【夕霧 04】落葉の宮、夕霧の求婚を拒絶

さて、「道いとたどたどしければ、このわたりに宿借りはべる。同じうは、この御簾《みす》のもとにゆるされあらなむ。阿闍梨《あざり》の下《お》るるほどまでなむ」と、つれなくのたまふ。例は、かやうに長居《ながゐ》して、あざればみたる気色も見えたまはぬを、うたてもあるかな、と宮思せど、ことさらめきて、軽《かる》らかにあなたにはひわたりたまはんもさまあしき心地して、ただ音せでおはしますに、とかく聞こえ寄りて、御消息聞こえ伝へにゐざり入る人の影につきて入りたまひぬ。

まだ夕暮《ゆふぐれ》の、霧にとぢられて内は暗くなりにたるほどなり。あさましうて見返りたるに、宮はいとむくつけうなりたまうて、北の御障子《みさうじ》の外《と》にゐざり出でさせたまふを、いとようたどりて、ひきとどめたてまつりつ。御身は入りはてたまへれど、御|衣《ぞ》の裾《すそ》の残りて、障子はあなたより鎖《さ》すべき方なかりければ、引き閉《た》てさして、水のやうにわななきおはす。人々もあきれて、いかにすべき事ともえ思ひえず、こなたよりこそ鎖《さ》す掛金《かね》などもあれ、いとわりなくて、荒々しくはえ引きかなぐるべく、はた、ものしたまはねば、「いとあさましう。思《おも》たまへよらざりける御心のほどになむ」と、泣きぬばかりに聞こゆれど、「かばかりにてさぶらはむが、人よりけにうとましう、めざましう思さるべきにやは。数ならずとも、御耳馴れぬる年月も重《かさ》なりぬらむ」とて、いとのどやかにさまよくもてしづめて、思ふことを聞こえ知らせたまふ。

聞き入れたまふべくもあらず、悔しう、かくまでと思すことのみやる方《かた》なければ、のたまはむこと、はた、ましておぼえたまはず。「いと心|憂《う》く若々しき御さまかな。人知れぬ心にあまりぬるすきずきしき罪ばかりこそはべらめ、これより馴れ過ぎたることは、さらに御心ゆるされでは御覧ぜられじ。いかばかり千々《ちぢ》に砕《くだ》けはべる思ひにたへぬぞや。さりともおのづから御覧じ知るふしもはべらんものを、強《し》ひておぼめかしう、けうとうもてなさせたまふめれば、聞こえさせん方なさに、いかがはせむ、心地なく憎しと思さるとも、かうながら朽《く》ちぬべき愁《うれ》へを、さだかに聞こえ知らせはべらんとばかりなり。いひ知らぬ御気色のつらきものから、いとかたうじけなければ」とて、あながちに情《なさけ》深う用意したまへり。障子《さうじ》をおさへたまへるは、いとものはかなき固《かた》めなれど、引きも開《あ》けず、「かばかりのけぢめをと、強ひて思さるらむこそあはれなれ」とうち笑ひて、うたて心のままなるさまにもあらず。人の御ありさまの、なつかしうあてになまめいたまへること、さはいへどことに見ゆ。世とともにものを思ひたまふけにや、痩《や》せ痩せにあえかなる心地して、うちとけたまへるままの御袖のあたりもなよびかに、け近うしみたる匂《にほ》ひなど、とり集めてらうたげに、やはらかなる心地したまへり。

風いと心細う更《ふ》けゆく夜《よ》のけしき、虫の音《ね》も、鹿のなく音《ね》も、滝の音《おと》も、ひとつに乱れて艶なるほどなれば、ただありのあはつけ人だに寝ざめしぬべき空のけしきを、格子《かうし》もさながら、入り方の月の山の端《は》近きほど、とどめ難うものあはれなり。「なほかう思し知らぬ御ありさまこそ、かへりては浅う御心のほど知らるれ。かう世づかぬまでしれじれしきうしろやすさなども、たぐひあらじとおぼえはべるを、何ごとにもかやすきほどの人こそ、かかるをば痴者《しれもの》などうち笑ひて、つれなき心も使ふなれ、あまりこよなく思しおとしたるに、えなむしづめはつまじき心地しはべる。世の中をむげに思し知らぬにしもあらじを」と、よろづに聞こえ責められたまひて、いかが言ふべき、とわびしう思しめぐらす。

