【若菜下 26】柏木、小侍従の手引で女三の宮の寝所に侵入

いかにいかにと日々に責められ困《こう》じて、さるべきをりうかがひつけて、消息《せうそこ》しおこせたり。よろこびながら、いみじくやつれ忍びておはしぬ。まことに、わが心にもいとけしからぬ事なれば、け近く、なかなか思ひ乱るることもまさるべきことまでは思ひも寄らず、ただ、いとほのかに、御|衣《ぞ》のつまばかりを見たてまつりし春の夕《ゆうべ》の飽かず世とともに思ひ出でられたまふ御ありさまをすこしけ近くて見たてまつり、思ふことをも聞こえ知らせてば、一行《ひとくだり》の御返りなどもや見せたまふ、あはれとや思し知るとぞ思ひける。

四月十余日ばかりのことなり。御禊《みそぎ》、明日《あす》とて、斎院に奉りたまふ女房十二人、ことに上臈《じやうらふ》にはあらぬ若き人、わらべなど、おのがじし物縫ひ化粧《けさう》などしつつ、物見むと思ひまうくるも、とりどりに暇《いとま》なげにて、御前《おまへ》の方しめやかにて、人しげからぬをりなりけり。近くさぶらふ按察《あぜち》の君も、時々通ふ源中将せめて呼び出ださせければ、下《お》りたる間《ま》に、ただ、この侍従《じじゆう》ばかり近くはさぶらふなりけり。よきをりと思ひて、やをら御帳《みちやう》の東面《ひむがしおもて》の御座《おまし》の端《はし》に据ゑつ。さまでもあるべき事なりやは。

宮は、何心もなく大殿籠《おほとのごも》りにけるを、近く男のけはひのすれば、院のおはすると思したるに、うちかしこまりたる気色見せて、床《ゆか》の下《しも》に抱《いだ》きおろしたてまつるに、物におそはるるかと、せめて見あけたまへれば、あらぬ人なりけり。あやしく聞きも知らぬことどもをぞ聞こゆるや。あさましくむくつけくなりて、人召せど、近くもさぶらはねば、聞きつけて参るもなし。わななきたまふさま、水のやうに汗も流れて、ものもおぼえたまはぬ気色、いとあはれにらうたげなり。「数ならねど、いとかうしも思しめさるべき身とは、思ひたまへられずなむ。昔よりおほけなき心のはべりしを、ひたぶるに籠《こ》めてやみはべりなましかば、心の中《うち》に朽《くた》して過ぎぬべかりけるを、なかなか漏らし聞こえさせて、院にも聞こしめされにしを、こよなくもて離れてものたまはせざりけるに、頼みをかけそめはべりて、身の数ならぬ一際《ひときは》に、人より深き心ざしをむなしくなしはべりぬることと動かしはべりにし心なむ、よろづ今はかひなきことと思うたまへ返せど、いかばかりしみはべりにけるにか、年月にそへて、口惜しくも、つらくも、むくつけくも、あはれにも、いろいろに深く思うたまへまさるにせきかねて、かくおほけなきさまを御覧ぜられぬるも、かつはいと思ひやりなく恥づかしければ、罪重き心もさらにはべるまじ」と言ひもてゆくに、この人なりけり、と思すに、いとめざましく恐ろしくて、つゆ答《いら》へもしたまはず。「いとことわりなれど、世に例《ためし》なきことにもはべらぬを、めづらかに情《なさけ》なき御心ばへならば、いと心うくて、なかなかひたぶるなる心もこそつきはべれ。あはれ、とだにのたまはせば、それを承りてまかでなむ」とよろづに聞こえたまふ。

