん習ひたまひけるを、いと若くて院にもひきわかれたてまつりたまひにしかば、おぼつかなく思して、「参りたまはむついでに、かの御|琴《こと》の音《ね》なむ聞かまほしき。さりとも琴《きん》ばかりは弾《ひ》きとりたまへらん」と、後言《しりうごと》に聞こえたまひけるを、内裏《うち》にも聞こしめして、「げに、さりとも、けはひことならむかし。院の御前《おまへ》にて、手尽くしたまはむついでに、参り来て聞かばや」などのたまはせけるを、大殿《おとど》の君は伝へ聞きたまひて、「年ごろさりぬべきついでごとには、教へきこゆることもあるを、そのけはひはげにまさりたまひにたれど、まだ聞こしめしどころあるもの深き手には及ばぬを、何心もなくて参りたまへらんついでに、聞こしめさんとゆるしなくゆかしがらせたまはんは、いとはしたなかるべきことにも」と、いとほしく思して、このごろぞ御心とどめて教へきこえたまふ。

調《しら》べことなる手二つ三つ、おもしろき大曲《だいごく》どもの、四季につけて変るべき響き、空の寒さ温《ぬる》さを調べ出でて、やむごとなかるべき手のかぎりを、とりたてて教へきこえたまふに、心もとなくおはするやうなれど、やうやう心得たまふままに、いとよくなりたまふ。「昼はいと人|繁《しげ》く、なほ一《ひと》たびも揺《ゆ》し按《あん》ずるいとまも心あわたたしければ、夜《よる》々なむ静かに事の心も染《し》めたてまつるべき」とて、対にも、そのころは御|暇《いとま》聞こえたまひて、明け暮れ教へきこえたまふ。

現代語訳

宮は、もともと朱雀院から琴の御琴をお習いになっておられたが、たいそう若い時に院とお別れ申されたので、朱雀院は気がかりにお思いになられて、(朱雀院)「お越しになられるついでに、あの御琴の音をぜひ聞きたいものだ。いくらなんでも琴ぐらいは上達していらっしゃるだろう」と、内々に申されていらしたのを、帝もお耳にされて、(帝)「仰せのとおり、いくらなんでも、上達具合は、昔と違っているだろう。院の御前で、手を尽くしてお弾きになる機会に、私も参って、聞きたいものです」など仰せになっておられたのを、大殿の君(源氏)は伝え聞かれて、(源氏)「長年しかるべき機会ごとには、お教え申し上げることもあったが、上達具合はなるほど、昔よりよくはなられたが、まだ人にお聞かせしがいがあるほどの神妙さには程遠い。それなのに、宮(女三の宮)が何の準備も考えもなくおうかがいになる、そういう機会に、院や帝がお聞きになりたいと、是非にとご所望あそばすのでは、宮(女三の宮)は、ひどく恥をおかきになるようなことにもなろう」と、気の毒にお思いになり、最近は御心を入れて宮(女三の宮)に琴をお教えになっておられる。

調べの異なる曲を二つ三つ、それはおもしろい大曲で、四季おりおりに変わる響きであるが、空気の寒暖に応じて調子を調えて、秘曲のかぎりを、とくに念入りに教え申し上げなさると、宮は、心ここにあらずというふうにしてはいらしゃるが、それでも次第に会得なさるにつれて、とてもよくおなりである。(源氏)「昼はとても人の出入りが多いので、私につづけて宮がもう一度揺らし弾いたりする間でさえも気持が落ち着かないので、あえて夜ごと静かな時に、うまく上達されるようにしてさしあげましょう」といって、対(紫の上)にも、その頃は、御暇申し上げなさって、明けても暮れても、宮に琴をお教え申し上げていらっしゃる。

語句

■たまひにしかば 「たまひしかば」とする本もある。 ■おぼつかなく 朱雀院は、女三の宮の琴が上達していないことを危惧する。それは、六条院で女三の宮が冷遇されている証ともなるので、なおさら気にかかる。 ■さりとも 自分(朱雀院)は女三の宮に琴をじゅうぶんに伝授できずに別れてしまったが、琴の名手である源氏の正妻となって六年にもなるので、いくらなんでも上達しているだろうの意。逆に上達していなければ、源氏の女三の宮に対する愛情が薄いことの証ともなる。それを確かめようという気持。 ■弾きとり 源氏から直伝で女三の宮の琴が上達している期待。 ■後言に 朱雀院は内心、源氏が女三の宮を冷遇しているのではないかという不安があるので「後言」という後ろめたい言葉が出る。 ■参り来て 「来」は「行く」の意。朱雀院の立場から見ていう。 ■教えきこゆることもあるを 「こともある」は、それほど熱心に教えてはこなかったの意をふくむ。 ■何心もなくて参りたまへらむ 女三の宮が何の稽古もせずに出向いたら。 ■いとはしたなかるべきこと 女三の宮が恥をかけば、朱雀院の源氏に対する評価も下がる。源氏としては大問題である。 ■大曲 舞楽の小単位を帖といい、一帖だけのものを小曲、数帖あるものを中曲、十数帖あるものを大曲というらしい。 ■やむごとなかるべき手 秘曲。 ■揺し按ずる 「揺す」も「按ず」も琴の奏法。「揺す」は弦を左手で押さえてゆすって音を出すこと。「按ず」は未詳。 ■そのころは 紫の上は、ただでさえ最近源氏の訪れが途絶えがちであることを嘆いていた(【若菜下 11】)。

朗読・解説:左大臣光永