【匂宮 10】薫、六条院の賭弓の還饗に招かれる
賭弓《のりゆみ》の還饗《かへりあるじ》の設《まう》け、六条院にて、いと心ことにしたまひて、親王《みこ》をもおはしまさせんの心づかひしたまへり。
その日、親王たち、大人《おとな》におはするは、みなさぶらひたまふ。后腹《きさいばら》のは、いづれともなく気《け》高くきよげにおはします中にも、この兵部卿宮は、げにいとすぐれてこよなう見えたまふ。四の皇子《みこ》、常陸《ひたち》の宮と聞こゆる更衣腹のは、思ひなしにや、けはひこよなう劣りたまへり。
例の、左あながちに勝ちぬ。例よりはとく事はてて、大将まかでたまふ。兵部卿宮、常陸の宮、后腹《きさきばら》の五の宮と、ひとつ車にまねき乗せたてまつりて、まかでたまふ。宰相《さいしやうの》中将は負方《まけがた》にて、音なくまかでたまひにけるを、「親王たちおはします御送りには参りたまふまじや」と押しとどめさせて、御子の衛門督、権中納言、右大弁など、さらぬ上達部あまたこれかれに乗りまじり、いざなひたてて、六条院へおはす。道のややほどふるに、雪いささか散りて、艶なる黄昏時なり。物の音《ね》をかしきほどに吹きたて遊びて入りたまふを、げにここをおきて、いかならむ仏の国にかは、かやうのをりふしの心やり所を求めむ、と見えたり。
寝殿の南の廂に、常のごと南向きに中少将着きわたり、北向きに対《むか》へて垣下《ゑが》の親王たち、上達部の御座《おまし》あり。御|土器《かはらけ》などはじまりて、ものおもしろくなりゆくに、求子《もとめご》舞ひてかよる袖どものうち返す羽風《はかぜ》に、御前《おまへ》近き梅のいといたくほころびこぼれたる匂ひのさとうち散りわたれるに、例の、中将の御かをりのいとどしくもてはやされて、いひ知らずなまめかし。はつかにのぞく女房なども、「闇はあやなく心もとなきほどなれど、香《か》にこそげに似たるものなかりけれ」と、めであへり。大臣もいとめでたしと見たまふ。容貌《かたち》、用意も常よりまさりて、乱れぬさまにをさめたるを見て、「右の中将《すけ》も声加へたまへや。いたう客人《まらうと》だたしや」とのたまへば、憎からぬほどに、「神のます」など。
現代語訳
右大臣(夕霧)は、賭弓《のりゆみ》の還饗《かえるあるじ》の準備を、六条院にて、ことに格別になさって、親王もお迎え申し上げようとの心づかいをなさる。
その日、親王たちのうちご成人なさっている御方は、みな産内なさった。后(明石の中宮)腹の親王は、誰がということでもなく気高く美しげでいらっしゃる中にも、この兵部卿宮(匂宮)は、なるほど実にすぐれて格別にお見えになる。四の皇子で常陸の宮と申し上げる更衣腹の皇子は、そういう気持ちが見るからだろうか、人格がひどく劣っていらっしゃる。
例によって、左方が一方的に勝った。例年よりはやく競技が終わって、大将(夕霧)はご退出なさる。兵部卿宮(匂宮)、常陸の宮、后腹の五の君と、同じ車にお招きしてお乗せ申し上げて、ご退出なさる。宰相中将(薫)は負けたほうであるので、そっとご退出しようとされていたが、(夕霧)「親王たちがお帰りになる御送りに、お供なさいませんか」と、引き留めさせて、御子の衛門督、権中納言、右大弁など、そのほか多くの上達部を、数台の車に乗りまじらせて、誘い立てて、六条院へいらっしゃる。
道中、すこし時間がかかるのだが、雪が少し降って、優美な黄昏時である。笛の音をおもしろい具合に吹きたて奏でながら六条院にお入りになるのを見れば、なるほど、ここ六条院以外に、どんな仏の国に、こうした折節の心のより所を求められるだろうと、思われる。
寝殿の南廂に、いつものように南向きに中将・少将がずらりと着座して、北向きに向かい合って、相伴をつとめる親王たち、上達部の御座がある。御盃などはじまって、何となく興が高まってゆくころ、「求子」を舞って、あちこちに寄り合った袖のうち返す羽風に、御庭前近い梅が実にたいそうほころびこぼれている匂いがさっと一面に広がると、例によって、中将(薫)の御香りが、ますます引き立って、言いようもなく優美である。ほのかにのぞく女房なども、「闇はあやなく心もとない自分ですが、なるほど歌に言うように、この香こそ似るものとてない素晴らしさですね」と、ほめあっている。大臣(夕霧)も、実にすばらしいとお思いになる。宮(匂宮)の顔立ちや所作も、いつもより洗練されていて、行儀よくふるまっているのを見て、右大臣(夕霧)は、「右の中将(薫)も声をお加えくだされ。ひどく客人めいておられるではありませんか」とおっしゃるので、中将(薫)は、出しゃばらないていどに、(薫)「神のます」などとお歌いになる。
語句
■賭弓 正月十八日に弓場殿《ゆばどの》で行なわれる弓の競射。 ■還饗 競技に勝ったほうが自宅で設ける宴会。 ■げにいとすぐれて 「げに」は世間の評判通り。 ■四の皇子 初出。後に【宿木 46】に登場。 ■思ひなしにや 更衣腹の皇子と見るからだろうか。 ■例の 例年左方が勝っていたため「例の」というか。 ■后腹の五の君 【宿木 03】の中務の君と同一人物か。 ■ひとつ車に 牛車は定員四人。 ■御子の… 夕霧の子息ら。 ■さらぬ上達部 夕霧の子息ではない。 ■道のややふるほどに 近衛の馬場から六条院までかなり距離がある。 ■雪いささか散りて 早春の雪。 ■入りたまふを 下に「見れば」などを補い読む。 ■仏の国 以前も六条院春の殿の庭を「生ける仏の御国」とたとえている(【初音 02】)。 ■垣下の親王たち 饗応のとき相伴をつとめる人々がつく座。 ■求子 東遊の歌。内容は不明。 ■羽風 袖がひるがえって風を立てるのを鳥の羽に見立てた。 ■はつかにのぞく女房 女房は簾ごしに見ている。 ■闇はあやなく 「春の夜の闇はあやなし梅の花色こそ見えね香やはかくるる」(古今・春上 躬恒)。 ■香こそげに 「降る雪に色はまがひぬ梅の花香にこそ似たるものなかりけれ」(拾遺・春 躬恒)。 ■右の中将も 夕霧は勝方だけでなく負方の薫にも花をもたせようとする。 ■憎からぬほどに 負方であることをわきまえて、目立ちすぎないようにする。 ■神のます 「やをとめは、わがやをとめぞ、立つや八乙女、立つや八乙女、神のます、高天原に、立つ八乙女、立つ八乙女」(風俗歌・八少女)。東遊の後で歌われる歌らしい。 ■など 下に「歌ひたまふ」などを省略。余韻をもたせる。