【若菜下 27】柏木と女三の宮、それぞれ罪の意識にさいなまれる

女宮の御もとにも参《ま》うでたまはで、大殿へぞ忍びておはしぬる。うち臥《ふ》したれど目もあはず、見つる夢のさだかにあはむことも難《かた》きをさへ思ふに、かの猫のありしさま、いと恋しく思ひ出でらる。さてもいみじき過ちしつる身かな、世にあらむことこそまばゆくなりぬれ、と恐ろしくそら恥づかしき心地して、歩《あり》きなどもしたまはず。女の御ためはさらにもいはず、わが心地にもいとあるまじきことといふ中にも、むくつけくおぼゆれば、思ひのままにもえ紛れ歩《あり》かず。帝の御妻《みめ》をもとり過《あやま》ちて、事の聞こえあらむにかばかりおぼえむことゆゑは、身のいたづらにならむ苦しくおぼゆまじ。しかいちじるき罪には当たらずとも、この院に目をそばめられたてまつらむことは、いと恐ろしく恥づかしくおぼゆ。

限りなき女と聞こゆれど、すこし世づきたる心ばへまじり、上《うへ》はゆゑあり、児《こ》めかしきにも従はぬ下《した》の心添ひたるこそ、とあることかかることにうちなびき、心かはしたまふたぐひもありけれ、これは深き心もおはせねど、ひたおもむきにもの怖《お》ぢしたまへる御心に、ただ今しも人の見聞きつけたらむやうにまばゆく恥づかしく思さるれば、明《あ》かき所にだにえゐざり出でたまはず。いと口惜しき身なりけり、とみづから思し知るべし。

悩《なや》ましげになむとありければ、大殿《おとど》聞きたまひて、いみじく御心を尽くしたまふ御事にうち添へて、またいかにと驚かせたまひて渡りたまへり。そこはかと苦しげなることも見えたまはず、いといたく恥ぢらひしめりて、さやかにも見あはせたてまつりたまはぬを、久しくなりぬる絶《た》え間《ま》を恨めしく思すにやといとほしくて、かの御心地のさまなど聞こえたまひて、「いまはのとぢめにもこそあれ。今さらにおろかなるさまを見えおかれじとてなむ。いはけなかりしほどよりあつかひそめて見放ちがたければ、かう、月ごろよろづを知らぬさまに過ぐしはべるにこそ。おのづから、このほど過ぎば、見なほしたまひてむ」など聞こえたまふ。かく、けしきも知りたまはぬもいとほしく心苦しく思されて、宮は、人知れず涙ぐましく思さる。

督《かむ》の君は、まして、なかなかなる心地のみまさりて、起き臥《ふ》し明かし暮らしわびたまふ。祭の日などは、物見にあらそひ行く君達《きむだち》かき連れ来て言ひそそのかせど、悩ましげにもてなして、ながめ臥したまへり。女宮をば、かしこまりおきたるさまにもてなしきこえて、をさをさうちとけても見えたてまつりたまはず、わが方に離れゐて、いとつれづれに心細くながめゐたまへるに、童《わらは》べの持たる葵《あふひ》を見たまひて、

くやしくぞつみをかしけるあふひ草神のゆるせるかざしならぬに

と思ふもいとなかなかなり。世の中静かならぬ車の音《おと》などをよそのことに聞きて、人やりならぬつれづれに、暮らしがたくおぼゆ。

女宮も、かかる気色のすさまじげさも見知られたまへば、何ごととは知りたまはねど、恥づかしくめざましきに、もの思はしくぞ思されける。女房なども物見にみな出でて人少なにのどやかなれば、うちながめて、箏《さう》の琴《こと》なつかしく弾きまさぐりておはするけはひも、さすがにあてになまめかしけれど、同じくは、いま一際及ばざりける宿世《すくせ》よ、となほおぼゆ。

もろかづら落葉をなににひろひけむ名は睦《むつ》ましきかざしなれども

と書きすさびゐたる、いとなめげなる後言《しりうごと》なりかし。

現代語訳

衛門督(柏木)は、女宮(女ニの宮)の御もとにもお立ち寄りにならず、大殿のお邸へそっとお帰りになった。横になっても眠られず、さっき見た夢が実現することも難しいことをさえ思うと、あの夢の中の猫のありさまが、まことに恋しく思い出される。それにしてもとんでもない過ちを犯した身であるよ、この先、この世間を生きていくことさえ後ろめたくなってしまった、と恐ろしく、なんとなく恥ずかしい気持ちがして、外出などもなさらない。女三の宮の御ためには今さら言うまでもなく、自分自身の気持ちとしても、ひどくとんでもないことをしてしまったと思う上に、気味悪くも思われるので、思いのままの忍び歩きなどできるはずもない。

