【幻 17】紫の上の遺文を焼く

今年をばかくて忍び過ぐしつれば、今はと世を去りたまふべきほど近く思しまうくるに、あはれなること尽きせず。やうやうさるべき事ども、御心の中《うち》に思しつづけて、さぶらふ人々にも、ほどほどにつけて物賜ひなど、おどろおどろしく、今なん限りとしなしたまはねど、近くさぶらふ人々は、御|本意《ほい》遂げたまふべき気色と見たてまつるままに、年の暮れゆくも心細く悲しきこと限りなし。

落ちとまりてかたはなるべき人の御文ども、「破《や》れば惜《を》し」と思されけるにや、すこしづつ残したまへりけるを、もののついでに御覧じつけて、破《や》らせたまひなどするに、かの須磨のころほひ、所どころより奉りたまひけるもある中に、かの御手なるは、ことに結《ゆ》ひあはせてぞありける。みづからしおきたまひける事なれど、久しうなりにける世の事と思すに、ただ今のやうなる墨つきなど、げに千年《ちとせ》の形見にしつべかりけるを、見ずなりぬべきよ、と思せば、かひなくて、疎《うと》からぬ人々二三人ばかり、御前《おまへ》にて破《や》らせたまふ。

いと、かからぬほどの事にてだに、過ぎにし人の跡と見るはあはれなるを、ましていとどかきくらし、それとも見分かれぬまで降りおつる御涙の水茎《みづくき》に流れそふを、人もあまり心弱しと見たてまつるべきがかたはらいたうはしたなければ、おしやりたまひて、

死出《しで》の山越えにし人をしたふとて跡を見つつもなほまどふかな

さぶらふ人々も、まほにはえひきひろげねど、それとほのぼの見ゆるに、心まどひどもおろかならず。この世ながら遠からぬ御別れのほどを、いみじと思しけるままに書いたまへる言の葉、げにそのをりよりもせきあへぬ悲しさやらん方《かた》なし。いとうたて、いま一際《ひときは》の御心まどひも、女《め》々しく人わるくなりぬべければ、よくも見たまはで、こまやかに書きたまへるかたはらに、

かきつめて見るもかひなし藻塩草おなじ雲居の煙《けぶり》とをなれ

と書きつけて、みな焼かせたまひつ。

現代語訳

院(源氏)は、今年をこうして悲しみを忍んで過ごしたので、もうこれまでと俗世をお去りになられる時が近いと心用意なさるにつけ、しみじみと感慨深いことが尽きない。しだいにあれやこれや、出家の前にしておくべき事を御心の中にお思いつづけられて、お仕えする女房たちにも、身分や関係の深さに応じて物をお与えになったりなど、おおげさにこれが最後というふうにはなさらないが、近くお仕えしている女房たちは、ご出家のご念願をお遂げになる前触れと拝見するままに、年の暮れてゆくのも心細くどこまでも悲しいのだ。

残っていて人目にふれては見苦しいだろう数々の御文を、「破《や》れば惜し」とお思いになったからだろうか、少しずつ残していらしたのを、なにかのついでに御覧になって、破らせたりなさると、あの須磨にいた頃に、あちこちから送られたお手紙もある中に、紫の上のお手紙は、わざわざ結びあわせて取ってあったのだ。自らそうしておかれた事ではあるが、ずっと昔になってしまった事とお思いになるにつけ、まさしく今のことのように思える墨具合など、まことに千年の形見にもしてよかろうものを、「もうこれを見ることもなくなるだろう」とお思いになると、取っておくのもかいのないことで、親しい女房ニ三人ばかりで、御前にて破らせなさる。

実に、ここまでの事でなくても、亡くなった人の筆の跡と見るのはしみじみ胸がいっぱいになるものだが、ましていよいよ目の前が真っ暗になるお気持ちで、その人の筆跡と見てわからないほどまでに降り落ちる御涙が筆跡に添って流れるのを、女房たちももあまり心弱いことと拝見するだろう。それが決まりが悪くて気が引けるので、手紙を脇へ押しやられて、

(源氏)死出の山……

(死出の山を越えていった人(紫の上)を慕うといって、その足跡…筆の跡を見つつも、今だに迷っておりますよ)

お仕えする女房たちも、しっかりと御文を引き広げることはできないが、紫の上の手跡であると、ほんの少し見えるにつけ、心迷いもなみなみでない。この世にいながらの、それほど遠くはない御別れをしたあの時(源氏の須磨流謫)のことを、悲しまれるそのお気持ちのままにお書きになった言葉、まったく当時よりも涙がおさえられないほどの悲しさは、どこへ持っていきようもない。ひどく厭わしい、これ以上の御心迷いも、女々しく、外聞の悪いことだろうから、御文をよくも御覧にならないで、細々と書いていらっしゃる横に、

(源氏)かきつめて……

(かき集めて見るもかいのないことだ。藻塩草(手紙)よ、同じ空の煙となってしまえ)

と書きつけて、みなお焼かせになった。

語句

■さるべき事ども 出家する前にすませておくべき用事。 ■落ちとまりて あやまって残していて、それが人の目にふれること。 ■人の御文ども 「人」は紫の上をふくむ多くの人々。 ■破れば惜し 「破《や》れば惜し破らねば人に見えぬべし泣く泣くもなほ返すまされり」(後撰・雑ニ 元良親王)。 ■久しうなりにける 源氏が明石から帰京したのは二十四年前。 ■千年の形見 「かひなくと思ひな消ちそ水茎の跡ぞ千とせのかたみともなる」(古今六帖五)。 ■見ずなりぬべきよ 出家の後はこのようなものも見れなくなるだろうの意。 ■疎からぬ人々 気心の知れた女房たち。 ■水茎 筆・筆跡・手紙。「見たまふ人の涙さへ水茎に流れそふ心地して、…」(【梅枝 08】)。 ■死出の山 「跡」は「足跡」の意と「筆跡」の意をかける。 ■まほにはえひきひろげねど 源氏への遠慮があるため。 ■この世ながら遠からぬ御別れのほど 源氏が須磨に下向することになった時のこと。 ■げにそのをりより 「げに」は「死出の山…」の歌のとおり。「そのをり」は紫の上は京に、源氏は須磨に別れていたころ。 ■かきつめて… 「かきつめて」は「かき集めて」の短縮。「かひ」に「貝」をかける。「もしほ草」は紫の上の手紙をたとえる。「煙」「貝」は「もしほ草」の縁語。

朗読・解説:左大臣光永