【夕霧 32】夕霧、小少将に案内させて塗籠の内に押し入る

「さりとてかくのみやは、人の聞き漏らさむこともことわり」とはしたなう、ここの人目もおぼえたまへば、「内々の御心づかひは、こののたまふさまにかなひても、しばしは情《なさけ》ばまむ。世づかぬありさまの、いとうたてあり。またかかりとてひき絶え参らずは、人の御名いかがはいとほしかるべき。ひとへにものを思して、幼げなるこそいとほしけれ」など、この人を責めたまへば、げにとも思ひ、見たてまつるも今は心苦しう、かたじけなうおぼゆるさまなれば、人通はしたまふ塗籠《ぬりごめ》の北の口より入れたてまつりてけり。いみじうあさましうつらしと、さぶらふ人をも、げにかかる世の人の心なれば、これよりまさる目をも見せつべかりけりと、頼もしき人もなくなりはてたまひぬる御身をかへすがへす悲しう思す。

男は、よろづに思し知るべきことわりを聞こえ知らせ、言の葉多う、あはれにもをかしうも聞こえ尽くしたまへど、つらく心づきなしとのみ思いたり。「いと、かう、言はむ方なき者に思ほされける身のほどは、たぐひなう恥づかしければ、あるまじき心のつきそめけむも、心地なく悔《くや》しうおぼえはべれど、とり返すものならぬ中に、何のたけき御名にかはあらむ。言ふかひなく思し弱れ。思ふにかなはぬ時、身を投ぐる例もはべなるを、ただかかる心ざしを深き淵《ふち》になずらへたまて、棄てつる身と思しなせ」と聞こえたまふ。単衣《ひとへ》の御|衣《ぞ》を御髪籠《みぐしこ》めひきくくみて、たけきこととは音《ね》を泣きたまふさまの、心深くいとほしければ、「いとうたて。いかなればいとかう思すらむ。いみじう思ふ人も、かばかりになりぬれば、おのづからゆるぶ気色もあるを、岩木よりけになびきがたきは、契り遠うて、憎しなど思ふやうあなるを、さや思すらむ」と思ひよるに、あまりなれば心憂く、三条の君の思ひたまふらんこと、いにしへも何心もなう、あひ思ひかはしたりし世の事、年ごろ、今はとうらなきさまにうち頼みとけたまへるさまを思ひ出づるも、わが心もて、いとあぢきなう思ひつづけらるれば、あながちにもこしらへきこえたまはず、嘆き明かしたまうつ。

現代語訳

(夕霧)「そうはいってもこのままではいられない。人が聞いて話を漏らすことも当然である」と居心地悪く、こちらの御邸における人目もお考えになって、(夕霧)「内々の御気持ちとしては、宮さま(落葉の宮)のおっしゃる通りにするとしても、しばらくの間、人目にだけは夫婦らしくふるまいましょう。私たちの夫婦らしくもない様子は、ひどく異常ですよ。また、そうだからといって私がすっかりこちらに参らなくなったら、世間の評判は、どれほど宮さまにとってお気の毒なことになるでしょうか。単純に物をお考えになって、幼げであることがとてもおいたわしいですよ」など、この人(小少将)をお責めになるので、小少将はもっともと思い、大将(夕霧)を拝見するのも今は心苦しく、畏れ多く思われる様子なので、ふだん女房を出入りさせていらっしゃる塗籠の北の戸口から大将をお入れ申し上げるのだった。宮(落葉の宮)は、ひどく呆れて恨めしいことと、お仕えする女房たちのことも、まったく世間の人の心はこれなのだから、私を今よりずっと辛い目にあわせるかもしれないと、頼みにできる人もすっかり無くなってしまった御身を、返す返す悲しくお思いになる。

男(夕霧)は、万事ご理解すべき道理を宮にお知らせ申し上げて、言葉数多く、しみじみと胸うつようにも、風情があるようにも言葉を尽くして申し上げられるが、宮(落葉の宮)は恨めしく、気に入らないとばかりお思いになっていらっしゃる。(夕霧)「こうして、ひどくお話にならない者とお思いになるわが身のほどは、類もなく恥ずかしゅうございましたので、あってはならない貴女様への恋慕の情を抱き始めましたのも、無分別と後悔されますが、今更もう取り返せないのですから、どんな立派な名声が貴女にございましょうか。どうにもならないことと、お諦めなさい。思うことが叶わない時、淵に身を投げる例もあると申しますから、ただ私のこうした気持ちを深き淵とお考えになって、身を棄てたものと思うようになさい」と申し上げられる。宮は、単衣の御衣で御髪をすっぽりと引き包んで、できる最大限のことは、声を上げて泣くことだけである。男(夕霧)は、そのさまが心の底から気の毒であったので、「ひどく情けない。どうしてそんなにも思い詰めになるのだろう。ひどく物思いに暮れていた人でも、ここまでになったなら、自然と気を許す様子も出てくるものなのに、岩や木よりもいっそうなびかないのは、遠く前世からの因縁で、人を憎いと思うことなどがあるというが、それでこんなにも私のことを憎くお思いになるのだろうか」と思いよるにつけ、あまりのことに気が滅入って、三条の君(雲居雁)がお思いになられることは、昔も無邪気に、お互いに思いあっていた関係であった頃のことや、今は夫婦になったのだからと、長年、隔てない様子ですっかり信頼していらっしゃるさまを思い出すにつけても、自分の心がけからこんなことになってしまったのだと、まったくどうしようもないと、次から次ぎに考え続けずにはいらっしゃれないので、無理に宮(落葉の宮)をおなだめ申し上げることもなさらず、夜を嘆きながらお明かしになった。

語句

■ここの人目 「人」は大和守や一条宮の女房たち。 ■内々の御心づかひ 宮の「この御服のほどは、一筋に思ひ乱るることなくてだに過ぐさむ」(【夕霧 31】)という希望。 ■情ばまむ 「情ばむ」は夫婦らしくふるまう。 ■世づかぬありさま 落葉の宮と自分の夫婦らしくないありさま。 ■かかりとて 落葉の宮に冷淡にされているからといって。 ■人の御名いがはいとほしかるべき 冷淡に扱われているからといって夕霧が参らなくなれば、落葉の宮は再婚早々夫に捨てられたという汚名を着ることになる。 ■人通はしたまふ塗籠の北の口 女房たちを出入りさせなさっている塗籠の北の戸口。 ■これよりまさる目 これよりもひどい目。 ■頼もしき人もなくなりはて 落葉の宮は、頼りにしていた小少将にも裏切られた形である。 ■あるまじき心 落葉の宮への恋慕の情。 ■何のたけき御名にかはあらむ 落葉の宮は皇女でありながら臣下の柏木と結婚し、しかも夫に死別して未亡人となり、その上また臣下である夕霧と再婚することになった。もはや汚名を挽回しようはないの意か。 ■深き淵になずらへたまて 「身を捨てて深き淵にも入りぬべし底の心のしらまほしさに」(後拾遺・恋一 源道済)。 ■たけきことは できる最大限のことは。 ■岩木よりけに 「人ハ木石ニ非ズ、皆情有リ」(白氏文集巻四・新楽府・李夫人)。 ■契り遠うて 遠い前世からの因縁によって落葉の宮が夕霧を憎んでいるという発想。現代人には理解不能。 ■いにしへも何心もなう 「いにしへ」は結婚前の、致仕大臣によって仲を割かれていた頃。 ■わが心もて 夕霧はこうなったのはすべて自分から出たことだと反省するが、だからといってどうしようもない。

朗読・解説:左大臣光永