【真木柱 27】近江の君、夕霧に懸想の歌をよみかける

まことや、かの内《うち》の大殿《おほいどの》の御むすめの、尚侍《ないしのかみ》のぞみし君も、さるものの癖《くせ》なれば、色めかしうさまよふ心さへ添ひて、もてわづらひたまふ。女御も、つひにあはあしきことこの君ぞひき出でんと、ともすれば御胸つぶしたまへど、大臣の、「今はなまじらひそ」と制《せい》しのたまふをだに聞き入れず、まじらひ出でてものしたまふ。いかなるをりにかありけむ、殿上人あまた、おぼえことなるかぎり、この女御の御方に参りて、物の音《ね》など調べ、なつかしきほどの拍子《ひやうし》うち加へて遊ぶ、秋の夕《ゆふべ》のただならぬに、宰相《さいしやうの》中将も寄りおはして、例ならず乱れてものなどのたまふを、人々めづらしがりて、「なほ人よりことにも」とめづるに、この近江《あふみ》の君、人々の中を押し分けて出でゐたまふ。「あなうたてや。こはなぞ」と引き入るれど、いとさがなげに睨《にら》みて、張りゐたれば、わづらはしくて、「奥《あう》なきことやのたまひ出でん」とつきかはすに、この世に目馴れぬまめ人をしも、「これぞな」などめでて、ささめき騒ぐ声いとしるし。人々いと苦しと思ふに、声いとさはやかにて、

「おきつ舟よるべなみ路にただよはば棹《さを》さしよらむとまり教へよ

棚無《たなな》し小舟《をぶね》漕《こ》ぎかへり、同じ人をや。あなわるや」と言ふをいとあやしう、この御方には、かう用意なきこと聞こえぬものをと思ひまはすに、この聞く人なりけりとをかしうて、

よるべなみ風のさわがす舟人も思はぬかたに磯づたひせず

とて、はしたなかめりとや。

現代語訳

そうそう、あの内大臣の御むすめで、尚侍をのぞんでいた君(近江の君)も、そういう類の者の常として、色めいた、うわついた気持ちまでも加わって、大臣ももてあましていらっしゃる。女御(弘徽殿女御)も、しまいには軽はずみなことをこの君がしでかすだろうと、何かにつけてはらはらなさるが、大臣が、「今はもう人前に出てはなりません」と、お止めなさるのをさえ聞き入れず、人前に出ていらっしゃる。

どういう折のことであったろうか、世間からのおぼえの高い多くの殿上人たちが、この女御(弘徽殿女御)の御方に参って、管弦の音などを奏して、好ましく拍子を加えて遊んでいらした、並々ならぬ風情の秋の夕べに、宰相中将(夕霧)もお立ち寄りになって、いつもと違って打ち解けた感じで冗談などおっしゃっているのを、女房たちは珍しがって、(女房)「やはり他の人とは違っていらっしゃる」とちやほやするのを、この近江の君は、人々の中を押し分けて出ていらっしゃる。「まあひどい。これは何としたこと」と内に引き入れようとするけれど、近江の君は、ひどく意地悪そうに睨んで、がんばっているので、女房たちはやっかいに思って、「軽はずみなことでもしでかすのではないかしら」とつつきあっていると、この世にもまれなまじめな人(夕霧)に対して、(近江の君)「この人だわ」などと褒めて、声を上げて騒ぐ声がとてもはっきり聞こえる。女房たちがまことに困ったことだと思っていると、とてもはっきりした声で、

(近江の君)「おきつ舟……

(沖を行く舟が寄る岸がないために波路にただよっているのでしたら、私のほうから棹をさして寄っていきましょう。どこへ泊まるのか教えてください=まだ結婚相手が決まっていないなら私なんかどうですか)

『棚無し小舟漕ぎかへり、同じ人をや』…ずっと一人だけを恋い続けているなんて、なんとまあつまらない」と言うのを、中将(夕霧)はひどく不審に思い、こちらの御殿に、こんなぶしつけなことを言う者がいようとは聞いたこともないのに、と思いめぐらしたところ、例の話に聞いていた近江の君であったかと、おかしくて、

(夕霧)よるべなみ……

(寄るべがなくて、風にもてあそばれている舟人であっても、そんな思いもよらない方面に磯伝いはいたしません=いくら結婚相手がまだ決まってないからといって、貴女は論外です)

といったので、近江の君はきまりの悪い思いをしたとかいうことだ。

語句

■まことや そうそう。そういえば。話題の転換。 ■尚侍のぞみし君 近江の君は尚侍をのぞみ周囲から嘲笑されていた(【行幸 16】【同 17】)。 ■さまよふ心さへ もともと非常識な性格である上に、色めいた気持ちまでも加わって、の意。 ■あはあはしき事 軽率なこと。軽はずみなこと。 ■秋の夕のただならぬ 前の玉鬘出産(【真木柱 26】)より以前のこと。 ■めづらしがりて ふだん夕霧は女房たちに冗談を言ったりしない、きまじめな性格なので。 ■さがなげに睨みて 以前も近江の君の同じような行動があった(【行幸 16】【同 17】)。 ■奥なきこと 軽はずみなこと。 ■この世に目馴れぬまめ人をしも よりによって堅物で知られる夕霧に対して、の意。 ■声いとさはやかにて 以前も「舌ぶりいとものさはやかなり」(【行幸 17】)とあった。 ■おきつ舟… 「おきつ舟」は夕霧。「よるべなみ路にただよはば」は雲居雁との結婚話がすすんでいないこと。もしそうなら私なんかどうですかと呼びかけている。懸想の歌としても直接的すぎ、つつしみに欠ける。 ■棚無し小舟 「堀江漕ぐ棚無し小舟漕ぎかへりおなじ人にや恋ひわたりなむ」(恋四 読人しらず)。「棚無し小舟」は船棚のない小さな舟。雲居雁にばかり恋情を向ける夕霧を嘲笑。 ■この聞く人 夕霧はかつて近江の君の噂をきいた(【常夏 01】)ことを思い出した。 ■よるべなみ… 「舟人」は夕霧。「おもはぬかた」は近江の君。いくら結婚話が進んでいないからといって、心にもない人はお断りですの意をこめた。

朗読・解説:左大臣光永