帝の御后と過ちを犯して、事が発覚した場合にも、ここまで苦しい恋煩いをするぐらいだったら、そのせいで命を棄てることになったとしても、辛くはないだろう。そこまでの大罪には当たらないとしても、この院(源氏)に目をつけられることはひどく恐ろしく、居心地が悪いものに思われる。

最高の身分の女と申したところで、すこしは男性との交際に馴れた感じがまじっていて、うわべは優雅でおっとりしているが、本心はそうでもなく、あれやこれやとなびいて、結局は男と心をお交わしになるたぐいもあったのだが、この人は思慮深さをお持ちでもないが、ひたすらに物怖じなさるご性分で、すでに事の次第が人に露見したようにお考えになって、顔も上げられず、恥ずかしくお思いになっていらっしゃるので、明るい所ににじり出てくることさえおできにならない。ひどく残念なわが身であることよと、みずから思い知っていらっしゃるようである。

女三の宮がご気分が悪くていらっしゃるいうことなので、大殿(源氏)がお聞きになられて、ひどく御心をお尽くしになっていらっしゃる御事(紫の上の病気)に加えて、またこれはどうしたことかと驚かれて、おいでになられた。どこといって苦しそうな様子もお見えにならず、まことにひどく恥じらい沈んで、はっきりと目をお合わしにもなられないのを、長く訪れが途絶えていることを恨めしくお思いになっていらっしゃるのかと意地らしくお思いになって、かの人(紫の上)のご容態などをお伝え申されて、(源氏)「最期の時かもしれないと懸念されるのです。最後の土壇場に粗略な扱いをするわけにはいかないでしょう。あの方(紫の上)は、幼い頃からお世話をしはじめて、見過ごすことができないので、このように、何ヶ月も他のことには一切かまわなように過ごしてまいりました。おのづと、この時期がすぎれば、私の気持ちも自然と見直していただけましょう」など申し上げなさる。このように、院(源氏)が事情もご存知でないことも気の毒に、心苦しいことにお思いになられて、宮(女三の宮)は、人知れず涙ぐましくお思いになる。

督の君(柏木)は、宮(女三の宮)よりいっそう、逢瀬をとげてしまったゆえに、かえって物思いが深くなり、起きても寝ても明けても暮れても、わびしくお過ごしになっていらっしゃる。祭(賀茂祭)の日などは、見物に争い行く君達が連れ立って来て、誘うけれど、気分が悪そうに言いつくろって、ぼんやり物思いにふけって横になっていらっしゃる。女宮(女二の宮)を、体裁をとりつくろうようにお世話申し上げて、そうそう気を許しては御覧になられず、離れの自室に籠もって、ひどく所在なく心細く物思いに沈んでいらっしゃる時、童の持っている葵を御覧になられて、

くやしくぞ……

(悔しくも罪を犯してしまったことだ。葵草を摘んでしまったが、これを私がかざすことは神がお許しにならないだろうに)

と思うのも、なまじ逢瀬を遂げてしまったがゆえのお悩みである。世間の騒がしい車の音などをよそごとに聞いて、誰に訴えようもない、自ら招いたやるせなさなさに、日々を過ごすのもつらく思われる。

女宮(女二の宮)も、このように督の君(柏木)のつまらなさそうな様子もおわかりになられるので、どういう事情かはご存知でないが、自分のせいのように思えて恥ずかしく、目もあわせられず、物思いに沈んでいらっしゃる。女房などもみな見物に出て人が少なく邸の内は閑散としているので、物思いにふけって、箏の琴をやさしくすさび弾いていらっしゃるご様子も、三の宮には劣るといえそれでもやはり、上品で優美ではあるが、「どうせ同じ血筋なら、もう一段上の女三の宮と一緒になりたかったのに、そうはならなかった運命のつたなさよ」と、督の君(柏木)は、やはりそう思われるのだ。

(柏木)もろかづら……

(祭に使う葵と桂のかざしのうち、どうして落葉のように劣った姉のほうを、私は拾ってしまったのだ。世間的な評判は、どちらも高い、仲のよい姉妹ではあるが)

