【横笛 06】夕霧、帰宅 夢に柏木あらわれ笛を求む

殿《との》に帰りたまへれば、格子《かうし》など下《お》ろさせて、みな寝たまひにけり。この宮に心かけきこえたまひて、かくねむごろがりきこえたまふぞなど人の聞こえ知らせたれば、かやうに夜|更《ふ》かしたまふもなま憎くて、入りたまふをも聞く聞く寝たるやうにてものしたまふなるべし。「妹《いも》と我といるさの山の」と、声はいとをかしうて、独《ひと》りごちうたひて、「こは、など。かく鎖《さ》し固めたる。あな埋《むも》れや。今宵《こよひ》の月を見ぬ里もありけり」とうめきたまふ。格子上げさせたまひて、御簾《みす》捲き上げなどしたまひて、端《はし》近く臥《ふ》したまへり。「かかる夜の月に、心やすく夢みる人はあるものか。すこし出でたまへ。あな心|憂《う》」など聞こえたまへど、心やましううち思ひて、聞き忍びたまふ。

君たちの、いはけなく寝おびれたるけはひなどここかしこにうちして、女房もさしこみて臥《ふ》したる、人げにぎははしきに、ありつる所のありさま思ひあはするに、多く変りたり。この笛をうち吹きたまひつつ、「いかになごりもながめたまふらん。御|琴《こと》どもは、調べ変らず遊びたまふらむかし、御息所《みやすどころ》も、和琴《わごん》の上手ぞかし」など、思ひやりて臥したまへり。「いかなれば、故君、ただおほかたの心ばへはやむごとなくもてなしきこえながら、いと深き気色なかりけむ」と、それにつけてもいといぶかしうおぼゆ。「見劣りせむことこそ、いといとほしかるべけれ、おほかたの世につけても、限りなく聞くことはかならずさぞあるかし」など思ふに、わが御仲の、うち気色ばみたる思ひやりもなくて、睦《むつ》びそめたる年月のほどを数ふるに、あはれに、いとかう押し立ちておごりならひたまへるもことわりにおぼえたまひけり。

すこし寝入りたまへる夢に、かの衛門督、ただありしさまの袿姿《うちきすがた》にて、かたはらにゐて、この笛をとりて見る。夢の中《うち》にも、亡き人のわづらはしうこの声をたづねて来たる、と思ふに、

「笛竹に吹きよる風のことならば末の世ながき音《ね》に伝へなむ

思ふ方|異《こと》にはべりき」と言ふを、問はんと思ふほどに、若君の寝おびれて泣きたまふ御声にさめたまひぬ。

この君いたく泣きたまひて、つだみなどしたまへば、乳母《めのと》も起き騒ぎ、上《うへ》も御|殿油《となぶら》近く取り寄せさせたまて、耳はさみしてそそくりつくろひて、抱《いだ》きてゐたまへり。いとよく肥《こ》えて、つぶつぶとをかしげなる胸をあけて乳《ち》などくくめたまふ。児《ちご》も、いとうつくしうおはする君なれば、白くをかしげなるに、御|乳《ち》はいとかはらかなるを、心をやりて慰めたまふ。男君も寄りおはして、「いかなるぞ」などのたまふ。撒米《うちまき》し散らしなどして乱りがはしきに、夢のあはれも紛れぬべし。「悩《なや》ましげにこそ見ゆれ。いまめかしき御ありさまのほどにあくがれたまうて、夜《よ》深き御月めでに、格子《かうし》も上げられたれば、例の物《もの》の怪《け》の入り来たるなめり」など、いと若くをかしき顔してかこちたまへば、うち笑ひて、「あやしの物の怪のしるべや。まろ格子上げずは、道なくて、げにえ入り来ざらまし。あまたの人の親になりたまふままに、思ひいたり深く、ものをこそのたまひなりにたれ」とて、うち見やりたまへるまみのいと恥づかしげなれば、さすがにものものたまはで、「いで、たまひね。見苦し」とて、明《あき》らかなる灯影《ほかげ》をさすがに恥ぢたまへるさまも憎からず。まことにこの君なづみて、泣きむつかり明かしたまひつ。

