【夕霧 03】夕霧、落葉の宮と歌の贈答、胸中を訴える

宮は、奥の方《かた》にいと忍びておはしませど、ことごとしからぬ旅の御しつらひ、浅きやうなる御座《おまし》のほどにて、人の御けはひおのづからしるし。いとやはらかにうち身じろきなどしたまふ御|衣《ぞ》の音なひ、さばかりななりと聞きゐたまへり。心もそらにおぼえて、あなたの御|消息《せうそこ》通ふほど、すこし遠う隔《へだ》たる隙《ひま》に、例の少将の君など、さぶらふ人々に物語などしたまひて、「かう参り来馴《きな》れうけたまはることの、年ごろといふばかりになりにけるを、こよなうもの遠うもてなさせたまへる恨めしさなむ。かかる御簾《みす》の前にて、人づての御消息などの、ほのかに聞こえ伝ふることよ。まだこそならはね。いかに古めかしきさまに、人々ほほ笑みたまふらんとはしたなくなん。齢《よはひ》つもらず軽《かる》らかなりしほどに、ほの好《す》きたる方《かた》に面馴《おもな》れなましかば、かううひうひしうもおぼえざらまし。さらに、かばかりすくすくしうおれて年|経《ふ》る人は、たぐひあらじかし」とのたまふ。

げにいと侮《あなづ》りにくげなるさましたまへれば、さればよと、「なかなかなる御|答《いら》へ聞こえ出でむは恥づかしう]などつきしろひて、「かかる御|愁《うれ》へ聞こしめし知らぬやうなり」と宮に聞こゆれば、「みづから聞こえたまはざめるかたはらいたさに代《か》はりはべるべきを、いと恐ろしきまでものしたまふめりしを見あつかひはべりしほどに、いとどあるかなきかの心地になりてなん、え聞こえぬ」とあれば、「こは宮の御消息か」とゐなほりて、「心苦しき御悩みを、身に代《か》ふばかり嘆ききこえさせはべるも、何のゆゑにか。かたじけなけれど、ものを思し知る御ありさまなど、はればれしき方にも見たてまつりなほしたまふまでは、たひらかに過ぐしたまはむこそ、誰《た》が御ためにも頼もしきことにははべらめと、推《お》しはかりきこえさするによりなむ。ただあなたざまに思し譲《ゆづ》りて、積もりはべりぬる心ざしをも知ろしめされぬは、本意《ほい》なき心地なむ」と聞こえたまふ。「げに」と人々も聞こゆ。

日入り方になりゆくに、空のけしきもあはれに霧《き》りわたりて、山の蔭《かげ》は小暗《をぐら》き心地するに、蜩《ひぐらし》鳴きしきりて、垣《かき》ほに生ふる撫子《なでしこ》のうちなびける色もをかしう見ゆ。前《まへ》の前栽《せんざい》の花どもは、心にまかせて乱れあひたるに、水の音《おと》いと涼しげにて、山おろし心|凄《すご》く、松の響き木深《こぶか》く聞こえわたされなどして、不断《ふだん》の経《きやう》読む時《とき》かはりて、鐘《かね》うち鳴らすに、立つ声もゐ代《か》はるもひとつにあひて、いと尊く聞こゆ。所がらよろづの事心細う見なさるるも、あはれにもの思ひつづけらる。出でたまはん心地もなし。律師《りし》も、加持《かぢ》する音して、陀羅尼《だらに》いと尊く読むなり。

いと苦しげにしたまふなりとて人々もそなたに集《つど》ひて、おほかたもかかる旅所《たびどころ》にあまた参らざりけるに、いとど人少なにて、宮はながめたまへり。しめやかにて、思ふこともうち出でつべきをりかなと思ひゐたまへるに、霧のただこの軒《のき》のもとまで立ちわたれば、「まかでん方も見えずなりゆくは。いかがすべき」とて、