よその思ひやりはいつくしく、もの馴《な》れて見えたてまつらむも恥づかしく推《お》しはかられたまふに、ただかばかり思ひつめたる片はし聞こえ知らせて、なかなかかけかけしき事はなくてやみなん、と思ひしかど、いとさばかり気《け》高う恥づかしげにはあらで、なつかしくらうたげに、やはやはとのみ見えたまふ御けはひの、あてにいみじく思ゆることぞ、人に似させたまはざりける。さかしく思ひしづむる心もうせて、いづちもいづちも率《ゐ》て隠したてまつりて、わが身も世に経るさまならず、跡絶えてやみなばや、とまで思ひ乱れぬ。

ただいささかまどろむともなき夢に、この手《て》馴らしし猫のいとらうたげにうちなきて来たるを、この宮に奉らむとてわが率《ゐ》て来たると思しきを、何しに奉りつらむ、と思ふほどに、おどろきて、いかに見えつるならむと思ふ。

宮は、いとあさましく、現《うつつ》ともおぼえたまはぬに、胸ふたがりて思しおぼほるるを、「なほ、かく、のがれぬ御|宿世《すくせ》の浅からざりける、と思ほしなせ。みづからの心ながらも、うつし心にはあらずなむおぼえはべる」。かのおぼえなかりし、御簾《みす》のつまを猫の綱ひきたりし夕《ゆふべ》のことも、聞こえ出でたり。げに、さはたありけむよ、と口惜《くちを》しく、契《ちぎ》り心憂き御身なりけり。院にも、今は、いかでかは見えたてまつらむ、と悲しく心細くていと幼げに泣きたまふを、いとかたじけなく、あはれ、と見たてまつりて、人の御涙をさへ拭ふ袖《そで》は、いとど露けさのみまさる。

明けゆくけしきなるに、出でむ方なく、なかなかなり。「いかがはしはべるべき。いみじく憎ませたまへば、また聞こえさせむこともあり難きを、ただ一言《ひとこと》御声を聞かせたまへ」と、よろづに聞こえ悩ますも、うるさくわびしくて、もののさらに言はれたまはねば、「はてはては、むくつけくこそなりはべりぬれ。またかかるやうはあらじ」と、いとうしと思ひきこえて、「さらば不用《ふよう》なめり。身をいたづらにやはなしはてぬ。いと棄てがたきによりてこそ、かくまでもはべれ、今宵《こよひ》に限りはべりなむもいみじくなむ。つゆにても御心ゆるしたまふさまならば、それにかへつるにても棄てはべりなまし」とて、かき抱《いだ》きて出づるに、はてはいかにしつるぞ、とあきれて思さる。隅《すみ》の間《ま》の屏風《びやうぶ》をひきひろげて、戸を押し開《あ》けたれば、渡殿《わたどの》の南の戸の、昨夜《よべ》入りしがまだ開きながらあるに、まだ明けぐれのほどなるべし、ほのかに見たてまつらんの心あれば、格子《かうし》をやをら引き上げて、「かう、いとつらき御心にうつし心も失せはべりぬ。すこし思ひのどめよと思されば、あはれ、とだにのたまはせよ」と、おどしきこゆるを、いとめづらかなり、と思して、ものも言はむとしたまへど、わななかれて、いと若々しき御さまなり。

ただ明けに明けゆくに、いと心あわたたしくて、「あはれなる夢語《ゆめがたり》も聞こえさすべきを、かく憎ませたまへばこそ。さりとも、いま、思しあはすることもはべりなむ」とて、のどかならず立ち出づる明けぐれ、秋の空よりも心づくしなり。