大将の君も、夢思し出づるに、「この笛のわづらはしくもあるかな。人の心とどめて思へりし物の行くべき方にもあらず。女の御伝へはかひなきをや。いかが思ひつらん。この世にて数に思ひ入れぬことも、かのいまはのとぢめに、一念の恨めしきにも、もしはあはれとも思ふにまつはれてこそは、長き夜の闇にもまどふわざななれ。かかればこそは、何ごとにも執《しふ》はとどめじと思ふ世なれ」など思しつづけて、愛宕《をたぎ》に誦経《すきやう》せさせたまふ。また、かの心寄せの寺にもせさせたまひて、この笛をば、「わざと人のさるゆゑ深き物にて、引き出でたまへりしを、たちまちに仏の道におもむけんも、尊きこととはいひながらあへなかるべし」と思ひて、六条院に参りたまひぬ。

現代語訳

大将(夕霧)は御邸にお帰りになると、格子など下ろさせて、みなお休みになっていらっしゃるのだった。大将が、この宮(落葉の宮)に懸想心を抱かれて、こうして親切にしてさしあげていらしゃるのだ、などと女房たちが北の方(雲居雁)に知らせているので、北の方は、こうして大将(夕霧)が夜遅くまで出歩いていらっしゃるのも何となくおもしろくなくて、入ってこられたのを聞く聞く、寝ているふりをしていらっしゃるようである。(夕霧)「妹と我といるさの山の」と、声はまことに美しく、独り言のように歌って、(夕霧)「これは、どうしたことか。こんなに固く閉め切って。なんとまあ、うっとうしい。今宵の月を見ない里もあったのだな」と苦しげな声をおあげになる。格子を上げさせられて、御簾を巻き上げなどなさって、縁側近くに横になられた。(夕霧)「こんな素晴らしい夜の月に、のんびり眠って夢を見ている人がありますか。すこし出ておいでなさい。まったく風情のない」など申し上げられるが、北の方は腹が立ってきて、黙って聞き流していらっしゃる。

若君たちが、子供っぽく寝ぼけているようすなど、あちこちに感じられて、女房も混み合って横になっている、人の気配がにぎやかなのが、さきほどの一条宮の様子を考え合わせると、あまりにも違っている。この笛をお吹きになりつつ、「宮(落葉の宮)は、私が帰った後も、どんなに物思いに沈んでいらっしゃるだろう。御琴どもは、調べも変わらず弾いていらっしゃるだろうな。御息所も、和琴の上手なので」など、思いやって横になっていらした。(夕霧)「いったいどうして、故君(柏木)は、ただ一通りの心配りということでは宮(落葉の宮)を大事にお世話申し上げてはいたが、心からの深い愛情がなかったのだろう」と、そう推測するつけてもまことに宮にお逢いしたく思われる。「それでがっかりするなら、まことにご愁傷さまといったところだが、世間一般のこととして、際限なくすばらしいと噂されていることは、必ずそうあるものなのだ」など思うにつけ、ご自身のご夫婦仲が、浮気めいた気持ちをお互いに疑うようなこともなく、結婚以来過ごしてきた年月のほどを考えると、しみじみ感慨深く、女君(雲居雁)が、実にこう強気で、勝手にふるまうのが当たり前になっていらっしゃるのも、無理からぬこととお思いになるのだった。

すこしまどろまれた夢に、かの衛門督(柏木)が、生前となにもかわらない袿姿で、横に座っていて、この笛をとって見る。夢の中にも、亡き人がやっかいなことにこの笛の音をたずねてきたのだ、と思ったところ、

(柏木)「笛竹に……

(竹に吹き寄る風…この笛を求めて寄ってくる人々が、同じことなら長く後々の世まで笛の音を伝えてほしい)