世を知りたる方の心やすきやうにをりをりほのめかすも、めざましう、げにたぐひなき身のうさなりやと思しつづけたまふに、死ぬべくおぼえたまうて、「うきみづからの罪を思ひ知るとても、いとかうあさましきを、いかやうに思ひなすべきにかはあらむ」と、いとほのかに、あはれげに泣いたまうて、

われのみやうき世を知れるためしにて濡れそふ袖の名をくたすべき

とのたまふともなきを、わが心につづけて忍びやかにうち誦《ず》じたまへるも、かたはらいたく、いかに言ひつることぞと思さるるに、「げに。あしう聞こえつかし」など、ほほ笑みたまへる気色にて、

「おほかたはわれ濡《ぬ》れ衣《ぎぬ》をきせずともくちにし袖の名やはかくるる

ひたぶるに思しなりねかし」とて、月|明《あ》かき方にいざなひきこゆるもあさましと思す。心強うもてなしたまへど、はかなう引き寄せたてまつりて、「かばかりたぐひなき心ざしを御覧じ知りて、心やすうもてなしたまへ。御ゆるしあらでは、さらにさらに」といとけざやかに聞こえたまふほど、明け方近うなりにけり。

月|隈《くま》なう澄みわたりて、霧にも紛れずさし入りたり。浅はかなる廂《ひさし》の軒《のき》はほどもなき心地すれば、月の顔に向かひたるやうなる、あやしうはしたなくて、紛らはしたまへるもてなしなど、いはむ方なくなまめきたまへり。故君《こぎみ》の御事もすこし聞こえ出でて、さまようのどやかなる物語をぞ聞こえたまふ。さすがに、なほ、かの過ぎにし方に思しおとすをば、恨めしげに恨みきこえたまふ。御心の中《うち》にも、かれは、位《くらゐ》などもまだ及ぼざりけるほどながら、誰《たれ》も誰も御ゆるしありけるに、おのづからもてなされて見馴れたまひにしを、それだにいとめざましき心のなりにしさま、ましてかうあるまじきことに、よそに聞くあたりにだにあらず、大殿《おほとの》などの聞き思ひたまはむことよ。なべての世の譏《そし》りをばさらにもいはず、院にもいかに聞こしめし思ほされん、など、離れぬここかしこの御心を思しめぐらすに、いと口惜しう、わが心ひとつにかう強う思ふとも、人のもの言ひいかならん、御息所の知りたまはざらむも罪得がましう、かく聞きたまひて、心幼くと思しのたまはむもわびしければ、「明かさでだに出でたまへ」と、やらひきこえたまふより外《ほか》のことなし。

「あさましや。事あり顔に分けはべらん朝露の思はむところよ。なほさらば思し知れよ。かうをこがましきさまを見えたてまつりて、かしこうすかしやりつと思し離れむこそ、その際《きは》は、心もえをさめあふまじう、知らぬ事々けしからぬ心づかひもならひはじむべう思ひたまへらるれ」とて、いとうしろめたくなかなかなれど、ゆくりかにあざれたる事のまことにならはぬ御心地なれば、いとほしう、わが御みづからも心おとりやせむなど思《おぼ》いて、誰《た》が御ためにもあらはなるまじきほどの霧にたち隠れて出でたまふ、心地そらなり。

「荻原《をぎはら》や軒《のき》ばのつゆにそぼちつつ八重たつ霧を分けぞゆくべき

濡《ぬ》れ衣《ごろも》はなほえ干《ほ》させたまはじ。かうわりなうやらはせたまふ御心づからこそは」と聞こえたまふ。げにこの御名のたけからず漏《も》りぬべきを、心の問はむにだに、口ぎよう答へんと思せば、いみじうもて離れたまふ。

