【若菜下 25】柏木、なおも女三の宮に執着し、小侍従を語らう

まことや、衛門督《ゑもんのかみ》は中納言になりにきかし。今の御世には、いと親しく思されて、いと時の人なり。身のおぼえまさるにつけても、思ふことのかなはぬ愁《うれ》はしさを思ひわびて、この宮の御|姉《あね》の二の宮をなむ得たてまつりてける。下臈《げらふ》の更衣腹《かういばら》におはしましければ、心やすき方まじりて思ひきこえたまへり。人柄《ひとがら》も、なべての人に思ひなずらふれば、けはひこよなくおはすれど、もとよりしみにし方こそなほ深かりけれ、慰《なぐさ》めがたき姨捨《をばすて》にて、人目にとがめらるまじきばかりに、もてなしきこえたまへり。

なほ、かの下《した》の心忘られず、小侍従《こじじゆう》といふかたらひ人は、宮の御侍従の乳母《めのと》のむすめなりけり、その乳母の姉《あね》ぞ、かの督《かむ》の君の御乳母なりければ、早くよりけ近く聞きたてまつりて、まだ宮幼くおはしましし時より、いときよらになむおはします、帝のかしづきたてまつりたまふさまなど、聞きおきたてまつりて、かかる思ひもつきそめたるなりけり。

かくて、院も離れおはしますほど、人目少なくしめやかならむを推《お》しはかりて、小侍従を迎へとりつつ、いみじう語らふ。「昔より、かく命もたふまじく思ふことを、かかる親しきよすがありて、御ありさまを聞き伝へ、たへぬ心のほどをも聞こしめさせて頼もしきに、さらにそのしるしのなければ、いみじくなむつらき。院の上《うへ》だに、かくあまたにかけかけしくて、人に圧《お》されたまふやうにて、独《ひと》り大殿籠《おほとのごも》る夜《よ》な夜《よ》な多く、つれづれにて過ぐしたまふなりなど人の奏《そう》しけるついでにも、すこし悔《く》い思したる御気色にて、同じくは、ただ人の心やすき後見《うしろみ》を定めむには、まめやかに仕うまつるべき人をこそ定むべかりけれ、とのたまはせて、女二の宮のなかなかうしろやすく、行《ゆ》く末《すゑ》ながきさまにてものしたまふなること、とのたまはせけるを伝へ聞きしに、いとほしくも口惜しくも、いかが思ひ乱るる。げに、同じ御|筋《すぢ》とは尋ねきこえしかど、それはそれとこそおぼゆるわざなりけれ」と、うちうめきたまへば、小侍従《こじじゆう》、「いで、あなおほけな。それをそれとさしおきたてまつりたまひて、また、いかやうに限りなき御心ならむ」と言へば、うちほほ笑みて、「さこそはありけれ。宮にかたじけなく聞こえさせ及びけるさまは、院にも内裏《うち》にも聞こしめしけり。などてかは、さてもさぶらはざらまし、となむ事のついでにはのたまはせける。いでや、ただ、いますこしの御いたはりあらましかば」など言へば、「いと難《かた》き御事なりや。御|宿世《すくせ》とかいふことはべなるを本《もと》にて、かの院の言《こと》に出でてねむごろに聞こえたまふに、立ち並びさまたげきこえさせたまふべき御身のおぼえとや思されし。このごろこそ、すこしものものしく、御|衣《ぞ》の色も深くなりたまへれ」と言へば、言ふかひなくはやりかなる口ごはさに、え言ひはてたまはで、「今はよし。過ぎにし方をば聞こえじや。ただ、かくあり難きものの隙《ひま》に、け近きほどにて、この心の中《うち》に思ふことのはしすこし聞こえさせつべくたばかりたまへ。おほけなき心は、すべて、よし見たまへ、いと恐ろしければ、思ひ離れてはべり」とのたまへば、「これよりおほけなき心は、いかがはあらむ。いとむくつけきことをも思しよりけるかな。なにしに参りつらん」とはちぶく。

