【幻 05】匂宮、遺愛の桜をいたわる 源氏、それを見て悲しむ

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后《きさい》の宮は、内裏《うち》に参らせたまひて、三の宮をぞ、さうざうしき御慰めにはおはしまさせたまひける。「母ののたまひしかば」とて、対《たい》の御前《おまへ》の紅梅とりわきて後見《うしろみ》ありきたまふを、いとあはれと見たてまつりたまふ。二月《きさせぎ》になれば、花の木どもの盛りになるも、まだしきも、梢《こずゑ》をかしう霞みわたれるに、かの御形見の紅梅に鶯のはなやかに鳴き出でたれば、立ち出でて御覧ず。

植ゑて見し花のあるじもなき宿に知らず顔にて来ゐるうぐひす

と、うそぶき歩《あり》かせたまふ。

春深くなりゆくままに、御前《おまへ》のありさまいにしへに変らぬを、めでたまふ方《かた》にはあらねど、静心なく何ごとにつけても胸いたう思さるれば、おほかた、この世の外《ほか》のやうに鳥の音《ね》も聞こえざらむ山の末ゆかしうのみいとどなりまさりたまふ。山吹などの心地よげに咲き乱れたるも、うちつけに露けくのみ見なされたまふ。

外《ほか》の花は、一重《ひとへ》散りて、八重《やへ》咲く花桜《はなざくら》盛り過ぎて、樺桜《かばざくら》は開け、藤はおくれて色づきなどこそはすめるを、そのおそくとき花の心をよく分きて、いろいろを尽くし植ゑおきたまひしかば、時を忘れずにほひ満ちたるに、若宮、「まろが桜は咲きにけり。いかで久しく散らさじ。木のめぐりに帳《とばり》を立てて、帷子《かたびら》を上げずは、風もえ吹き寄らじ」と、かしこう思ひえたり、と思ひてのたまふ顔のいとうつくしきにも、うら笑《ゑ》まれたまひぬ。「おほふばかりの袖求めけん人よりは、いとかしこう思し寄りたまへりかし」など、この宮ばかりをぞもて遊びに見たてまつりたまふ。「君に馴《な》れきこえんことも残りすくなしや。命といふもの、いましばしかかづらふべくとも、対面《たいめん》はえあらじかし」とて、例の、涙ぐみたまへれば、いとものしと思して、「母ののたまひしことを、まがまがしうのたまふ」とて、伏目《ふしめ》になりて、御|衣《ぞ》の袖を引きまさぐりなどしつつ、紛らはしおはす。

隅《すみ》の間《ま》の高欄《かうらん》におしかかりて、御前《おまへ》の庭をも、御簾《みす》の内《うち》をも見わたしてながめたまふ。女房なども、かの御形見の色変へぬもあり、例の色あひなるも、綾《あや》などはなやかにはあらず。みづからの御|直衣《なほし》も、色は世の常なれど、ことさらにやつして、無紋《むもん》を奉れり。御しつらひなども、いとおろそかに事そぎて、さびしくもの心細げにしめやかなれば、

今はとてあらしやはてん亡き人の心とどめし春の垣根を

人やりならず悲しう思さる。

現代語訳

后の宮(明石の中宮)は、内裏にお戻りになって、三の宮(匂宮)だけを、院(源氏)のさびしさお慰めするようにと、残しておおきになった。(匂宮)「母君(紫の上)がおっしゃったので」と、西の対の御前の紅梅を格別に気にかけて世話をしておまわりになるのを、院(源氏)は、とてもいじらしく御覧になっていらっしゃる。二月になれば、あちこちの花の木が盛りになるが、早くも、木々の梢が趣深くそこらじゅうで霞んでいる中に、かの人(紫の上)の御形見の紅梅に鶯がはなやかに鳴き出したので、院(源氏)はお庭先にお出になって御覧になる。

(源氏)植ゑて見し……

(この花を植えて見ていた主人も今は亡くなってしまった。その宿に、知らぬ顔で来て枝にとまる鶯よ)

と、口ずさんで歩きまわっておられる。

春が深くなってゆくにつれて、御前のありさまは昔に変わらないので、とくに花をお愛でになろうということではないが、心がそわそわして何ごとにつけても胸が痛くお思いになるので、大体において、もうこの世ではないように、鳥の声も聞こえない山の果てに行ってしまいたいとばかり、ますます思い詰めていかれる。山吹などが気持ちよさそうに咲き乱れているのも、唐突に、涙の露に濡れているようにごらんになられる。