山里のあはれをそふる夕霧にたち出でん空もなき心地して

と聞こえたまへば、

山がつのまがきをこめて立つ霧もこころそらなる人はとどめず

ほのかに聞こゆる御けはひに慰めつつ、まことに帰るさ忘れはてぬ。

「中空《なかぞら》なるわざかな。家路《いへぢ》は見えず、霧の籬《まがき》は、立ちとまるべうもあらずやらはせたまふ。つきなき人はかかることこそ」などやすらひて、忍びあまりぬる筋もほのめかし聞こえたまふに、年ごろもむげに見知りたまはぬにはあらねど、知らぬ顔にのみもてなしたまへるを、かく言《こと》に出でて恨みきこえたまふを、わづらはしうて、いとど御|答《いら》へもなければ、いたう嘆きつつ、心の中《うち》に、またかかるをりありなんやと、思ひめぐらしたまふ。「情《なさけ》なうあはつけき者には思はれたてまつるともいかがはせむ。思ひわたるさまをだに知らせたてまつらん」と思ひて、人を召せば、御|衛府《つかさ》の将監《ぞう》よりかうぶり得たる、睦《むつ》ましき人ぞ参れる。忍びやかに召し寄せて、「この律師にかならず言ふべきことのあるを。護身《ごしん》などに暇《いとま》なげなめる、ただ今はうち休むらむ。今宵《こよひ》このわたりにとまりて、初夜《そや》の時《じ》はてんほどに、かのゐたる方にものせむ。これかれさぶらはせよ。随身《ずいじん》などの男《をのこ》どもは、栗栖野《くるすの》の庄《さう》近からむ、秣《まぐさ》などとり飼《か》はせて、ここに人あまた声なせそ。かうやうの旅寝は、軽々《かるがる》しきやうに人もとりなすべし」とのたまふ。あるやうあるべしと心得て、承《うけたまは》りて立ちぬ。

現代語訳

宮(落葉の宮)は、奥のほうに実にそっとしていらっしゃるが、簡素な旅先の部屋のしつらえであるし、蔀から近いあたりにお席を設けていらっしゃるようで、その人(落葉の宮)の御けはいが、おのづとはっきり感じられる。たいそうやわらかに身じろぎなどなさる、お召し物の衣擦れの音に、大将(夕霧)は、あのあたりだろうと聞き耳を立てていらっしゃる。心ここにあらずというように思われて、先方への挨拶を伝えに行った使者が戻ってくるまでの間、すこし時間がかかっている隙に、いつものように少将の君など、お仕えしている女房たちと世間話などなさって、(夕霧)「こうしていつも参って御用を承るようりになりましてから、長年、というほどになりますのに、たいそう疎遠なお扱いをなさる恨めしさですよ。こんな御簾の前で、人を介してのご挨拶などを、わずかにお伝え申し上げることといったら。まだこんな目にあったことがありません。どれほど古めかしい男だと、女房方も嘲笑していらっしゃるだろうときまりがわるうございます。まだ年も若く身分も軽かった頃に、好色めいた方面に馴れ親しんでいたら、このように物馴れないようすで恥ずかしい思いもしなかったでしょうに。まったく、私ほどきまじめに馬鹿正直に年月を過ごしてきた者は、他にいないでしょうよ」とおっしゃる。

なるほど、いかにも軽々しく扱えない真剣なご態度でいらっしゃるので、そらやっぱりと、(女房)「生半可な御答えをお返し申し上げるのは恥ずかしいことで」などつつきあって、(女房)「あんなにもお気持ちを訴えていらっしゃるのに、それに対して返事をしないことは、人情を知らないようにみえます」と宮(落葉の宮)に申し上げると、(落葉の宮)「母御息所がご自分でお返事ができないようなのは失礼なので、私が代わってお返事すべきでしょうが、ひどく恐ろしいまでに物の怪に苦しめられていらっしゃるようなのを看病しておりますうちに、まことにあるかなきかという気持ちになって、お返事申し上げることもできません」というので、(夕霧)「これは宮(落葉の宮)のお言葉か」と居ずまいを正して、(夕霧)「心苦しい御息所の御病気を、わが身に代えてもと思うほど嘆き申し上げておりますのも、何のゆえと思われますか。畏れ多いことですが、貴女が心底物思いに沈んでいらっしゃるお暮らしが、いつか晴れ晴れと明るくなるのを、御息所がご覧になられるまでは、安泰にお過ごしになられることが、母娘のどちらにとっても、頼もしいことでございましょう。そうご推察申し上げますからこそ私はこうして…。私がただ御息所さまのためだけに動いているようにお考えになって、ここまで積もってまいりました私の気持ちをご理解くださらないことは、不本意な気持ちがいたしまして」と申し上げられる。「いかにも」と女房たちも申し上げる。

日暮れに近づくにつれて、空のけしきも趣深いかんじにあたり一面に霧が立ちこめて、山の蔭は薄暗くなっていく感じがする中、蜩が鳴しきって、垣根に生えている撫子が風になびいている色合いも美しく見える。部屋の前の前栽の花々は、思い思いに乱れ咲いている中に、水の音がまことに涼しげにひびき、山おろしの風が心に染みるほど寒々と吹いて、松風の響きが深い木立一面に聞こえたりして、不断の経を読む交代の時がきて、鐘をうち鳴らすと、立ち去る僧の声も、交代の僧の声も、ひとつになって、まことに尊く聞こえる。こういう場所であるから、万事心細く思われてくるにつけても、しみじみと興深い思いに身をゆだねていらっしゃる。お立ち去りになろうというお気持ちにもならない。律師も、加持祈祷をする音をさせて、陀羅尼をまことに尊く読むのが聞こえる。

