【柏木 11】夕霧、致仕の大臣を訪ね、柏木をしのびあう
やがて致仕《ちじ》の大殿に参りたまへれば、君たちあまたものしたまひけり。「こなたに入らせたまへ」とあれば、大殿《おとど》の御|出居《いでゐ》の方に入りたまへり。ためらひて対面《たいめん》したまへり。旧《ふ》りがたう清げなる御|容貌《かたち》いと痩《や》せおとろへて、御|髭《ひげ》などもとりつくろひたまはねばしげりて、親の孝《けう》よりもけにやつれたまへり。見たてまつりたまふよりいと忍びがたければ、あまりにをさまらず乱れ落つる涙こそはしたなけれ、と思へば、せめてもて隠したまふ。大臣も、とりわき御仲よくものしたまひしをと見たまふに、ただ降りに降り落ちてえとどめたまはず、尽きせぬ御事どもを聞こえかはしたまふ。
一条宮に参《ま》でたりつるありさまなど聞こえたまふ。いとどしく春雨《はるさめ》かと見ゆるまで、軒《のき》の雫《しずく》に異ならず濡らしそへたまふ。畳紙《たたむがみ》に、かの「柳のめにぞ」とありつるを書いたまへるを奉りたまへば、「目も見えずや」と、おししぼりつつ見たまふ。うちひそみつつ見たまふ御さま、例は心強うあざやかに誇りかなる御気色なごりなう、人わろし。さるはことなることなかめれど、この「玉はぬく」とあるふしのげにと思さるるに心乱れて、久しうえためらひたまはず。「君の御母君の隠れたまへりし秋なむ、世に悲しきことの際《きは》にはおぼえはべりしを、女は限りありて、見る人少なう、とある事もかかる事もあらはならねば、悲しびも隠ろへてなむありける。はかばかしからねど、朝廷《おほやけ》も棄てたまはず、やうやう人となり、官位《つかさくらゐ》につけてあひ頼む人々、おのづから次々に多うなりなどして、驚き口惜しがるも類《るい》にふれてあるべし。かう深き思ひは、そのおほかたの世のおぼえも、官位《つくさくらゐ》も思ほえず、ただことなることなかりしみづからのありさまのみこそ、たへがたく恋しかりけれ。何ばかりの事にてかは思ひさますべからむ」と、空を仰ぎてながめたまふ。
夕暮の雲のけしき、鈍色《にびいろ》に霞みて、花の散りたる梢《こずゑ》どもをも、今日ぞ目とどめたまふ。この御|畳紙《たたむがみ》に、
木《こ》の下《した》のしづくにぬれてさかさまにかすみの衣着たる春かな
大将の君、
亡き人も思はざりけむうちすてて夕《ゆふべ》のかすみ君着たれとは
弁の君、
うらめしやかすみの衣たれ着よと春よりさきに花の散りけん
御わざなど、世の常ならずいかめしうなむありける。大将殿の北の方をばさるものにて、殿は心ことに、誦経《ずきやう》なども、あはれに深き心ばへを加へたまふ。
現代語訳
大将(夕霧)は、そのまま致仕の大殿に参られると、大臣の御子たちが多く集まっていらした。「こちらにお入りください」というので、大臣の表座敷のほうにお入りになられた。大臣は悲しみをしずめて対面なさった。これまで老けることを知らず、さっぱりした御様子だったのに、今はひどく痩せ衰えて、御髭などもお手入れなさらないのでのびていて、親の喪に服するよりも酷くおやつれでいらっしゃる。大将は、大臣を拝見なさるなり、お気持ちを抑えることができないとお思いになられたので、あまりにも止めどなく涙が乱れ落ちるのがみっともないと思うので、強いてそれをお隠しになる。大臣も、この大将は亡き衛門督(柏木)と格別に御仲がよくていらしたのにと拝見なさるにつけ、ただもう涙がこぼれ落ちてとどめることがおできにならない。尽きることのないさまざまなお話をお互いにお語らいになられる。