「分けゆかむ草葉の露をかごとにてなほ濡《ぬ》れ衣《ぎぬ》をかけんとや思ふ

めづらかなることかな」とあはめたまへるさま、いとをかしう恥づかしげなり。年ごろ人に違《たが》へる心ばせ人になりて、さまざまに情《なさけ》を見えたてまつるなごりなく、うちたゆめ、すきずきしきやうなるがいとほしう心恥づかしげなれば、おろかならず思ひ返しつつ、かうあながちに従ひきこえても、後《のち》をこがましくやと、さまざまに思ひ乱れつつ出でたまふ。道の露けさもいとところせし。

現代語訳

さて、(夕霧)「帰り道がひどくおぼつかないので、このあたりに宿を借ります。同じことなら、この御簾のもとにお許しいただけるでしょうか。阿闍梨が下りてくるまでの間だけでよろしいですから」と、さりげなくおっしゃる。ふだんは、こんなにも長居して、戯れめいたようすもお見えでないのに、いやなものだなと宮(落葉の宮)はお思いになるが、かといってことさらめかしく、向こうにいざり移っていかれるのも具合が悪い気がして、ひたすら何も言わずにいらっしゃると、大将は、あれこれと申し上げて近寄って、お気持ちをお伝え申し上げようと、御簾の中にいざり入る女房の後についてお入りになった。

まだ夕暮れの、霧に包まれて部屋の内は暗くなっている時である。女房が呆れて振り返ったので、宮(落葉の宮)はひどく気味が悪くおなりで、北の御襖の外にいざり出ていかれるのを、大将は手探りでまったくよく探り当てて、御裾をお引きとどめ申し上げられた。宮ご自身はすっかり向こうのお部屋にお入りになられたが、御衣の裾がこちら側に残って、襖はあちらから掛金を鎖す方法がなかったので、閉めきらないまま、宮は水のように汗を流してわなないていらっしゃる。女房たちも呆然として、どうしたらいいかもわからず、こちら側からなら鎖す掛金などもあるが、ひどくどうしようもなくて、荒々しくは引きもどすこともできず、また、強引に引き離すようなことのできる御方でもいらっしゃらないので、(女房)「ひどく呆れたことで。そんなお心とはまったく存じ上げませんでした」と、泣いてしまうほどに申し上げるが、(夕霧)「このていどお側に居させていただくことが、人より格別に疎ましく、目障りにお思いになられるようなことでしょうか。物の数にも入らない私の身ではありますが、私のことをいつも御耳になさって年月もずいぶんになりますでしょうに」とおっしゃって、まことに落ち着いて見苦しくなくご自重なさって、思うことをお伝え申し上げなさる。

宮はお聞き入れになられるはずもなく、悔しく、ここまで無礼なふるまいをされるのかと、そうお思いになられるばかりで、大将の御手を払いのけようもないので、なおさらのこと、おっしゃることも、何もお思いつきになられない。(夕霧)「ひどく残念な、大人げないやり方ではありませんか。人知れぬ胸の内に、思い余っての色恋事、という咎めはたしかに受けねばなりますまいが、これ以上に馴れ馴れしいまねは、貴女の御許しがなければけしてご覧に入れることはございませんよ。どれほど私の思いは千々に砕けておりますことでしょう。その思いに私は身が持たないのですよ。いくらなんでも、私の気持ちを自然とご覧になっておわかりいただいておりましょうに、あえてとぼけたご様子で、疎遠なお扱いをなさるようですから、何と申し上げようもないので、いかがいたしましょう、私のことを情なく憎いとお思いになられるとしても、このままでは朽ちてしまうだろう胸の内の悶えを、はっきりとお伝えしようとするばかりです。貴女のその言いようもないご様子が辛いのですが、ひどく畏れ多いことですから、これ以上のことはいたしませんから…」とおっしゃって、かえって情深く御心遣いをなさるのだった。襖を押さえていらっしゃるのは、まことにささやかな固めであるが、大将は引き開けもせず、(夕霧)「せめてこれくらいは襖の隔てだけでもと、しいてお思いになっていらっしゃるらしいことがおいとしいことです」とお笑いになって、思いにまかせて情けないふるまいをなさるわけでもない。宮のお人柄が、やさしく、気品があって優美でいらっしゃることは、ああはいってもやはり、格別にお見えになる。世の移り変わるにつれて物思いを重ねてこられたせいだろうか、痩せに痩せて、きゃしゃな感じで、普段着のままでいらっしゃる御袖のあたりもなよなよして、近くに漂ってくる染み込んだ匂いなど、何もかも可愛らしげで、やわなかな心地がなさるのだった。

