【夕霧 01】夕霧、小野の山荘の落葉の宮を想う
まめ人《びと》の名をとりてさかしがりたまふ大将、この一条宮の御ありさまをなほあらまほしと心にとどめて、おほかたの人目には昔を忘れぬ用意に見せつつ、いとねむごろにとぶらひきこえたまふ。下《した》の心には、かくてはやむまじくなむ月日にそへて思ひまさりたまひける。御息所《みやすどころ》も、あはれにあり難き御心ばへにもあるかなと、今はいよいよものさびしき御つれづれを、絶えず訪《おとづ》れたまふに慰めたまふことども多かり。
はじめより懸想《けさう》びても聞こえたまはざりしに、「ひき返し懸想ばみなまめかむもまばゆし。ただ深き心ざしを見えたてまつりて、うちとけたまふをりもあらじやは」と思ひつつ、さるべき事につけても、宮の御けはひありさまを見たまふ。みづからなど聞こえたまふことはさらになし。いかならむついでに、思ふことをもまほに聞こえ知らせて、人の御けはひを見む、と思しわたるに、御息所《みやすどころ》、物《もの》の怪《け》にいたうわづらひたまひて、小野《をの》といふわたりに山里《やまざと》持《も》たまへるに渡りたまへり。早うより御|祈#x79B1;《いのり》の師にて、物の怪など払《はら》ひ棄てける律師《りし》、山籠《やまごも》りして里に出でじと誓ひたるを、麓《ふもと》近くて、請《さう》じおろしたまふゆゑなりけり。御車よりはじめて、御前《ごぜん》など、大将殿よりぞ奉れたまへるを、なかなかまことの昔の近きゆかりの君たちは、事わざしげきおのがじしの世の営みに紛れつつ、えしも思ひ出できこえたまはず。弁の君、はた、思ふ心なきにしもあらで気色ばみけるに、事の外《ほか》なる御もてなしなりけるには、強《し》ひてえまでとぶらひたまはずなりにたり。
この君は、いとかしこう、さりげなくて聞こえ馴れたまひにためり。修法《ずほふ》などせさせたまふと聞きて、僧の布施《ふせ》、浄衣《じやうえ》などやうのこまかなるものをさへ奉れたまふ。悩みたまふ人はえ聞こえたまはず。「なべての宣旨書《せじが》きはものしと思しぬべく。ごとごとしき御さまなり」と人々聞こゆれば、宮ぞ御返り聞こえたまふ。いとをかしげにてただ一行《ひとくだり》など、おほどかなる書きざま、言葉もなつかしきところ書き添へたまへるを、いよいよ見まほしう目とまりて、しげう聞こえ通《かよ》ひたまふ。なほつひにあるやうあるべき御仲らひなめり、と北の方けしきとりたまへれば、わづらはしくて、参《ま》うでまほしう思せどとみにえ出で立ちたまはず。
現代語訳
お固い人という評判をとって賢ぶっていらっしゃる大将(夕霧)は、あの一条宮(落葉の宮)の御様子を何といっても理想的なものとして心に思いこんで、世間一般の人に対しては故人(柏木)との昔の約束を忘れぬ心遣いであるように見せつつ、まことに親密にお見舞い申し上げなさる。内心は、ただのお見舞いで終わるつもりはないと、月日が経つにつれて、宮(落葉の宮)に対する思いがつのっていらっしゃるのだった。御息所(一条御息所)も、しみじみありがたい大将の御心ざしであるよと、今は前にもましていよいよさびしく所在ないところに、大将(夕霧)が絶えずお見舞いにきてくださることに、さまざまに御心をお慰めになることも多いのである。
大将ははじめから懸想じみた態度でお見舞い申し上げていらしたわけではなかったので、「今さら手のひらを返すように懸想じみた、色めいた態度を出すのもきまりが悪い。ただ深い誠意をお見せ申し上げたら、うちとけてくださる折節でもなかろうか」と思いつつ、しかるべき用事にことよせて、宮(落葉の宮)のご気配ご様子をご覧になる。宮は、ご自身で応対なさることは一切ない。大将(夕霧)は、どんな機会に、お気持ちを真剣にお伝え申し上げて、宮のご反応を見ようと、ずっとお思いになっていらしたところ、御息所が、物の怪にひどくお煩いになって、小野というあたりに山里を持っていらっしゃるのだが、そこへお移りになった。早くから御祈祷の師として、物の怪などを退散させていた律師が、山籠りして里には下りてくるまいと誓っていたその人のすまいが麓近いので、山からお招きになるためであった。