「いで、あな聞きにく。あまりこちたくものをこそ言ひなしたまふべけれ。世はいと定めなきものを、女御、后《きさき》もあるやうありて、ものしたまふたぐひなくやは。まして、その御ありさまよ、思へばいとたぐひなくめでたけれど、内々は心やましきことも多かるらむ。院の、あまたの御中に、また並びなきやうにならはしきこえたまひしに、さしも等《ひと》しからぬ際《きは》の御方々にたちまじり、めざましげなることもありぬべくこそ。いとよく聞きはべりや。世の中はいと常なきものを、一際《ひときは》に思ひ定めて、はしたなくつききりなることなのたまひそよ」とのたまへば、「人におとされたまへる御ありさまとて、めでたき方に改めたまふべきにやははべらむ。これは世の常の御ありさまにもはべらざめり。ただ、御|後見《うしろみ》なくてただよはしくおはしまさむよりは、親ざまにと譲《ゆづ》りきこえたまひしかば、かたみに、さこそ思ひかはしきこえさせたまひためれ。あいなき御おとしめ言《ごと》になん」とはてはては腹立つを、よろづに言ひこしらへて、「まことは、さばかり世になき御ありさまを、見たてまつり馴れたまへる御心に、数にもあらずあやしきなれ姿を、うちとけて御覧ぜられむとは、さらに思ひかけぬことなり。ただ、一言《ひとこと》、物越《ものご》しにて聞こえ知らすばかりは、何ばかりの御身のやつれにかはあらん。仏神《ほとけかみ》にも思ふこと申すは、罪あるわざかは」といみじき誓言《ちかごと》をしつつのたまへば、しばしこそ、いとあるまじきことに言ひ返しけれ、もの深からぬ若人は、人のかく身にかへていみじく思ひのたまふを、えいなびはてで、「もし、さりぬべ隙《ひま》あらばたばかりはべらむ。院のおはしまさぬ夜は、御帳《みちやう》のめぐりに人多くさぶらひて、御座《おまし》のほとりに、さるべき人かならずさぶらひたまへば、いかなるをりをかは、隙《ひま》を見つけはべるべからん」とわびつつ参りぬ。

現代語訳

そういえば、衛門督(柏木)は中納言になったていたのである。今の御世では、帝からのご信任がとても篤く、まさに時の人といったところである。世間的評価がまさるにつけても、思うことのかなわない辛さを悲しく思って、この宮(女三の宮)の御姉のニの宮(女ニの宮)とご結婚なさったのだった。このニの宮は身分の低い更衣腹でいらしたので、衛門督(柏木)は、この人を思い申し上げる中にも軽く見るお気持ちがまじっておられた。人柄も、世間一般の人と比べたら、すこぶる感じがよくていらっしゃるが、もともとこだわっていた方(女三の宮)への想いが深かったので、「慰めがたき姨捨」といった気持ちで、人目にとがめられない程度にだけ、北の方としてお扱い申し上げていらっしゃった。

それでもやはり、例の秘めていた想いは、忘れられない。小侍従という相談相手は、宮(女三の宮)の侍従とよばれる乳母の娘である。その乳母の姉が、この督の君(柏木)の御乳母であったので、衛門督(柏木)は早くから間近に宮(女三の宮)のことを侍従からお聞き申し上げていて、まだ宮が幼くていらしたころから、まことに気高くおきれいでいらっしゃること、父帝(朱雀帝)がお可愛がり申されるさまなどをお聞き申し上げていて、こういう想いも抱くようになったのであった。

こうして、院(源氏)も六条院を離れていらっしゃる時であるので、人目すくなく静まり返っているだろうことを推しはかって、小侍従を呼びつけては、熱心に頼みこむのである。(柏木)「以前から、こんなに命も絶えるだろうかとも思うわが想いを、お前という親しい関係者がいて、宮の御ようすを私に聞き伝えて、また私の尽きぬ想いをお聞き入れいただいて、期待していたのに、ひとつも宮からの反応がなかったことが、ひどくつらい。院の上(朱雀院)さえも、『院(源氏)があのように万事好色めいているため、宮(女三の宮)が他の御方々に圧倒されるようにしていらっしゃり、独りでお休みになる夜々が多く、所在なくお過ごしになっていらっしゃるそうです』などと人が奏上した折も、院(朱雀院)は宮(女三の宮)を院(源氏)の妻としたことを、すこし後悔していらっしゃるご様子で、『同じく安心できる後見人を決めるなら、誠実にお仕え申し上げるだろう人に決めるべきであった』と仰せになって、『女ニの宮のほうがかえって安心でき、将来も長いようすでいらっしゃる』と仰せになられたことを、私は人から伝え聞きましたが、おいたわしくも残念でもあり、私はどれほど思い悩んだことでしょう。実際、同じ御血筋とはお聞き申し上げますが、それはそれと、思われることですよ」と、おうめきになると、(小侍従)「まあ、ひどく分不相応なことを。宮(女ニの宮)のことを、『それはそれ』といってお遠のけ申し上げになさって、さらに別にお気持ちがおありとは。どこまで際限がない御心なのでしょう」と言えば、衛門督(柏木)は微笑なさって、(柏木)「まったくそういうものなのです。宮(女三の宮)に対して私がもったいなくも求婚申し上げていたことは、院(朱雀院)も今上帝も、ご存知でした。『どうして、あれを婿にして不都合があろう』と、なにかの機会におっしゃったのです。いやまったく、貴女があの当時、もう一歩だけ、お骨折りしてくださったらよかったのに」など言うと、(小侍従)「まったくご無理なご相談というものです。人には御宿縁というものが根本にございますようで、あの六条院(源氏)が公言して、熱心に宮(女三の宮)をお望みになりましたのに、そこに貴方が並び立って、お邪魔申し上げるようなご身分だとでも当時思っていらしたのですか。最近こそ、すこしは箔もついてきて、御衣の色も深くおなりのようですが」と言えば、言っても仕方ないほど、口早に言ってのける手強さに、最後まで言い尽くすことがおできにならず、(柏木)「もうよい。過去のことを、とやかく言うまい。ただ、こんな滅多になく六条院が手薄になっている折ですから、近い距離から、私が心の中に思っている気持ちのほんの一端でも、申し上げられるように、貴方が手配なさってください。分不相応な気持ちなど、まったく、ありえないですから、よくごらんなさい、ひどく恐ろしいことなので、そういう気持ちからはもう離れております」とおっしゃると、(小侍従)「これより分不相応な心は、どんなものがあるというのでしょう。ひどく気味の悪いことを思いつかれるものですね。私はなにをしここに参ったのでしょう」と、不機嫌に文句を言う。