起きてゆく空も知られぬあけぐれにいづくの露のかかる袖なり

と、ひき出でて愁へきこゆれば、出でなむとするにすこし慰めたまひて、

あけぐれの空にうき身は消えななむ夢なりけりと見てもやむべく

とはかなげにのたまふ声の、若くをかしげなるを、聞きさすやうにて出でぬる魂《たましひ》は、まことに身を離れてとまりぬる心地す。

現代語訳

小侍従は衛門督(柏木)から「どうなっている、どうなっている」と日々求められて困って、よい機会をようやく見つけ出し、衛門督に連絡をよこしてきた。衛門督はよろこびながら、たいそう身をやつして忍んでおいでになった。実際、我ながらひどくけしからぬ事とは思うが、宮(女三の宮)の間近に近寄れば、思い乱れる気持ちもかえって強くなるだろうことまでは想像もつかず、ただ、ほんのすこし、御衣の端だけでも、かつて拝見した春の夕べのことが、長い年月にわたって忘れられず思い出されていらっしゃる、あのお姿を、もう少し近くで拝見して、思うことをもお伝え申し上げたら、一行の御返事などもお見せくださらないだろうか、私のことを不憫とお感じになってくださらないだろうか、と思ったのだった。

四月十日すぎあたりのことであった。賀茂祭前の御禊を明日にひかえて、斎院にご奉仕なさる女房十二人、それほど上臈というわけではない若い女房、女童など、めいめいお召し物を塗って化粧などしては、禊見物に出ようと準備しているのも、それぞれに忙しそうで、宮(女三の宮)の御前のあたりはひっそりして、人が少ない折なのであった。近くにお仕えする按察使の君も、時々通っている源中将がしきりに求めてきて呼び出されたので、局に下っている間に、ただ、この小侍従だけが宮の御前近くにお仕えしているのだった。よい折と思って、そっと御帳の東面の御座の端に衛門督(柏木)を座らせてしまった。実際そこまでやる必要があったのだろうか。

宮は、何のご心配もなくお休みになっていらしたが、近くに男の気配がするので、院(源氏)がおいでになったと思っていると、かしこまった様子を見せて、御帳の床の下に抱きおろし申し上げるので、なにかに襲われたのかと、しいて目をお開けになると、別人であった。奇妙な、聞いたこともないことをあれこれ申し上げるのである。呆れて、気味が悪くなって、人を召しても、近くに誰もお仕えしていないので、聞きつけて参る者もない。わなわなとふるえていらっしゃる様子、水のように汗も流れて、気も失わんばかりのご様子は、まことに意地らしく、可愛らしい。(柏木)「数にも入らぬ私ですが、貴女にここまでお認めいただけぬような身とは、私には思えぬのです。昔から分不相応な想いを貴女に対して懐いておりましたが、その気持をひたすらに押し殺して終わりにしておけば、心の中に朽ちはててしまったでしょうに、なまじ私の希望を申し上げ、朱雀院もそれをお耳になされまして、まったく話にもならない者とは仰せになられませんでしたので、それに期待をかけるようになりまして、私の、数にも入らない身分の低さというただ一点のために、ほかの人より深い気持ちを、むなしく終わらせてしまったことと、口惜しさに心かき乱されましたことが、万事今はかいのないことと思い返しても、どれほど私が貴女のことを想ってございましたか、年月が重なるにつれて、残念にも、つらくも、恐ろしくも、せつなくも、さまざまに深く思いがつのるのに耐えられなくなって、こうして分不相応なさまを御覧に入れましたことも、一方ではひどく思いやりがなく恥ずかしく存ぜられますので、これい以上だいそれた罪深い考えなど、まったくあるはずもございません」と言いつづけていくので、宮は「この人だ」とおわかりになられたので、ひどく不快で恐ろしくて、一言もお答えにならない。

(柏木)「ご動揺なさるのも実に道理ではございますが、こうしたことは世に例のないことでもないのでございますから、貴女が私に対して『滅多にない事、情けない事』というお気持ちならば、私はひどく憂鬱で、かえって一途な想いも加わってしまいます。『不憫な』と一言なりともおっしゃってくだされば、それをお聞きしてから私は立ち去りましょう」と、万事あれこれと申し上げなさる。