風がまことに心細く吹いて、更けゆく夜のありさまは、虫の音も、鹿のなく声も、滝の音も、ひとつにまじり乱れて優美な風情であるので、世間並の浮ついた人でさえ夜中に目が覚めて眠れないだろう空のけしきなのに、格子も上げたままで、山の端近くに月が隠れていく趣は、涙も抑えがたいほど、しみじみと胸にせまるのである。(夕霧)「やはりまだこうして、私の気持ちをおわかりいただけないようなおふるまいでは、かえってお考えの浅いことが知られましょう。私のこの世間馴れしていない、愚かなまでの、それゆえの安全さなども、世に類まれなものと存じますのに、何事につけても気軽にふるまえる身分の人ほど、私のような男のことを、馬鹿者などとあざ笑って、冷淡な気持ちも向けるようです。貴女があまりにひどく私のことをないがしろにされるので、この気持ちをついには抑えられなくなりそうな気がいたします。なまじ男女の機微をご存知ないわけでもありますまいに」と、あれこれ申し上げてお責めになるので、宮(落葉の宮)は何と答えたらいいのかと、わびしくご思案をめぐらしている。

宮は、自分が夫を持ったことがあるからこそ軽くみているようなことを大将が時々それとなく言うのも心外で、「なるほど類もないわが身のつらさであるよ」とお思いつづけられて、死にたいとお思いになって、(落葉)「不本意な私自身の過ちは思い知ってはおりますが、こんなひどい情けない扱いを受けて、どんなふうに考えればよろしいのでしょう」と、まことにかすかに、悲しげにお泣きになって、

(落葉の宮)われのみや…

(私一人が、悲しい男女の仲を知った女のだからといって、これ以上また貴方とのことで、濡れ衣を着せられて評判を落とさなければならないのでしょうか)

とおっしゃるともなくおっしゃったのを、大将は、ご自分の心の中で反芻してそっとお口ずさみになるにつけても、宮はきまりが悪く、自分は何ということを言ったのだろうと後悔なさるが、(夕霧)「おっしゃ通り。ひどいことを申し上げました」など、苦笑なさっている面持ちで、

(夕霧)おほかたは……

(いったい、私が貴女に不貞な女という濡れ衣を着せないとしても、柏木とのあの不幸な出来事で取りざたされた貴女の世間の評判は消えることはないでしょうよ)

まっすぐそのお気持ちになってください」とおっしゃって、月の明るいところにお誘い申し上げるのも、宮は呆れたことにお思いになる。宮は気丈にふるまっていらっしゃるが、大将はお構いなく引き寄せ申し上げて、(夕霧)「これほど類ない私の心ざしをご覧になってご理解してくださり、安心して受けてれてください。御ゆるしがなくては、私はなにも、けして…」と、まことにはっきりと申し上げられているうちに、明け方近くなるのだった。