(柏木)「さあ、なんと聞き苦しいことを。あまりに大げさなことをおっしゃるものだ。男女の仲というものは、まことに定めのないもので、女御・后も何かと事情があって、別の者と関係を持つなどという例がなくはないのですよ。まして、宮(女三の宮)の御様子といえば、思えばまことにたぐいなく素晴らしいお結構なものに思われるが、内々はご不快なことも多いのでしょう。朱雀院が、多くの皇子たちの中に、他に並ぶ者もないようにいつも可愛がり申していらしたのに、あのように身分が劣る御方々の中にたちまじり、心外な事もきっとあるでしょう。私はたいそうその噂を耳にしているのですよ。世の中はまことに常なきものですのに、こうだと一つに思い込んで、こちらが居心地悪くなるような、偏屈なことを、おっしゃいますな」とおっしゃると、(小侍従)「宮(女三の宮)が人より低く扱われていらっしゃるご様子だからとて、より素晴らしい方にお改めになられるようなことはございまいまい。あのお二人は、世間一般の御夫婦の御ありようでもないようでございます。ただ、御後見がなくて頼りなくいらっしゃるよりは、親がわりのようにでもと、朱雀院が六条院(源氏)にお譲り申し上げあそばしたので、お互いに、そのように御心を通わしあっていらっしゃるのでしょう。筋違いなご批判というものです」と、最後には腹を立てるのを、万事言いなだめて、(柏木)「本当は、六条院(源氏)の、あれほど世にたぐいないご様子を、いつも拝見していらっしゃる御心に、私のような人数にも入らない見すぼらしい姿を、なれなれしく御覧になっていただこうなどとは、まったく思いもかけぬことなのです。ただ、一言、物越しで気持ちをお伝え申し上げるていどのことが、どれほど宮(女三の宮)の御身をおとしめることになるというのでしょう。仏や神に思うことを申し上げるのは、罪のあることでしょうか」と、たいそうな誓いの言葉を言いつつおっしゃるので、小侍従は、ほんのしばらくは、けしてあってはならぬことと言い返したものの、思慮の浅い若い女だから、人(柏木)がこのようにわが身にかえて、たいそう深く思いおっしゃるのを、拒み通すこともできず、(小侍従)「もし、しかるべき機会があれば、くふうしてみましょう。とはいえ院(源氏)がおいでにならない夜は、御帳台のまわりに女房が多くお仕えして、御座所のそばに、しかるべき人が必ずお仕えしていらっしゃいますので、どんな折に、すきを見つけたらよいというのでしょう」と、頭をかかえながら、宮(女三の宮)のところにもどった。