よそながらの想像では、威厳があり、馴れ馴れしくお逢いすることも気後れするだろうと思われる方でいらしたので、ただこれほどまでに思い詰めている気持ちの片端だけでもお伝えして、そんな色めいたことなどは一切ないまま、終わりにしようと思っていたが、あれほど想像していたように気高く気後れうるような感じではまったくなくて、優しく、可愛らしく、なよなよとばかりお見えになるご様子が、上品に美しく思えることは、誰と比べようもない有様でいらっしゃるのだった。分別くさく自分の気持ちを抑えていた気持ちも失せて、どこへでもいいから宮をお連れしてお隠し申し、自分もこの世の暮らしとはうって変わって、姿をくらましてみようか、とまで思い乱れた。

ほんのすこし、うとうとしていたというほどでもない夢の中に、あの馴らしていた猫がまことに可愛らしく鳴いて入ってきたのを、「この宮にお返ししようと私が連れてきたのだ」と思ったが、「なんのために差し上げようというのだろう」と思っているうちに、目が覚めて、どうしてこんな夢を見たのだろうか、と思う。

宮(女三の宮)は、ひどく呆れて、現実とも思えないというお気持ちで、胸がつまって困惑していらっしゃるのを、(柏木)「やはり、こうして、逃れることのできない御運命が、浅くはなかったのだと、おあきらめなさいませ。私自身も正気の沙汰とは思えません」と、あの、宮にとっては思いもよらなかった、御簾のはしを猫が綱を引いた夕べのことも、話に出して申し上げた。なるほど、そういうこともあったのだと、残念で、前世からの宿縁が残念な御身であったことよ。院(源氏)にも、今は、どうやってお目にかかることができようと、悲しく心細くて、ひどく幼なげにお泣きになるのを、衛門督(柏木)は、ひどく申し訳なく、不憫に拝見して、自分の涙ばかりでなく宮の御涙までもぬぐってやるその袖は、ますます涙に濡れる一方なのであった。

夜が明けていく様子であるが、立ち去りようもなく、なまじの逢瀬だけに、かえって心残りがたえない。(柏木)「私はどうすればよいのでしょう。私をひどくお憎みでいらっしゃいますから、もう二度とお目にかかって申し上げることも難しいと存ぜられますが、ただ一声、御声をおきかせください」と、さまざまに申し上げ、宮を悩ませることも、煩わしく、つらいお気持ちで、一言もおっしゃらないので、(柏木)「最後には、私は気持ち悪くまでなってしまいました。貴方ほどひどい人はありません」と、ひどくひどくつれないことと思い申して、(柏木)「それならもう生きていても仕方がないようです。私はついには死んでしまいましょう。貴女にお会いできる希望が捨てがたさに、ここまで生きながらえてきたのです。今宵限りの命となることも辛いことです。少しでもお許しいただけるようなら、それと引き換えにしてもわが命を捨ててしまいましょうに」といって、宮を抱いて出るので、最後にはどうするつもりだろうと、宮は、呆れてお思いになる。

隅の間の屏風を広げて、戸を押し開けたところ、渡殿の南の戸が、昨夜入ってきたときのまま、開いているので、まだ夜明け前の時間帯だろうから、宮の御姿をほんの少し拝見したい気持ちがあるので、格子をそっと引き上げて、(柏木)「このように、ひどくつれないお気持ちに、私は正気も失せてしまいました。少し落ち着けとお思いになるなら、せめて『不憫な』と、それだけでもおっしゃってくださいよ」と、強引に申し上げるのを、宮は、まったく無理なこととお思いになられて、なにか言おうとなさったが、震えが出てきて、ひどく幼なげなご様子でいらっしゃる。

ただ夜が明けていくにつれて、ひどく心がせいて、(柏木)「しみじみ情深い夢語も申し上げるべきですが、ここまでお憎みになられましては。そうはいっても、今に思い当たるふしも出てまいりましょう」といって、せわしなく出発する夜明けは、秋の空よりもさまざまに心乱れることであった。

起きてゆく……

(起きて、出発する行き先の空もわからない明け方の薄暗がりに、どちらの露がかかって、こうも袖が濡れるのでしょう)