よその花は、一重のものは散って、八重桜は盛りが過ぎて、樺桜は開き、藤はおくれて色づきなどはするようだが、その遅く咲いたり早く咲いたりする花の心を、上(紫の上)がよくわきまえて、あらゆる種類の花の木を植えておかれたので、咲くべき時を忘れずあたり一面色づいている中、若宮(匂宮)が、「まろの桜が咲いたことよ。どうすれば長く散らさないようにできよう。木のまわりに帳を立てて、帷子を上げないようにすれば、風も吹き寄せることができぬだろう」と、かしこくも思いついた、と思っておっしゃる顔がとても可愛らしいのにつけても、院(源氏)はお笑いになる。(源氏)「『覆うばかりの袖』を求めた人よりは、とても賢く思いつかれましたな』をなど、院(源氏)は、この宮(匂宮)だけを、遊び相手になってお世話申し上げていらっしゃる。(源氏)「貴方と親しくしていられますのも、残り少ないでしょう。命というものに、もう少しは関わらなければならないとしても、逢うことはできなくなるでしょう」とおっしゃって、いつものように涙ぐまれると、宮(匂宮)は、ひどくいやなとをおっしゃるとお思いになって、(匂宮)「母のおっしゃったのと同じことを、縁起でもなくおっしゃいますな」といって、伏目になって、御衣の袖を引っぱったりなどして、気持ちを紛らわしていらっしゃる。

院(源氏)は、隅の間の高欄によりかかって、御前の庭をも、御簾の内をも見渡してぼんやりとながめていらっしゃる。女房なども、故人をしのぶ喪服の色を変えない者もあり、また例年どおり春の色合いではあっても、綾などは華やかなものではない。院ご自身の御直衣も、色はいつもの春色であるが、ことさら質素にして、無地のものをお召しになっていらっしゃる。御調度品なども、実にそっけなく簡素にして、さびしく、何となく心細げに、沈んだ感じなので、

(源氏)今はとて……

(今は最後といって私が出家してしまったら、亡き人(紫の上)が心を注いだ春の垣根も荒れ果ててしまうのだろうな)

自分から選んでのことだが、悲しくお思いになる。

語句

■后の宮 明石の中宮。紫の上の死後、引き続き喪に服していた。よってこの場は二条院と思われる。 ■母ののたまひし 紫の上が匂宮に遺言した(【御法 05】)。 ■対の御前の この「対」は二条院西の対。 ■あはれと見たてまつりたまふ 匂宮の態度に紫の上を想う気持ちが見て取れるので源氏は「あはれ」と思う。 ■花の木 梅の花。 ■植ゑて見し… 「花のあるじ」は紫の上。 ■うそぶき歩かせたまふ 「うそぶく」は詩歌などを口ずさむこと。 ■静心なく 心落ち着かずそわそわするさま。庭前の花を見ていると紫の上を思い出すから。 ■鳥の音も聞こえざらむ山の末 春の風物である鳥の声さえも紫の上を思い出してつらいので、鳥の声も聞こえない山の果てに行きたいと。「とぶ鳥の声も聞こえぬ奥山の深き心は人は知らなむ」(古今・恋一 読人しらず)。 ■外の花 この院の外の花。 ■樺桜 山桜の一種。「かには桜」とも。 ■まろが桜 紫の上遺愛の桜。紫の上から直接、匂宮に託された(【同上】)。 ■おほふばかりの袖 「大空に覆ふばかりの袖もがな春咲く花を風にまかせじ」(後撰・春中・読人しらず)。 ■御形見の色 喪服の色。 ■綾 いろいろな模様を織り込んだ絹織物。高価で華やかなもの。喪中にはふさわしくない。 ■今はとて 紫の上が心を込めて木草を植えたのに自分が出家すれば荒れ果ててしまうだろうの意。 ■人やりならず 出家するのは自分の意思なので、人とどうこうという話ではないの意。源氏は際限なくメソメソ、グズグズし続ける。出家するならさっさと出家すればよい。したくならやめればよい。その時点でこの物語は終わる。源氏の決断力のなさ・行動の鈍さが物語全体をくどく、しつこく、読みづらく、鬱陶しいものにしている。

朗読・解説:左大臣光永

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