【行幸 16】近江の君、玉鬘が優遇されている不平を弘徽殿女御にぶつけ、尚侍をのぞむ 柏木ら、近江の君をからかう
世の人聞きに、しばしこのこと出ださじ、と切《せち》に籠めたまへど、口さがなきものは世の人なりけり。自然《じねん》に言ひ漏《も》らしつつ、やうやう聞こえ出でくるを、かのさがな者の君聞きて、女御の御前《おまへ》に、中将少将さぶらひたまふに出で来て、「殿は御むすめまうけたまふべかなり。あなめでたや。いかなる人、二方《ふたかた》にもてなさるらむ。聞けばかれも劣り腹なり」と、あうなげにのたまへば、女御かたはらいたしと思して、ものものたまはず。中将、「しかかしづかるべきゆゑこそものしたまふらめ。さても誰《た》が言ひしことを、かくゆくりなくうち出でたまふぞ。もの言ひただならぬ女房などもこそ、耳とどむれ」とのたまへば、「あなかま。みな聞きてはべり。尚侍《ないしのかみ》になるべかなり。宮仕《みやづかへ》にと急ぎ出で立ちはべりしことは、さやうの御かへりみもやとてこそ、なべての女房たちだに仕うまつらぬ事まで、おりたち仕うまつれ。御前のつらくおはしますなり」と恨みかくれば、みなほほ笑みて、「尚侍《ないしのかみ》あかば、なにがしこそ望まんと思ふを、非道《ひだう》にも思しかけけるかな」などのたまふに、腹立ちて、「めでたき御仲に、数ならぬ人はまじるまじかりけり。中将の君ぞつらくおはする。さかしらに迎へたまひて、軽《かろ》め嘲《あざけ》りたまふ。せうせうの人は、え立てるまじき殿の内かな。あなかしこあなかしこ」と、後《しり》へざまにゐざり退《しぞ》きて、見おこせたまふ。憎げもなけれど、いと腹あしげに眼尻《まじり》ひきあげたり。中将は、かく言ふにつけても、げにし過《あやま》ちたることと思へば、まめやかにてものしたまふ。少将は、「かかる方にても、たぐひなき御ありさまを、おろかにはよも思さじ。御心しづめたまうてこそ。堅き巌《いはほ》も沫雪《あわゆき》になしたまうつべき御気色なれば、いとよう思ひかなひたまふ時もありなむ」と、ほほ笑みて言ひゐたまへり。中将も、「天《あま》の磐戸《いはと》さし籠《こも》りたまひなんや、めやすく」とて立ちぬれば、ほろほろと泣きて、「この君たちさへ、みなすげなくしたまふに、ただ御前の御心のあはれにおはしませば、さぶらふなり」とて、いとかやすく、いそしく、下膳《げらう》童《わらは》べなどの仕うまつりたらぬ雑役《ざふやく》をも、立ち走りやすくまどひ歩《あり》きつつ、心ざしを尽くして宮仕《みやづかへ》し歩《あり》きて、「尚侍《ないしのかみ》におのれを申しなしたまへ」と責めきこゆれば、あさましういかに思ひて言ふことならむ、と思すに、ものも言はれたまはず。
現代語訳
世間の口の端に、しばらくこの話題がのぼることのないようにと、、ひたすら隠していらしたが、口さがないのは世間の人というものである。自然とあちこちに話が漏れて、そのたびに次第に噂が聞こえ出すのを、例のたちの悪い姫君(近江の君)がお聞きになって、女御(弘徽殿女御)の御前に、中将(柏木)・少将(弁少将)がお控えになっていらっしゃる時に出てきて、(近江の君)「殿(内大臣)は、御むすめがおできになったそうで。何とまあめでたい。どんな人が、二方(源氏と内大臣)に可愛がられているのでしょう。聞けばその人も私と同じく、母方の血はいやしいそうですね」と、いかにも軽薄におっしゃるので、女御はきまりが悪いとお思いになって、何もお応えにならない。