と、袖を引き出して愁いに満ちた気持ちで申し上げると、今はもう出発するのだなと、宮は、そのことにすこしご安心なさって、

(女三の宮)あけぐれの……

(明け方の薄暗がりの空に、つらいわが身は消えてしまいたい。すべて夢だったのだと考えて終わりにするように)

とはかなげにおっしゃる声が、若く美しいのを、聞くのを途中で切り上げるようにして、外に出たその魂は、まことに身を離れて宮のもとにとどまるような気持ちである。

語句

■いみじくやつれ忍びて 服装や牛車なども質素にして人目につかないようにする。 ■わが心にも… 柏木にもまだ少しの理性が残っている。 ■け近く 当所は女三の宮に逢って実際の行為にまでおよぼうとは考えていなかった。 ■いとほのかに 春の六条院の蹴鞠の遊びの際、女三の宮の姿を垣間見たこと(【若菜上 37】)。 ■世とともに 長い年月にわたって柏木は女三の宮を想いつづけてきた。 ■すこしけ近くて見たてまつり 「け近きほどにて、この心の中に思ふことのはしすこし聞こえさせつべく…」(【若菜下 25】)。 ■御禊 賀茂祭の禊。祭は四月中の酉の日、御禊はその前の午か未の日に賀茂川で行われる。 ■女房十ニ人 女三の宮方から斎院の奉仕に出す女房。 ■御前の方しめやかにて ふだんは「御帳のめぐりに人多くさぶらうて、御座のほとりに、さるべき人必ずさぶらふ」(【同上】)。 ■源中将 按察使の君の愛人。 ■御帳の東面の… 柏木が望んだ「物越しにて聞こえ知らすばかり」よりもずっと接近している。このほうがばれにくいと小侍従は考えたのだろう。 ■さまでもあるべき事なりやは 草子文。小侍従のサービスがよすぎたことを批判。 ■うちかしこまりたる気色 柏木の態度。女三の宮への狼藉に及ぶことに恐縮している。 ■床 御帳の台で浜床という。 ■せめて 恐ろしいのをこらえて無理に目を開ける。 ■あらぬ人なりけり 源氏とは別人であった。 ■数ならねど 柏木は当時身分の低さゆえに女三の宮の婿候補から外されたことを根に持っている。 ■いとかうしも… 私は貴女からここまで避けられるほどのひどい男ではない。貴女に認められてしかるべき男だ、の意。 ■なかなか漏らし聞こえさせて 女三の宮の婿となりたい希望を表明したこと。 ■院にも聞こしめされにし 朱雀院も自分のことを認めていたのだといって女三の宮を落ち着かせようとする。 ■身の数ならぬ一際 官位の低さについての柏木のコンプレックスは根深い。そのために女三の宮の婿になれなかったので。 ■今はかひなきことと… 「今は」は、貴女が源氏の妻となった今は。 ■いかばかりしみはべりにけるにか 「もとよりしみにし方こそなほ深かりけれ」(【若菜下 25】)。 ■口惜しくも… 畳み掛ける言葉で長年柏木が抱いていた想いを吐露する。 ■この人なりけり 相手が柏木とわかった。 ■あはれ、とだに 前に柏木は「あはれとや思し知る」と期待していた。 ■よその思ひやり これまで柏木は女三の宮を遠くから想像してきた。 ■いつくしく 二品内親王で源氏の正妻であるという威厳。 ■もの馴れて見えたてまつらむ 恋の相手として会うこと。 ■ただかばかり思ひつめたり片はし聞こえ知らせて 柏木は最初から不義を行おうとして侵入したわけではない。前に「け近く、なかなか思ひ乱るることもまさるべきことまでは思ひも寄らず」とあるように、いざ女三の宮を目にしたら自分がどういう気持になるか、どういう行動に出るか想像することもできなかったのである。 ■いとさばかり気高う恥づかしげにはあらで 実際に逢ってみると、女三の宮は想像していたような女性とは違っていた。