御息所が、ひどく苦しげにしていらっしゃるようだということで、人々もそちら(北廂)に集まって、ただでさえこんな旅先の住まいに多くの人は参らないのに、ますます人が少ない中、宮(落葉の宮)はぼんやりと物思いに沈んでいらっしゃる。しっとりして、胸中に思っていることも打ち明けるべき折であると、大将(夕霧)はそうお思いになって座っていらっしゃると、霧がまさしくこの軒の下まで立ちこめるので、(夕霧)「帰る方角も見えなくなっていきますよ。どういたしましょう」とおっしゃって、

(夕霧)山里の……

(山里の寂しい気持ちをつのらせるこの夕霧の中、立ち去るべき空もないという気持ちがいたしまして)

と申し上げなさると、

(落葉の宮)山がつの……

(山がつの家の籬をつつんで立ちこめる霧も、気持ちが浮ついている人をひきとどめることはしません)

ほんの少し聞こえている気配に心慰めながら、実際に帰り道を忘れ果ててしまった。

(夕霧)「どうしようか判断のつかぬことですよ。帰り道はこの霧で見えないし、霧立つ垣根は、私が立ち止まることもできないように追い払いなさる。不似合いな男に対してなら、こういう扱いをなさることもごもっともですが」などと、お気持ちを言い出しかねて、忍んでも忍びきれないお気持ちをそれとなくお伝え申し上げなさるので、宮が、何年もお見知りでないわけでもないのに、素っ気なく知らぬ顔にばかりあしらわれることを、大将が、こうして言葉に出して恨み言を申し上げなさることを、宮は面倒にお思いになられて、いよいよ御答えもないので、大将はひどく嘆きながら、心の中で、次もこんな機会があるとは限らないと、思いめぐらしなさる。(夕霧)「情け知らずで浮ついた者のように思われ申すとしても、私はどうすればよいのか。せめて長年思い続けてきた気持ちをお伝え申し上げよう」と思って、人を召せば、左近衛府の判官で五位に叙せられた、側近の人が大将のもとに参る。大将は判官をそっと召し寄せて、(夕霧)「この律師に必ず言うべきことがあるのだが。護身などに忙しそうなご様子だが、ちょうど今ならお休みであろう。今宵はこのあたりに泊まって、初夜の勤行が終わった時に、かの律師がいらっしゃる所にうかがおう。あの者この者を供させよ。随身などの男たちは、来栖野の領地が近いだろうから、秣などを馬に与えて、ここではあまり多くの人に声を立てさせるな。こうした旅寝は、浮ついたことのように世間の人も取りざたするだろうから」とおっしゃる。判官は、何か仔細があるのだろうと心得て、仰せを承って立ち去った。