御車にはじまり、御前駆の従者など、大将殿(夕霧)からお遣わしになったのだが、かえって、まことに昔から縁の近い君たちは、忙しい各自の日々の生活に紛れて、お思い出す余裕もなくていらっしゃる。弁の君は、やはり、宮(落葉の宮)に対して思う心がないわけでもなく、それとなく態度を示したが、けんもほろろな御扱いだったので、無理に参上してお見舞いなさることはできないようになられた。
この君(夕霧)はとても巧みに、それという素振りもなく親しくお近づきになられたようである。加持祈祷などなさると聞いて、僧の布施として浄衣などといった細々したものまでもお差し入れなさる。具合が悪くなっていらっしゃる御息所は、お礼を申し上げることがおできにならない。「とおり一遍の代筆では失礼に思われますでしょう。大げさなご様子になってしまうのです」と女房たちが申し上げるので、宮(落葉の宮)がご返事を申される。まことにきれいな筆跡で、ただ一行だけなど、大らかなお書きようで、歌に添えた言葉も気の利いたところを書き添えていらっしゃるので、大将(夕霧)は、いよいよお会いしたいお気持ちになって目をひかれて、頻繁にお手紙を交わし合っていらっしゃる。「やはり最後には何か起こりそうな、お二人の仲らしい」と、北の方(雲居雁)は様子を察知なさっているので、大将(夕霧)は面倒で、宮(落葉の宮)のもとに参上したいとはお思いになるが、すぐには出発することがおできにならない。
語句
■まめ人 夕霧は「この世に目馴れぬまめ人」(【真木柱 27】)と評されている。 ■さかしがりたまふ 夕霧が「さかしがり」ていることは、亡き柏木のことを分析するあたり(【柏木 09】)に見える。 ■昔を忘れぬ 夕霧は柏木の遺言(【柏木 07】)を忘れずに落葉の宮を世話していると世間に思わせる。また自分自身をも納得させているのだろう。 ■なほあらまほし 「なほ」は「まめ人の名をとりて」もやはり。夕霧が落葉の宮に懸想していくさまは【柏木 10】・【同 12】・【横笛 05】に語られている。 ■御息所 落葉の宮の母、一条御息所。夕霧の「下心」には思いもよらず、ただの親切心と思っている。 ■はじめより懸想びても… 「『今は、なほ、昔に思しなずらへて、うとからずもてなさせたまへ』など、わざと懸想びてはあらねど、ねむごろに気色ばみて聞こえたまふ」(【柏木 12】)とあった。 ■ひき返し 手のひらを返すように。 ■なまめかむ 「なまめく」は色めいた態度を取ること。 ■さるべき事 ちょうどいい用事。 ■みづからなど 落葉の宮が自ら応対することはない。それは御息所の役目。 ■物の怪にいたうわづらひたまひて 御息所はニ年前から健康を害している(【同上】)。 ■小野 山城国愛宕郡小野郷(和名抄)。現京都市左京区上高野小野町。一乗修学院から八瀬・大原、比叡山の麓をふくむ一帯。この山荘があるのは修学院付近らしい。 ■山里 山荘。古くから小野には別荘が多かった。『伊勢物語』に惟喬親王が隠棲した場所として有名(伊勢物語八十三段)。 ■律師 僧正・僧都につぐ僧官。五位に準ずる。 ■山籠り 比叡山に山籠りして山を出ないこと。千日、十ニ年など期間が決まっている。 ■御車 御息所が小野の山荘に移るための車。 ■御前 前駆の従者。 ■昔の近きゆかりの君たち 柏木の兄弟。 ■事わざしげき… 「世の中にある人、ことわざ繁きものなれば」(古今・序)。 ■弁の君 柏木の弟。後の紅梅大臣。柏木は死の直前、弁の君にだいたいのことを託した(【柏木 07】)。 ■気色ばみ 求婚した。弁の君が落葉の宮に求婚した話は初出。兄の遺言に従って出入りしているうちに求婚する気になったか。 ■事の外なる御もてなし 御息所に反対されたのだろう。 ■まで 「まうで」の「う」が表記されなかった例。 ■浄衣 僧の着用する清浄な衣。ふつうは白。 ■え聞こえたまはず 夕霧に対するお礼の手紙を。 ■宣旨書き 宣旨は勅書。専門の役人が代筆する。ここから代筆のことを宣旨書きという。 ■ことごとしき 代筆させるとは尊大に構えていると思われると女房たちは心配する。柏木亡き今、女房たちは夕霧に希望をたくしている。 ■しげう聞こえ通ひたまふ 夕霧の手紙に応えて落葉の宮も手紙を出し始める。 ■北の方けしきとりたまへれば 夕霧の北の方、雲居雁は女房たちからの報告で、夕霧が落葉の宮と親しくしていることを知り嫉妬していた(【横笛 06】)。
■はた そうはいうもののやはり。それでもやはり。あるいは。もしかすると。