と手すさびに書きちらしているのは、ひどく無礼な陰口ではある。

語句

■女宮 柏木の正室、女ニの宮。 ■大殿 柏木の父・致仕の大臣の邸。 ■忍びて 早朝で、女のもとからの帰りであることがわかるので、こそこそと帰る。 ■夢のさだかにあはむ さっき見た猫の夢が正夢になること。懐妊をさす。 ■いと恋しく 柏木はこの猫を女三の宮のかわりにかわいがっていた。 ■過ちしつる 一夜明け、柏木は昨夜の行いを「過ち」と認識するだけの理性を取り戻している。 ■世にあらむこと 昨夜は「わが身も世に経るさまならず、跡絶えてやみなばや」(【若菜下 26】)とまで言っていたが、夜が明けてやや冷静になっている。 ■歩きなどもしたまはず 外出もせず引きこもってしまう。 ■帝の御妻をも… 文意難解。帝の妻と不祥事を起こしてそれが発覚した場合には死罪になる。だが恋煩いの苦しさを思えばむしろ死罪になっても辛くはないの意。ここまで持って回った言い方をする必要がない。 ■しかいちじるしき罪には当たらずとも 源氏の妻と密通を犯すことは天皇の妻と密通を犯すことに比べたら罪が浅いが、それでもの意。 ■限りなき女と聞こゆれど… 以下、「ありけれ」まで一般論。源氏物語の文章は一般論と個別論がぐちゃぐちゃに入り交じるので、非常に読みづらい。 ■世づきたる心ばへ 男性との交際に馴れている感じ。 ■心かはしたまふたぐひ 『伊勢物語』における、在原業平と高子の例が念頭にあるか。 ■これは… ここ以前が一般論。以下、女三の宮についての個別論。 ■ただ今しも… 密通がもう発覚したのではないかと恐れる気持ち。 ■まばゆく恥づかしく 前の「世にあらむことこそまばゆくなりぬれ、と恐ろしくそら恥づかしき心地して」と照応。 ■悩ましげに 女三の宮がふさぎこんでいるのを女房たちは病気とみて二条院にいる源氏に報告。 ■いみじく御心を尽くしたまふ御事 紫の上の大病。 ■いといたく恥ぢひしめりて 柏木との密通を恥じて源氏に顔合わせできない。 ■久しくなりぬる絶え間を… ここしばらく源氏は紫の上の看病で二条院に籠もっていた。女三の宮への訪問は途絶えていた。そのことにすねているのかと、源氏は意地らしく思う。 ■かの御心地のさま 紫の上の病状。 ■もこそあれ 「もこそ」は懸念する気持ち。 ■月ごろ 紫の上の発病は一月下旬。約三ヶ月間、源氏は二条院でつきっきりで看病している。 ■このほど過ぎば 紫の上が亡くなるか回復するかすれば。 ■いとほしく 前の源氏の「いとほしくて」と照応。 ■なかなかなる心地 前に「なかなか思ひ乱るることもまさるべきことまでは思ひも寄らず」(【若菜下 26】)とあった。 ■祭 賀茂祭。四月中の酉の日。 ■ながめ臥したまへり 前も「歩きなどもしたまはず」とあった。 ■女宮 女二の宮。柏木の正室。 ■葵 賀茂祭では葵と桂の葉を冠や車にかざす。 ■くやしくぞ… 「つみ」に「罪」と「摘み」を、「あふひ」に「葵」と「逢ふ日」を、「神」に源氏を見立てる。神に等しき源氏に罪が露呈することへのおののき。 ■世の中静かならぬ車の音 祭の日の楽しげな雰囲気と対照的に、柏木はふさぎこんでいる。 ■恥づかしく 夫の柏木が塞ぎ込んでいるのは妻である自分に原因があるのだと勝手に思いこんでいる。 ■もの思はしく 女二の宮も柏木の物思いに引き込まれる。源氏物語の登場人物はどこまでも際限なく悩みつづけ、しかも周囲をまきこむので、物思いがどんどん伝染していく。きりがない。 ■もろかづら… 「もろかづら」は祭に用いる葵と桂の葛。女二の宮と女三の宮を想定。本命の女三の宮と結婚できずに落ち葉のように劣った女二の宮と結婚してしまった不幸を呪う。この歌によりこの宮を落葉の宮と称す。 ■なめげなる 「なめげ」は無礼だ、失礼だ。

朗読・解説:左大臣光永

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