【御法 05】紫の上、二条院を匂宮に譲り遺言する

三の宮は、あまたの御中に、いとをかしげにて歩《あり》きたまふを、御心地の隙《ひま》には前に据《す》ゑたてまつりたまひて、人の聞かぬ間《ま》に、「まろがはべらざらむに、思し出でなんや」と聞こえたまへば、「いと恋しかりなむ。まろは、内裏《うち》の上《うへ》よりも宮よりも、母をこそまさりて思ひきこゆれば、おはせずは心地むつかしかりなむ」とて、目おしすりて紛らはしたまへるさまをかしければ、ほほ笑みながら涙は落ちぬ。

「大人《おとな》になりたまひなば、ここに住みたまひて、この対の前なる紅梅《こうばい》と桜とは、花のをりをりに心とどめてもて遊びたまへ。さるべからむをりは、仏にも奉りたまへ」と聞こえたまへば、うちうなづきて、御顔をまもりて、涙の落つべかめれば立ちておはしぬ。とり分きて生《お》ほしたてたてまつりたまへれば、この宮と姫宮とをぞ、見さしきこえたまはんこと、口惜しくあはれに思されける。

現代語訳

三の宮(匂宮)は、多くの皇子たちの中でも、とても美しげに歩き回っていらっしゃるのを、上(紫の上)は、少し具合がよい時には前にお据え申されて、人の聞いていない間に、(紫の上)「私がいなくなったら、思い出してくださいますか」と申されると、(匂宮)「とても恋しいでしょうね。私は帝よりも、宮(明石の中宮)よりも、母上のことをずっとお慕い申し上げていますので、いなくなってしまわれたら寂しい気持ちになるでしょう」といって、目をこすってお紛らわしになる様子がかわいらしいので、上(紫の上)はほほ笑みながらも涙が落ちた。

(紫の上)「大人になられたら、ここにお住まいになられて、この対の屋の前にある紅梅と桜とは花の季節ごとに心をとどめてご愛顧ください。しかるべき折には、仏にもお供えください」と申されると、宮はうなづいて、上の御顔をじっとご覧になって、涙が落ちそうなのでお立ち去りになられた。上は、幼いころからとくにお世話申し上げらたので、この宮(匂宮)と姫宮(女一の宮)のご将来を見届けることがおできにならないことが、残念に悲しく思われるのだった。

語句

■三の宮 匂宮。紫の上が引き取って育てている。五歳。 ■御心地の隙 病が小康状態の時。 ■宮 明石の中宮。匂宮との実母。 ■母 紫の上のこと。養母の意か。 ■この対 紫の上の居所である西の対。 ■仏にも奉りたまへ あえて自分にと言わないところに紫の上の奥ゆかしさが出ている。 ■姫宮 女一の宮。明石の中宮腹(【若菜下 11】)。 ■見さしきこえたまはんこと 「さす」は動作を途中でやめること。

朗読・解説:左大臣光永