【夕霧 02】夕霧、小野の山荘に一条御息所を見舞う

八月中の十日ばかりなれば、野辺《のべ》のけしきもをかしきころなるに、山里のありさまのいとゆかしければ、「なにがし律師《りし》のめづらしう下《お》りたなるに、切《せち》に語らふべきことあり。御息所のわづらひたまふなるもとぶらひがてら、参《ま》うでん」と、おほかたにぞ聞こえごちて出でたまふ。御前《ごぜん》ことごとしからで、親しきかぎり五六人ばかり狩衣にてさぶらふ。ことに深き道ならねど、松が崎の小山《をやま》の色なども、さる巌《いはほ》ならねど秋のけしきづきて、都に二《に》なくと尽くしたる家ゐには、なほあはれも興《きよう》もまさりてぞ見ゆるや。

はかなき小柴垣《こしばがき》もゆゑあるさまにしなして、かりそめなれどあてはかに住まひなしたまへり。寝殿《しんでん》とおぼしき東《ひむがし》の放出《はなちいで》に修法《ずほふ》の壇《だん》塗りて、北の廂《ひさし》におはすれば、西面《にしおもて》に宮はおはします。御物の怪むつかしとて、とどめたてまつりたまひけれど、いかでか離れたてまつらんと慕ひわたりたまへるを、人に移り散るを怖《お》ぢて、すこしの隔てばかりに、あなたには渡したてまつりたまはず。客人《まらうと》のゐたまふべき所のなければ、宮の御方の簾《す》の前に入れたてまつりて、上臈《じやうらふ》だつ人々御|消息《せうそこ》聞こえ伝《つた》ふ。「いとかたじけなく、かうまでのたまはせ渡らせたまへるをなむ。もし、かひなくなりはてはべりなば、このかしこまりをだに聞こえさせでや、と思ひたまふるをなむ、いましばしかけとどめまほしき心つきはべりぬる」と聞こえ出だしたまへり。「渡らせたまひし御送りにもと思うたまへしを、六条院に承《うけたまわ》りさしたる事はべりしほどにてなん。日ごろも、そこはかとなく紛るる事はべりて、思ひたまふる心のほどよりは、こよなくおろかに御覧ぜらるることの苦しうはべる」など聞こえたまふ。

現代語訳

八月中の十日ごろなので、野辺のけしきも風情ある頃であるし、山里の風情も見たくなったので、(夕霧)「なにがし律師が、めずらしく山をおりたというから、折り入って相談したいことがある。御息所が病を患っていらっしゃるのもお見舞いがてら、参上しよう」と、普通の訪問のように言いつろくって、ご出発なさる。前駆はおおげさではなく、親しく召し使っている者だけが五六人ほど、狩衣姿でお仕えする。べつだん山深い道ではないが、松が崎の小山の色なども、そう趣のある岩石というわけではないが、秋のけしきに色づいて、都に二つとないように綺羅を尽くした六条院のお庭のありさまより、やはり風情も興もまさっていると見えるのである。

小野の山荘は、素朴な小柴垣も風情あるようすにととのえて、仮住まいではあっても気品があるようすに住んでいらっしゃった。寝殿と思われる建物の東の放出に加持祈祷のための壇を土を塗り重ねて築いて、御息所(一条御息所)は北の廂にいらっしゃるので、西面に宮(落葉の宮)はいらっしゃる。御物の怪がやっかいなので、御息所は宮(落葉の宮)を、京にお残し申されたのであるが、宮は、どうしてお離れ申し上げようと、御息所の後を追ってお越しになられているのであるが、御息所は、人に物の怪が宮に乗り移ることを恐れて、すこし中仕切りで隔てているだけだが、あちらの北廂には宮をお渡し申されない。客人がおすわりになれる所がないので、宮の御方の簾の前にお入れ申し上げて、上臈らしい女房たちが、御息所に、ご挨拶をお取り次ぎ申し上げる。(御息所)「まことに畏れ多く、こうまでおっしゃってくださいまして、お見舞いくださいましたことを感謝申し上げております。もしこのまま、はかなくなってしまいましたら、この感謝の気持ちすらも貴方さまに申し上げることができなくなろうかと心苦しく存じますので、もうしばらく命をとどめておきたい、という気持ちが出てまいりました」と、外にいる大将(夕霧)にお伝え申し上げなさった。(夕霧)「こちらにお移りされた御送りにもうかがおうと存じておりましたが、六条院から仰せ付けられまして、中途のままの用事があった時分でございまして。ふだんも、何とはなしに紛れる用事がございまして、お案じ申し上げておりますこの気持ちからすると、ひどく誠意のない者のようにご覧いただいておりますことが、心苦しゅうございます」など申し上げなさる。

語句

■山里 小野の山荘。 ■なにがし律師 夕霧は具体的な人名を言ったが物語中ではぼかしてある。 ■たなる 「たるなる」の音便無表記。「なり」は伝聞。 ■おほかたにぞ 「おほかた」は律師と相談し、御息所を見舞うというふつうの訪問。真の目的は落葉の宮と逢うことだが、言い繕う。 ■御前 大将の前駆はふつう十ニ人。それを省略した。 ■松が岬 京都市左京区松ヶ崎。京都市内から小野へ行く途中にある。桐壺院の山陵はこのあたりと思われる(【須磨 08】)。 ■さる巌ならねど 深い山の岩石というわけではないが、の意か。 ■都にニなくと尽くしたる家ゐ 六条院の西南の町は秋の風情を作っている(【少女 33】)。それと比べてこの郊外の景色のほうがすばらしいという。 ■はかなき小柴垣 小野の山荘のさま。 ■寝殿とおぼしき 本格的な寝殿造ではないので「おぼしき」という。 ■放出 仏事などを行う母屋のことか。 ■壇塗りて 護摩壇を土で塗り重ねて築く。 ■西面 母屋の西面。 ■御物の怪むつかし 御息所は物の怪が落葉の宮に乗り移ることを心配する。 ■とどめたてまつり… 京に。 ■御消息聞こえ伝ふ 夕霧からの挨拶を御息所に取り次ぐ。 ■渡らせたまへるをなむ 下に「とても感謝しております」の意を補い読む。 ■渡らせたまひし御送り 御息所の小野移転の見送り。 ■六条院に 小野に来られなかったのは雲居雁の嫉妬をはばかって(【夕霧 01】)のことだが、それを言い繕う。

朗読・解説:左大臣光永