中将(柏木)は、「そのように大切にされるだけの理由がおありなのでしょう。それにしても誰が言ったことを、このように突然言い出しなさったのですか。口さがない女房などの耳にでも入ったら大変です」とおっしゃると、(近江の君)「おだまりなさい。ぜんぶ聞いているのです。尚侍になるらしいというのです。私が宮仕えに急いで出てきましたことは、そのようなお世話もしていただけるだろうと、普通の女房たちさえしないようなことまでして、身を入れて、お仕えしてきたのです。女御さまは、あんまりでいらっしゃいます」と恨み言を言うので、みなほほ笑んで、「尚侍に空きがあるなら、私が望もうと思っていのに、無理なご希望を持たれたものですね」などおっしゃるるで、姫君は腹を立てて、(近江の君)「立派なご兄弟方の中に、私のような物の数に入らない者は、交じるべきではございませんでした。中将の君(柏木)は、ひどい方でいらっしゃいます。おせっかいに私をお迎えになって、軽んじ、嘲りなさる。ふつうの人は、立っていることもできない御邸の内ですよ。ああ恐ろしい、ああ恐ろしい」と、後ろ向きにいざり退がって、こちらを見やっていらっしゃる。憎たらしいようすではないけれど、ひどく腹立たしげに眼尻を吊り上げている。中将(柏木)は、姫君がこう言うのにつけても、なるほどしくじったと思うので、神妙にして座っていらっしゃる。少将は、「こうしたお勤めでも、貴女の類のないお働きぶりを、女御さまはまさか無下にお思いにはなりますまい。御心をおしずめください。貴女は、固い巌でも淡雪のように溶かしてしまうほどの意気込みでいらしゃるから、たいそうよくご希望が叶えられる時もあるでしょう」と、ほほえんでおっしゃる。中将も、「天の磐戸を閉じて引きこもっていらっしゃるのが、無難でしょう」といってお立ちになったので、姫君ははらはらと泣いて、(近江の君)「この君たちまでも、みな私に冷たくなさるのに、ただ女御さまのお心が優しくていらっしゃるので、私はお仕えしているのです」といって、たいそうこまめに、いそいそと、下臈や童などもお仕え申し上げない雑役までも、身軽に、立ち走り、歩きまわっては、心をこめて宮仕えをしてまわって、(近江の君)「尚侍に私をお引き立てください」と強くお願い申すので、女御はあきれて、なんと思って言うことなのだろう、とお思いになるにつけ、何もおっしゃらない。
語句
■自然に言ひ漏らし 源氏、内大臣それぞれの女房たちが噂しまくっているのだろう。 ■さがな者 近江の君。「性なし」は性質がよくない。たちが悪い。近江の君は弘徽殿女御に宮仕えしている(【常夏 09】)。 ■女御の御前に 弘徽殿女御の周辺に華麗なサロンが形成されている。 ■劣り腹 母方の身分が低いこと。近江の君は母方の身分の低さということからいっても、玉鬘は自分と変わらない。それなのに玉鬘だけ優遇されて自分は冷遇されていると、不満をうったえる。 ■あうなげに 「奥無し(深い考えがない)」+「げなり」。 ■女御かたはらいたしと思して 弘徽殿女御は近江の君の言動があまりに無作法なため、呆れる。 ■なべての女房たちだに仕うまつらぬ事 近江の君は便所掃除や水汲み役をつとめる覚悟である(【常夏 08】)。 ■尚侍あかば 尚侍は女がなるもの。男がなりたいと言っては、いくら近江の君でもばかにされているとわかる。 ■さかしらに 「賢しら」は、さしでがましいこと。でしゃばること。おせっかい。 ■せうせうの人 少々の人。ふつうの人。 ■堅き巌も淡雪になしたまうつべき 近江の君に対する愚弄。神代の昔の天照大神のように貴女は磐をもくだくのだから、その意味からも尚侍になるのは当然ですとばかにする。「堅庭ヲ踏ミテ股《むかもも》ニ陥《ふみぬ》キ、沫雪ノゴト蹴《くゑ》散《はらら》かし」(日本書紀・神代上)。 ■中将も いったんは神妙になっていた中将も、少将の悪口に勢いをえて、また悪口をいう。 ■天の磐戸さし籠りたまひなんや 少将の神話のたとえを受けて、天照大神が天の磐戸にこもった話を引いて近江の君を愚弄する。「天ノ石窟《いわや》ニ入リマシテ、磐戸ヲ閉シテ幽居《こもりま》シヌ」(日本書紀・神代上)。 ■御前の御心のあはれにおはしませば 前は「御前につらくおはしますかな」とあった。興奮のあまり言うことが混乱している。 ■かやすく 「かやすし」はたやすい。 ■いそしく 「いそし」はいそいそと勤勉なさま。 ■