語句

■宮 落葉の宮。母御息所のいる母屋の西側の部屋にいる。 ■ことごとしからぬ 簡素な。それゆえ夕霧は接近しやすい。 ■御しつらひ 住居のさま。ここでは几帳や御簾の立て方を特にいう。 ■さばかり 身動きの気配であそこに落葉の宮がいるなと見当をつける(【帚木 15】)。 ■ななり 「なるなり」の音便無表記。 ■あなたの御消息通ふほど 夕霧が座っている位置から落葉の宮のいる位置まで距離があるので、使者が行って戻ってくるまで時間がかかる。 ■例の少将の君 落葉の宮の女房、小少将。御息所の姪。宮の従姉妹。大和守の妹。御息所の養女格(【柏木 12】)。 ■かう参り来馴れ… 以下、夕霧はわざと落葉の宮にも聞こえるように言う。 ■年ごろといふばかり 柏木の死後三年目。 ■恨めしさなむ 下に「深い」などの意を補い読む。 ■いかに古めかしきさまに 以下、夕霧は自分が色好みとは正反対できまじめな男であることを強調し、落葉の宮を安心させようとする。 ■すくすくしう 「すくすくし」はきまじめで愛想がない。 ■おれて 「お(愚・痴)る」は、ばかになる。ぼける。 ■げにいと侮りにくげなる… 「げに」は「なべての宣旨書きは…御さまなり」(【夕霧 01】)を受ける。 ■さればよ 女房たちは夕霧が落葉の宮に懸想していることを察知。 ■つきしろひて 「つきしろふ」はつつきあう。主に女房たちが主人やそのまわりの人物のよからぬ噂をする場面で使われる語。 ■いと恐ろしきまでものしまふ 御息所が物の怪に苦しめられているさま。 ■こは宮の御消息か これまで夕霧は女房を介して落葉の宮の言葉を間接的に受け取っていた。直接言葉をかけられることは滅多になかったので、夕霧はこれを前進とみた。 ■心苦しき御悩みを ここから夕霧は御簾ごしに落葉の宮に直接語りかける。どのあたりに居るかは見当がついている。 ■何のゆゑにか 貴女のためですの意。 ■御ありさま 柏木の死後、悲しみに沈んているようす。 ■はればれしき方にも… 落葉の宮が今の状態からうってかわって、幸福に生きられるようになるまで、御息所に健在であってほしいの意。 ■誰が御ためにも 御息所のためにも落葉の宮のためにも。 ■よりなむ 下に「だから私はお世話申し上げているのです」の意を補い読む。 ■あなたざまに思し譲りて 夕霧が御息所のことだけを考えているように考えて。実際は夕霧は落葉の宮に懸想しているのである。 ■心ざし 御息所のためでなく貴女のために世話をしているのですの意をこめる。 ■本意なき心地なむ 下に「しはべる」を補い読む。 ■げに 女房たちは落葉の宮と夕霧の結婚を望む。自分たちの生活の安定のためもある。 ■日入り方になりゆくに 夕霧が落葉の宮を訪れる場面では「霧」が繰り返し強調されている。 ■山の蔭は小暗き… 「ひぐらしの鳴きつるなへに日はくれぬと思へば山のかげにぞありける」(古今・秋上 読人しらず)。「なへ」は…するとともに。…するにつれて。 ■垣ほに生ふる撫子の… 「あな恋し今も見てしが山賤の垣ほに咲ける大和撫子」(古今・恋四 読人しらず)。 ■水の音 自然の流水か、筧の水か。 ■不断の経読む 法華経、最勝王経、大般若経などを昼夜絶え間なく読み続けること。 ■時 「時(じ)」。不断経では一昼夜を十二の時間帯にわけ、一時ごとに一人の僧が読経する。次の「時」がくると交代の僧があらわれ、読経をひきつぐ。 ■鐘うち鳴らすに 交代のとき、前番の僧が打つ。 ■立つ声もゐ代はるもひとつにあひて 交代のとき、前番の僧も後番の僧もともに斉唱して読経を絶やさない。それを「ひとつにあひて」といったもの。 ■所がら 小野の里という場所がら。 ■加持 真言密教の祈祷。手で印を結び、金剛杵を握り、陀羅尼を唱える。物の怪などを払うために行われる。 ■陀羅尼 サンスクリット語で唱える長い呪文。 ■いとど人少なにて 落葉の宮の部屋には。 ■山里の… 巻名。「夕霧」の名もこの歌から。「たち」「空」は「霧」の縁語。「夕霧に衣は濡れて草枕旅寝するかもあはれ君ゆゑ」(古今六帖一。原歌は万葉195の人麿の長歌の一部。第四句は「旅寝かもする」)。夕霧は下句の内容をにおわせる。 ■山がつの… 「山がつのまがきをこめて立つ霧」は落葉の宮。「こころそらなる人」は夕霧。 ■まことに 前の自作の歌の内容を受ける。 ■中空なる 立ち去るか、とどまるか、判断がつきかねる気持ち。 ■霧の籬は… 参考「人の見ることや苦しき女郎花霧の籬にたちかくるらん」(古今六帖六 忠岑)。 ■やらはせたまふ 「やらふ」は追い払う。 ■つきなき人 「つきなし」は不似合いであること。自分はそうではないと夕霧は言いたい。 ■かかること 「やらはせたまふ」をさす。 ■やすらひて 恋心を打ち明けようかためらって。 ■忍びあまりぬる筋 落葉の宮に対する懸想心。 ■年ごろもむげに… 夕霧はすでに意中を落葉の宮に打ち明けている(【柏木 12】【横笛 05】)。 ■かかるをり 落葉の宮に言い寄る機会。 ■御衛府の将監よりかうぶり得たる 夕霧の属する左近衛府の判官(じょう。三等官)のうち、五位に叙せられた者。 ■この律師に必ず… 小野を訪れた表向きの目的は律師と対談し御息所の見舞いをすることだった(【夕霧 02】)。 ■御身 御身法。加持の力で身を守る修法。印を結び陀羅尼を唱える。 ■初夜 一昼夜を晨朝・日中・日没・初夜・中夜・後夜の六つに分け、それぞれの時間帯で勤行を行った。 ■これかれさぶらさせよ 腹心のを指名。 ■随身の男ども 随身は近衛府の舎人で公人であるので、夕霧の個人的な腹心とはちがう。だから夕霧は、随身たちには今夜の忍び歩きを知られたくないと思う。 ■来栖野 山城国愛宕郡。現京都市北区の西賀茂、鷹峯、松ヶ崎、幡枝《はたえ》一帯。小野に近い。 ■庄 夕霧の荘園。

朗読・解説:左大臣光永