大将(夕霧)は、一条宮に参った時のようすなど申し上げなさる。春雨がいよいよ激しく降りだしたかと見えるまでに、軒の雫のように、大臣(致仕の大臣)は、さらに涙に袖を濡らしていらっしゃる。大将が、畳紙に、さきほどの「柳のめにぞ」とあったのをお書きになっていらっしゃるのをお差し上げになると、(致仕の大臣)「目も塞がって見えないのですよ」と、涙をしぼりつつご覧になられる。御顔をひそめつつご覧になられるご様子は、いつもの強気で、派手好きで、気位の高いご様子とはまるで違い、みっともない御姿である。ほんとうのところ、この歌がべつだんすぐれているわけではないだろうが、この「玉はぬく」とある一節が、いかにもと同感されるので心乱れて、長い間涙をとどめることがおできにならない。(致仕の大臣)「貴方の御母君(葵の上)がお隠れになられた秋こそは、この世で悲しいことの極みと思いましたが、女というものは決まりがあって、会う人も少なく、あれやこれやの事も表向きにはならないので、悲しみも内々だけのものでした。衛門督(柏木)は、ふつつか者ではありましたが、朝廷もお見捨てにならず、しだいに一人前になって、官位について頼みにする人々も、自然と次々に多くなりなどして、それがいざ亡くなってみると、驚き残念がる人々もいろいろの関係から、あるようです。私が今こうして深く悲しんでおりますのは、そうした世間一般の人望やら官位やらを思ってのことではなく、ただ別段変わったところもなかった、
その身のままの人柄だけが、たまらなく、恋しいのです。どうやってこの悲しみを癒やせばよいのでしょう」と、空を仰いでぼんやりと物思いにふけっていらっしゃる。
夕暮の雲のけしきは鈍色に霞んで、花の散った多くの梢にも、今日はじめて、目をお注ぎになられる。この御畳紙に、
(致仕の大臣)木の下の……
(木の下の雫に濡れるように涙に袖を濡らして、ふつうとは逆に、親が子を弔う墨染の衣(喪服)を着ている春であるよ)
大将の君、
亡き人も……
(亡き人も思いもよらなかったことでしょう。貴方をうち棄てて、夕べに墨染の衣を貴方に着ていただこうとは)
弁の君、
(恨めしいことよ。墨染の衣(喪服)を誰に着せようとして、春が終わるより先に花が散ってしまったのでしょう)
御法事など、並々ならず立派に行われるのだった。大将殿(夕霧)の北の方(雲居雁)は言うまでもなく、殿(夕霧)ご自身も格別に心をこめて、誦経なども、しみじみ深いお志をお加えになられる。
語句
■やがて 一条宮からの帰り道、そのまま二条の致仕の大臣邸を訪れた。 ■出居 南の廂の間に客人用に設けた部屋。 ■ためらひて 悲しみを静めて。 ■親の孝よりも 孝行者が親の喪に服すときよりもやつれ果てているの意。 ■とりわき御仲もよく 生前柏木が夕霧と親しい友人づきあいをしていたことを思い出し、大臣は胸打たれる。 ■いとどしく春雨かと見ゆるまで 大臣の涙を春雨とたとえる。 ■かの「柳のめにぞ」 さきほど一条宮で御息所が詠んだ歌を、夕霧は畳紙に書き留めていた。 ■目も見えずや 「柳の芽」とひびきあう表現。 ■例は心強うあざやかに… 致仕の大臣は繰り返し「心強く」「あざやかなる」人物として描かれてきた。その大臣がすっかりしょげかえっていることが、悲しみの深さを物語る。 ■見る人少う 女性は家庭に閉じこもって交際範囲も限られるので、亡くなったときもおのずと悲しみは内輪だけにとどまる。 ■はかばかしからねど 謙遜して言う。 ■朝廷も棄てたまはず 柏木が帝からの信任厚かったことは以前も語られていた。死の直前には権大納言にまで任じられた(【柏木 07】)。 ■官位につけてあひ頼む人々 柏木の口利きで官位にありつこうとする人々。 ■類にふれて いろいろの関係から。ほうぼうの関係から。 ■空を仰ぎて 「大空は恋しき人の形見かは物思ふごとにながめらるらむ」(古今・恋四 酒井人真)による。 ■鈍色に霞みて 大臣の悲しみが重なっている。 ■木の下の… 「木の下のしづく」に大臣の涙を重ねる。「さかさまに」は普通とは逆に子が親より先立ってしまったこと。「かすみの衣」は墨染の衣で、喪服のこと。前の「鈍色に霞みて」とひびきあう。 ■亡き人も… 柏木自身も自分が早逝することを予測できなかったろうと、その無念を思いやる。 ■弁の君 柏木亡き後の大臣家の代表人物となりつつある。 ■うらめしや… あまりにも短命で命を散らせた柏木を非難する。 ■大将殿の北の方 雲居雁。柏木の妹。