【紅梅 01】按察使大納言と真木柱夫婦、その子ら
そのころ、按察《あぜちの》大納言と聞こゆるは、故致仕《こちじ》の大臣《おとど》の二郎なり。亡《う》せたまひにし衛門督のさしつぎよ。童《わらは》よりらうらうじう、はなやかなる心ばへものしたまひし人にて、なりのぼりたまふ年月にそへて、まいていと世にあるかひあり、あらまほしうもてなし、御おぼえいとやむごとなかりけり。北の方二人《ふたり》ものしたまひしを、もとよりのは亡《な》くなりたまひて、今ものしたまふは、後太政大臣《のちのおほきおとど》の御むすめ、真木柱《まきばしら》離れがたくしたまひし君を、式部卿宮にて、故兵部卿の親王《みこ》にあはせたてまつりたまへりしを、親王亡せたまひて後忍びつつ通ひたまひしかど、年月経れば、えさしも憚りたまはぬなめり。御子は、故北の方の御腹に、二人のみぞおはしければ、さうざうしとて、神仏に祈りて、今の御腹にぞ男君|一人《ひとり》まうけたまへる。故宮の御方に、女君一ところおはす。隔てわかず、いづれをも同じごと思ひきこえかはしたまへるを、おのおの御方の人などはうるはしうもあらぬ心ばへうちまじり、なまくねくねしき事も出で来る時々あれど、北の方、いとはればれしくいまめきたる人にて、罪なくとりなし、わが御方ざまに苦しかるべきことをもなだらかに聞きなし、思ひなほしたまへば、聞きにくからでめやすかりけり。
現代語訳
そのころ、按察大納言と申し上げる御方は、故致仕の大臣のご次男である。亡くなられた衛門督(柏木)のすぐ下の弟である。童のころからしっかりしていて、派手好みな気性でいらっしゃる人で、年月とともにご出世なさるにつれて、いっそうこの世にあるかいがあるというふうで、申し分ないお暮らしぶりで、帝からのご寵愛も並々でなくていらっしゃるのだった。北の方は二人いらしたが、最初の御方はお亡くなりになって、今いらっしゃるのは、後太政大臣(髭黒)の御むすめ、「真木柱離れがたく」とお詠みになった姫君を、式部卿宮が、故兵部卿の親王(螢兵部卿宮)に目合わせ申し上げたのを、親王が亡くなって後、この按察大納言が忍び忍び通っていらしたが、今は年月が重なったので、それほど気兼ねしてばかりもいれないようである。御子は、故北の方の御腹に、お二人だけいらしたので、物足りないということで、神仏に祈って、現在の北の方(真木柱)の御腹に男君を一人もうけられた。故宮(螢兵部卿宮)の御子として、女君一人がいらっしゃる。実子・継子の間で隔てをおかず、どちらも同じようにお互いに仲良くしていらっしゃるが、それぞれの御方にお仕えしている女房などは、おだやかでない気持ちが混じって、なんとなく不穏な事も出来することも時々あるようだが、今の北の方(真木柱)は、実に晴れ晴れと今風に華やかな人であって、悪くないようにふるまって、ご自分の御子(宮の御方)にとって辛いようなことも、おだやかに聞き流すようにして、良いように思い直していらっしゃるので、聞きづらいことなどはなく、理想的なありようなのであった。
語句
■按察使 地方官を監視する役として奈良時代に創設。やがて名目のみとなった。大中納言が兼任した。 ■衛門督 柏木(【柏木 07】)。柏木は死の直前、権大納言に昇進したが慣れ親しんだ言い方で呼ぶ。 ■童より… この大納言は【賢木 32】に童殿上する少年として初登場。弁少将・左大弁を経て大納言。のち右大臣。紅梅右大臣と称す。音楽に堪能な美声の貴公子として描かれてきた(【行幸 15】・【夕霧 01】)。 ■もとよりの 系譜不明。 ■後太政大臣 髭黒太政大臣。「故致仕の大臣」に対して「後」という。 ■真木柱 髭黒の前妻の子。髭黒が玉鬘と結婚したので前妻は怒ってこの娘をつれて実家に帰った。「今はとて宿離れぬとも馴れきつる真木の柱はわれを忘るな」(【真木柱 12】)により真木柱と称す。 ■式部卿宮 真木柱の祖父。紫の上の父。 ■故兵部卿の親王 螢兵部卿宮。源氏の弟。故人。 ■あはせたてまつりたまへりし →【若菜下 06】。 ■えさしも憚りたまはぬ 按察使大納言は真木柱を公然と北の方扱いするようになったの意(【竹河 21】)。 ■二人 大君(後の麗景殿女御)と中の君。 ■男君 大夫の君と通称される。 ■女君一ところ 以下、宮の御方と通称。 ■隔てわかず 実子と継子の区別をせず。 ■おのおの御方の人 実子である大君と中の君、継子である宮の御方のそれぞれにお付きの女房。 ■うるはしうもあらぬ心ばへ 嫉妬や競争心からよからぬことを起こしかける。 ■わが御方ざまに 真木柱の実の子、宮の御方にとって。