私が考えている人は他にございます」と言うのを、尋ねようと思っているうちに、若君が寝転がってお泣きになる御声に目をさまされなさった。

この若君がひどくお泣きになって、飲んだ乳を吐いたりなさるので、乳母も起きて騒ぎ、上(雲居雁)も燈火を近くに取り寄させられて、横髪を耳にはさんで、そそくさと片付けて、若君を抱いて座っていらっしゃる。上(雲居雁)は、まるまるとふとつて、つやつやと美しい胸をあけて、乳など若君のお口におふくませになる。児(若君)も、まことに可愛らしくていらっしゃる君であるので、白く美しげであるが、御乳はまるので出ないのだが、上(雲居雁)は、気休めにあやしていらっしゃる。男君(夕霧)も寄っていらして、「どんな具合だ」などおっしゃる。撒米《うちまき》をまき散らしたりして騒がしいので、あの夢のしみじみした風情も紛れてしまっただろう。(雲居雁)「気分が悪そうに見えます。若い人のような華やかな格好でふらふらとお出かけになって、深夜の御月をめでるために、格子も上げていらしたので、例によって物の怪が入ってきたようです」など、じつに若々しく、美しい顔をしてあてつけにおっしゃるので、男君(夕霧)は笑って、「私が物の怪の手引をしたとは妙な言いがかりですよ。私が格子を上げなくては、道がなくて、なるほど入ってこなかったでしょう。たくさんの子の親におなりになるにつれて、思慮深く、ものをおっしゃるようになりましたな」といって、女君をご覧になる目つきが、女君にとってひどく恥ずかしいので、皮肉を言ったというのに、それ以上ものもおっしゃらずに、(雲居雁)「さあもう、およしください。見苦しいことで」といって、明るい灯影を、ああは言ったもののやはり恥ずかしがっていらっしゃるようすも憎めない。しかし実際、この若君は調子が悪くて、泣きむずかりながら夜をお明かしになられた。

大将の君(夕霧)も、夢のことをお思い出されるにつけ、「この笛のやっかいなことよ。故人(柏木)が執着していた物が、私のところに預けられるのは筋違いだ。女の御伝授ではどうなるものでもないし。柏木は私がこの笛を託されたことについてどう思っているだろうか。この世では何とも思わなかったことでも、ああした臨終の際に、うらめしいという一念や、もしくは恋しいという一念にとらわれていると、長き世の闇にも迷うことになるというし。だからこそ、何ごとにもこの世に執着はとどめまいと思うことよ」などお思いつづけて、愛宕《おたぎ》で供養をおさせになる。また、故人が心を寄せていた寺でも供養をおさせになったが、この笛のことは、「わざわざ御息所が、柏木にゆかりの深いものだといって、お預けくださったものを、すぐに仏の道に預けるというのも、尊いこととはいいながら、あっけないだろう」と思って、六条院にお参りになられた。