そのため柏木はかえって宮を魅力的に思う。 ■さかしく思ひしづむる心もうせて 今まで理性で抑えてきたが、理性はふき飛んでしまった。 ■いづちもいづちも率て隠したてまつりて 『伊勢物語』六段の在原業平が高子を連れ去った話が念頭にあるか。 ■わが身も世に経るさまならず 「花の色は移りけけりないたづらにわが身よにふるながめせしまに」(古今・春下 小倉百人一首九番< 小野小町)をふまえていよう。小野小町のように自分もわびしい生を生きている。いっそこの暮らしを飛び出して、何もかもやり直したい。女三の宮と二人で。そういう気持ち。 ■まどろむともなき夢 この「夢」に実事がふくまれる。 ■この手馴らしし猫 かつて柏木が東宮を介して手に入れた猫(【若菜下 04】)。実際に猫がここに現れたのではなく柏木の夢の中に出てきたのである。 ■何しに奉りつらむ 宮のかわりに愛玩していたのにどうして、という気持ち。 ■のがれぬ御宿世 こうなるべき運命であったといって、自己の行為を正当化する。 ■かのおぼえなかりし 春の六条院で垣間見られたこと(【若菜上 37】)。前もこの時のことが回想されていた。 ■げに あの時垣間見られたのはまずかったという気持ち。 ■契り心うき御身なりけり 女三の宮の宿命を評した草子文。 ■なかなかなり もともと柏木は逢瀬を持つために来たのではなかった。自分の気持ちを伝えたら立ち去るつもりでいた。しかしなまじ逢瀬を持ってしまったために、かえって心乱されるのである。 ■いかがはしはべるべき 宮の考えに自分の進退をゆだねる気持ち。 ■不要 自分は生きながらえていても意味のない人間であるとうそぶく。『伊勢物語』九段の「身をえうなきものに思ひなして」が響くか。 ■身をいたづらにやはなしはてぬ 死ぬつもりだといって相手に訴える。 ■いと棄てがたきによりてこそ これまでは貴女に逢いたい一心で生きてきたと。「君がため惜しからざりし命さへ長くもがなと思ひけるかな」(後拾遺・恋 小倉百人一首五十番 藤原義孝)と反対の状況。 ■今宵に限りはべりなむ 生きる望みが絶たれたので今夜を最後に死んでしまおうと訴え、宮を脅す。 ■つゆにても御心ゆるしたまふさまならば 宮が許そうと許すまいと今夜自分はどうせ死ぬのだから死ぬ前にせめて許してくれの意。 ■昨夜入りし ここで昨夜の侵入経路がはじめて明かされる。 ■ほのかに見たてまつらむ 暁の薄明かりの中、宮の姿を見たい気持ち。 ■あはれ、とだに 前も「あはれ、とだにのたまはせば」(【本項】)とあった。 ■若々しき 「若々し」「幼げ」は女三の宮を特徴づける語。 ■夢語 猫の夢のこと。 ■思しあはする事 懐妊の事をいうか。 ■秋の空より心づくしなり 
「木の間よりもりくる月の影見れば心づくしの秋は来にけり」(古今・秋上 読人しらず)など、秋は心づくしの季節とされるが、今は春だが、秋よりもいっそう心づくしであるの意。 ■起きてゆく… 明け方の薄闇の空に、晴れない気持ちをかさねた。 ■出でなむとするにすこし慰めたまひて 柏木が帰ることがわかったのでほっとして、少し気がゆるんで歌を返す。 ■あけぐれの… 柏木の歌の「あけぐれ」を引っ張る。参考「君や来しわれやゆきけむおもほえず夢かうつつか寝てかさめてか」(伊勢物語・六十九段)。 ■聞きさすやうにて 「さす」は動作を中断する。密会で、しかももう明け方なので、急がれる。 ■魂 「飽かざりし袖のなかにや入りにけむわが魂のなき心地する」(古今・雑下 陸奥)を引く。

朗読・解説:左大臣光永