語句

■まことや 話題を前にもどすときの常套句。 ■衛門督 柏木は女三の宮の猫を手に入れて可愛がり、真木柱との縁談にも耳を貸さなかった。ここで再登場。前は参議兼右衛門督だったが今は中納言。 ■いと親しく思されて 柏木にとっては冷泉院より今上帝のほうが縁が近く、東宮時代から重く扱われていた(【若菜下 04】)。 ■思ふことのかなはぬ愁はしさ 女三の宮を得られなかったこと。当時、柏木は官位の低さから婿候補から外された。中納言となった今なら…と思うのである。 ■御姉 女ニの宮。落葉の宮。「かうやうにも思し寄らぬ姉宮たちをば、かけても聞こえ悩ましたまふ人もなし」(【若菜上 06】)と言われたうちの一人だろう。 ■下臈の更衣腹 女ニの宮の母(一条御息所)は皇女とはいえ格が下がる。女三の宮の母は藤壺女御。 ■心やすき方 女ニの宮が世間から軽視されているので柏木もしぜん軽く見るようになる。 ■もとよりしみにし方 はじめから恋い焦がれていた女三の宮。 ■慰めがたき姨捨 「わが心慰めかねつ更級や姨捨山に照る月を見て」(古今・雑上 読人しらず)を引き、慰めがたい胸のうちを暗示。 ■なほ 女三の宮が源氏に降嫁して七年になるが柏木の恋慕はやまない。 ■小侍従 「この小侍従といふ御乳主」(【若菜上 35】)。 ■御侍従の乳母 侍従とよばれる乳母。 ■督の君 柏木は中納言になっても衛門督を兼任していた。 ■早くよりけ近く聞きたてまつりて 柏木が小侍従を語らい人として得たのは女三の宮に結婚問題が起こってから。幼少時の噂は乳母を通じて聞いていたのだろう。 ■かくて… 紫の上の発病で六条院に人が少なくなっている。 ■迎へとりつつ 柏木が小侍従を六条院から自邸に呼んだ。 ■親しきよすが 小侍従のこと。 ■たぬ心のほど 直前の「命もたふまじく思ふこと」の言い換え。 ■さらにそのしるしのなければ 女三の宮からの返書もなく、柏木の独り相撲におわった。 ■かくあまたにかけかけしくて 源氏が多数の妻を持っていること。 ■人に圧されたまふ 「人」は暗に紫の上をさす。前も人の噂として「対の上の御けはひには、なほ圧されたまひてなん」(【若菜上 35】)とあった。 ■同じくは どうせ同じく女三の宮の後見人を選ぶなら源氏のように気の多い人物でなく、地味でも誠実な人物を選ぶべきだった、という朱雀院の後悔。 ■なかなかうしろやすく 女ニの宮を嫁がせる相手としては権勢家の源氏よりも地味な柏木のほうがかえって安心できるの意。 ■それはそれ 姉妹といってもニの宮には三の宮ほどの魅力が感じられないの意。 ■限りなき御心 皇女一人を妻にするだけでは満足できない柏木の心はどれだけ欲深いのだろうの意。 ■宮にかたじけなく聞こえさせ及びける 柏木が女三の宮に求婚したことをいう。 ■御身のおぼえとや 柏木と源氏では世間の声望も地位も格差がありすぎて話にならない。 ■御衣の色も深くなり 中納言になって衣の色が変わった。中納言は三位相当で、『衣服令』にいうニ位、三位の者の着る浅紫のことか。 ■かくあり難きものの隙 紫の上の発病により源氏はじめ六条院の人々は二条院に移動している。六条院は閑散としている。これを絶好の機会と柏木は見る。 ■たばかりたまへ 柏木は、女三の宮への手引を小侍従に依頼する。 ■おほけなき心は… このあたり「おほけなき」が繰り返されることに注目。 ■はちぶく 口をとがらせてふくれる。 ■いで、あな聞きにく ここまでの下手に出た態度から、高圧的な態度に切り替えた。 ■世はいと定めなきものを 男女の関係は予想できないことをいう。 ■女御后も 最高位の女性も男性関係は予想しがたいことをいう。『伊勢物語』の業平と高子の関係が念頭にあるか。 ■まして 女御更衣もそうなのだからそれより下位の女三の宮ならばなおさら…の意。 ■心やましきこと 紫の上に圧倒されている現実をいう。 ■さしも等しからぬ際の御方々 六条院の御方々をいう。 ■いとよく聞きはべりや 自分はよく知っているのだぞ、と強調する。 ■人におとされたまへる… 女三の宮が他の御方々に圧倒されているという柏木の言を一応認めその上で反論。 ■あいなき御おとしめ言 「あいなし」は気に食わない。感心できない。興ざめだ。つまらない。 ■さばかり世になき御ありさま 源氏の世にありえないほど素晴らしいさま。 ■数にもあらずあやしきなれ姿 源氏のすばらしさに対して自分のみすぼらしさを強調。 ■物越しにて 前の「け近きほどにて」よりも条件が具体的になっている。 ■仏神にも思ふこと申すは 女三の宮を仏神に見立て、仏神に物を言うのが何の罪になるというのかという詭弁で、小侍従を説得しようとする。 ■しばしこそ… 「こそ…已然形」の逆説で「えいなびはてで」につづく。 ■たばかりはべらむ 柏木が女三の宮に接近するための工夫をする。 ■御帳 女三の宮の御寝所。ベッド。 ■さるべき人 側近の上臈の女房など。 ■参りぬ 女三の宮のもとに帰参した。

朗読・解説:左大臣光永