語句

■殿 三条邸。 ■格子 正妻は格子を上げたままで夫の帰りを待つもの(【須磨 03】)。 ■みな寝たまひにけり 北の方、若君たち、女房たちも。 ■人の聞こえ知らせ 夕霧が落葉の宮に懸想していると、口さがない女房が雲居雁に告げ口したのである。 ■妹と我といるさの山の 「妹《いも》と我《あれ》と、いるさの山の、山蘭《やまあららぎ》、手な取り触れそや、貌優《かほまさ》るがにや、速《と》く優《まさ》るがにや」(催馬楽・妹と我)。心の内には落葉の宮への懸想を秘めながら、一方では雲居雁に気持ちを寄せているように見せて、共寝したいといって機嫌を取る。 ■今宵の月を見ぬ里もありけり 暗に、私は月を見ていて帰りが遅くなったのだ。浮気ではないという弁解。 ■御簾捲き上げ いらいらして、当てつけで御簾は自分で巻いた。 ■かかる夜の月に… 参考「かんなりの壺に人々あつまりて、秋の夜をしむ歌よみけるついでによめる/かくばかりをしと思ふ夜をいたづらに寝であかすらむ人さへぞ憂き」(古今・秋上 躬恒)。 ■君たち 夕霧の子供たち。「幼き君たちなどすだきあわてたまふに…」(【横笛 05】)。 ■寝おびれたる 「寝おびる」は寝ぼける。「おびる」はぼんやりする。 ■ありつる所 さっきまでいた一条宮。自邸のひどい状況を見るにつけ、夕霧の中で一条宮と落葉の宮はいよいよ理想化される。 ■この笛 柏木遺愛の笛。 ■御琴ども 和琴や筝。 ■ただおほかたの… 表面的には落葉の宮を皇女として大切にしながら(【柏木 07】)。 ■見劣りせむことこそ 落葉の宮の容貌が悪かった場合を想像するが、すぐにそれを否定する。落葉の宮の容貌については「容貌ぞいとまほにはえものしたまふまじけれど」(【柏木 12】)と夕霧は考えていた。 ■うち気色ばみたる思ひやりもなくて 浮気心が見えて、疑わしい思いを抱くようなことが、お互いになかったの意。 ■睦びそめたる 夕霧と雲居雁は結婚後十年が経過。 ■ことわりに 自分が浮気しないから雲居雁が強気にふるまっているのも無理はないという気持ち。夕霧はまじめで、惟光の娘藤内侍以外に愛人はいない。 ■袿姿 直衣は着ずに袿だけを着た姿。夕霧が最後に対面したとき「白き衣どもの、なつかしうなよよかなるをあまた重ねて、衾ひきかけて臥したまへり」(【柏木 07】)という姿であった。その姿のまま夢にあらわれた。 ■この声 夕霧が吹いた笛の音を。 ■笛竹に… 笛をわが子薫に伝えてほしいの意をこめる。「ことならば」は同じことなら。「末の世ながき音」の「世」に「節」を、「音」に「根」をかける。「根」は子孫の意味をこめる。「吹き」「音」は笛の縁語。 ■思ふ方異にはべりき 笛をわたしたい人は他にあるの意。 ■つだみ 乳を吐き出すこと。 ■取り寄せさせたまて 乳母に。 ■耳はさみして 両方の髪の毛を耳にはさむこと。はしたない所作。 ■そそくりつくろひて 吐いた乳を拭いたり、着物を着替えさせたりする。 ■かはらか 乳が出ないこと。乳が出ない乳房を赤子にふくませる描写は、紫の上についてもあった(【薄雲 07】)。 ■撒米 物の怪を退散させるために米をまくこと。 ■夢のあはれも紛れぬべし このさわぎに夢で柏木とあった感動も消し飛んでしまった。 ■いまめかしき御ありさまの… 夕霧が落葉の宮のもとに行っていることを雲居雁は女房の密告により知っている。 ■まろ格子上げずば 物の怪はどこからでも入ってこれるので、格子を上げたことは関係ないとする皮肉。本来格子を上げて夫の帰りを待っているべきなのにそうしなかったことへの皮肉にもなっている。 ■あまたの人の親になりたまふままに… このあたり、からかい半分の発言。 ■たまひね 「やめたまひね」などの略。 ■まことにこの君なづみて 「まことに」は雲居雁が「例の物の怪入り来るなめり」と言ったのを受ける。柏木の亡霊が幼児にとりついたか。 ■女の御伝へはかなきをや 笛は女の吹くものではないので、この笛が女から柏木に伝えられたことはありえない。 ■いまはのとぢめ 臨終の時目をいよいよ閉じるという時。 ■愛宕 夕霧の菩提寺がある。源氏の母桐壺更衣の葬儀が行われたのも「愛宕」(【桐壺 05】)。おたぎ。京都市東山区鳥辺野付近。六道珍皇寺のあたり。平安遷都の際、葬送場とされたという。現在は右京区嵯峨鳥居本に愛宕念仏寺が移っている。現在の吉田山から岡崎あたりとする修正案も。 ■誦経 柏木の追善供養。 ■かの心寄せの寺 致仕の大臣家の菩提寺。柏木の祖母大宮の法要が行われた深草の極楽寺だろう(【藤裏葉 02】)。極楽寺は京都市伏見区深草極楽寺町にあった。藤原基経発願により息子の時平が創建。現日蓮宗宝塔寺の前身。 ■人 一条御息所。 ■さるゆゑ深き物 柏木遺愛の品であることをいう。 ■引き出で 「引き出づ」はもと馬を引き出して贈ったことから。 ■仏の道におむもけむ 寺に寄進すること。 ■尊きこととはいひながら 供養にはなるが。

朗読・解説:左大臣光永