【柏木 09】夕霧、柏木を偲ぶ 致仕の大臣、悲嘆

大将の君は、かの心に余りてほのめかし出でたりしを、「いかなる事にかありけん。すこしものおぼえたるさまならましかば、さばかりうち出でそめたりしに、いとよう気色をみてましを。言ふかひなきとぢめにて、をりあしう、いぶせくて、あはれにもありしかな」と、面影忘れがたうて、はらからの君たちよりも、強《し》ひて悲しとおぼえたまひけり。「女宮のかく世を背きたまへるありさま、おどろおどろしき御悩みにもあらで、すがやかに思したちけるほどよ。また、さりともゆるしきこえたまふべきことかは。二条の上の、さばかり限りにて、泣く泣く申したまふと聞きしをば、いみじきことに思して、つひにかくかけとどめたてまつりたまへるものを」など、とり集めて思ひくだくに、「なほ昔より絶えず見ゆる心ばへ、え忍ばぬをりをりありきかし。いとようもて静めたるうはべは、人よりけに用意あり、のどかに、何ごとをこの人の心の中《うち》に思ふらむと、見る人も苦しきまでありしかど、すこし弱きところつきて、なよび過ぎたりしけぞかし、いみじうとも、さるまじき事に心を乱りて、かくしも身にかふべき事にやはありける。人のためにもいとほしう、わが身、はた、いたづらにやなすべき。さるべき昔の契りといひながら、いと軽々《かるがる》しうあぢきなきことなりかし」など心ひとつに思へど、女君にだに聞こえ出でたまはず。さるべきついでなくて、院にも、また、え申したまはざりけり。さるは、かかることをなむかすめしと申し出でて、御気色も見まほしかりけり。

父大臣、母北の方は、涙のいとまなく思し沈みて、はかなく過ぐる日数《ひかず》をも知りたまはず。御わざの法服《ほふぶく》、御|装束《さうぞく》、何くれのいそぎをも、君たち御方々とりどりになむせさせたまひける。経《きやう》、仏《ほとけ》のおきてなども、右大弁の君せさせたまふ。七日《なぬか》七日の御誦経などを、人の聞こえおどろかすにも、「我にな聞かせそ。かくいみじと思ひまどふに、なかなか道妨げにもこそ」とて、亡《な》きやうに思しほれたり。

現代語訳

大将の君(夕霧)は、あの、柏木が思い余ってそれとなく口に出したことを、「どういういきさつがあったのだろう。すこし正気なようすであったら、あれほど真剣に打ち明け出したことなので、もっとよく事情を知ることができたのに。もうどうにもならない臨終の間際で、折が悪く、はっきりしないまま、悲しいことになってしまったことよ」と、柏木の面影が忘れられなくて、御兄弟の君たちよりも、ずっと悲しく思っていらっしゃるのだった。(夕霧)「女宮(女三の宮)がこうして俗世をお捨てになられたいきさつは、それほど重いご病気というわけでもなく、あっさりと思い立たれたごようすであったな。また、そうはいっても父院(源氏)がお許し申し上げなさるようなことだろうか。二条の上(紫の上)が、もう最期かという時に、ご出家へのお望みを、泣く泣く申し上げなさったと聞いたが、父院(源氏)はそれをとんでもないこととお思いになって、結局はこうして今まで俗世にひきとどめ申し上げていらっしゃるのに」など、あれこれ思案をめぐらせて、(夕霧)「やはり柏木は、昔からいつもそぶりに見えていたあの気持ちを、抑えきれない折々があったのだ。上辺はたいそう静かに落ち着いていて、人よりたいそう慎みがあり、穏やかで、この人は心の中で何を思っているのだろうと、見る人もわかりづらいところまであったが、少し情に弱い気質があって、あまりに繊細であったせいだろう、ひどく心惹かれたとはいっても、あってはならない事に心を乱して、こうして自分の身にかえるべき事であろうか。周囲の人のためにも気の毒で、また柏木自身にとっても、人生を台無しにするようなことだろうか。そうなるべき前世からの契りだったとはいっても、ひどく軽々しく馬鹿げたことではないか」などと、心の内だけで思ってはいるが、女君(雲居雁)にさえお打ち明けなさらない。しかるべき機会がないので、父院(源氏)にも、また、申し上げることがおできにならない。そういう機会があれば、「柏木がこういうことを、それともく申しておりました」と申し出て、父院のご様子も見たいと思っているのだった。

父大臣(致仕の大臣)と母北の方は、涙が絶えまなく流れて気持ちが沈んで、はかなく過ぎていく日数もご存知でいらっしゃらない。御法事のときの法服、御装束、あれこれの用意も、御子たちがあれこれとご準備なさった。経や仏のかざりなども、右大弁の君がなさる。七日ごとの御誦経などを、人が大臣にご注意申し上げるにつけても、(致仕の大臣)「私に聞かせないでくれ。私がこんなにもひどく思い惑っているので、かえって柏木が往生するさまたげになってしまう」といって、亡くなった人のように思い沈んでいらっしゃる。

語句

■かの心に余りてほのめかし出でたりし 柏木の臨終まぎわの言葉。 ■はらからの君たちよりも 夕霧が柏木を失った悲しみは、実の兄弟たちが感じている悲しみよりも深い。 ■女三の宮のかく世を… 女三の宮の唐突な出家への不信から、「柏木となにかあったのではないか」と夕霧は推理を進めていく。 ■二条の院 危篤状態に陥った紫の上でさえ出家を許されなかったので、まして大した病気でもない女三の宮が出家を許されるはずがないと夕霧は疑う。なお現在、紫の上は六条院にもどっているので「二条の上」は不審。 ■なほ昔より… 六条院の春の蹴鞠の折以来の、柏木の女三の宮に対する執着に思いをはせる。夕霧の中でぼんやりした考えが、しだいに形になっていく。だが二人が密通を犯したとまでは夕霧は考えおよばない。 ■弱きところ 感情に流されやすいところ。 ■いみじうとも どれほど恋しくても命にかえるようなことだろうかの意。夕霧の冷静な考え方。 ■さるべき昔の契といひながら… そうなるべき前世からの運命だったからといって、あまりにも軽率すぎるではないかと、夕霧は心の内で柏木を責める。 ■さるべきついでなくて 柏木は臨終の間際に夕霧に「事のついではべらば、御耳とどめて、よろしう明らめ申させたまへ」(【柏木 07】)と言っていた。 ■父大臣、母北の方は… 前も「大臣北の方などは、まして言はむ方なく、我こそ先立ため…」(【同上】)とあった。 ■御わざの法服 法事のときの法服。 ■御装束 僧への布施にするもの。 ■君たち 柏木の兄弟姉妹。両親は悲しみに沈んでいて何もできない。 ■右大弁の君 柏木のすぐ下の弟か。 ■七日七日 死後七日ごとに七回行われる法事。 ■おどろかす 茫然自失としている大臣に気づかせる。 ■なかなか道のさまたげにもこそ 仏事は故人が往生するために行うのに、かえって往生のさまたげになると心配する。

朗読・解説:左大臣光永