月が隈なく澄み渡って、霧にも紛れずさし入ってくる。奥行きの浅い廂の軒はいくらも幅がない気がするので、宮は、月の面に向かい合っているように思えるのが、奇妙に居心地が悪くて、お顔を隠そうとしていらっしゃるそのごようすなど、言いようもなく優美でいらっしゃるのだ。故君(柏木)の御こともすこしお話申し上げて、とりとめもない、静かに昔話をお話申し上げる。そうはいってもやはり、大将(夕霧)は、あの過去の夫(柏木)と比べて宮が自分のことを低くご覧になることを、恨めしげに申し上げなさる。宮(落葉の宮)の御心の中にも、「あの人(柏木)は、位などもまだそれほどでもなかったけれど、誰も誰もがお認めになったので、自然と情にほだされて夫婦としての関係を保っていたのだが、それさえもひどく心外なことに私に対して薄情な仕打ちだったし、ましてこの人(夕霧)と、こんなとんでもないことになって、せめた他人ごととして聞く間柄ならまだしも、大殿(致仕の大臣)などがなんとお聞きになりお思いになられることか。世間一般から誹りを受けることは言うまでもなく、院(朱雀院)もどうお耳にされておぼしめされることか」など、関係のある人々の御心にお考えをおめぐらしになると、まことに残念で、わが心ひとつはこうして気丈に思っていても、世間の人がなんと噂するだろう、御息所がご存知でないらしいことも罪作りなことに思われて、このようになったとお聞きになって、分別のないことをとお思いになりおっしゃるだろうことも辛く思えたので、(落葉の宮)「せめて夜が明けないうちにお帰りください」と、ひたすら引き取っていただこうとばかりなさる。

(夕霧)「心外なことですね。いかにも事があったような顔で分け入っていくと朝露が何と思うでしょうか。それでもやはりそうせよとおっしゃるなら、これだけはわかってください。このように愚かな態度をご覧に入れて、賢くやりすごしたとお気持ちが離れるのでしたら、その時こそ、私の心もしずめがたく、自分でもどうなるかわからず、とんでもない心遣いをを起こしかねないような気にもなるというものです」といって、これからのことがひどく気がかりで、中途半端な気がするが、いきなり色めいた行為に出ることは、まことに慣れないご気性なので、宮のことが気の毒で、またこのままでは自分自身を見下げてしまうだろうなどとお思いになって、どちらのためにも、まだはっきりと物が見えない時分の霧に隠れてご退出になる、ご気分は上の空である。

(夕霧)「荻原や……

(荻原の軒端の露の濡れるように涙に袖を濡らしつつ、幾重にも重なる霧を分けて、私は帰っていかねばならないのでしょうか)

濡れ衣はやはり乾かすことがおできにならないでしょう。こうして私を理不尽に追い返しなさる貴女の御心のせいです」と申し上げなさる。なるほど、宮は、この良からぬ浮名が世間に漏れるだろうことを、せめてわが心に問尋ねられたときだけでも、やましくない答えができるようにしよう」とお考えになるので、ひどく冷淡におふるまいになる。

(落葉の宮)「分けゆかむ……

(分け入っていく草葉の露を言い訳にして、やはり私に濡れ衣をかけようと思うのですか)

ひどいことですね」とおたしのめになるご様子は、まことに美しく大将(夕霧)もきまりがわるくなるほどである。大将は、長年他の人とは違う篤志家として、宮に、さまざまに情をおかけ申し上げてきたのとは打って変わって、油断させておいて、好色な行為に出たような結果になったことが、宮に対して気の毒で、気が引けることなので、本気になって反省はしながら、一方で、こうして一途に宮のおっしゃることに従い申し上げたとしても、後々おろかしい目にあうのではないかと、さまざまに思い乱れてご退出なさった。道中、露があたりにあふれんばかりである。

語句

■たどたどしければ 「夕やみは道たどたどし月待ちて帰れわがせこその間にも見む」(古今六帖一)。 ■このわたり 小野の山荘のことを言う。 ■阿闍梨 律師のことをいう。 ■あなたに 御息所のいる北廂のほうに。 ■御消息 宮への口上。 ■人 御簾の内に入っていく女房。 ■内は暗くなりにたるほど 夕霧が御簾の内に入り込むのに好都合。 ■あさましうて見返りたる 主語は「御消息聞こえ伝へにゐざり入る人」。 ■北の御障子の外に… 母御息所のいる北廂の間につながる部屋に逃げようとしたか。 ■ひきとどめ 落葉の宮の衣の裾を。 ■御身は入りはてたまへれど 落葉の宮の御身体はむこうの部屋にすっかり入ってしまったが、裾を長く引きずっているので裾はまだもとの部屋にある。 ■水のやうに 汗の出ている状態。 ■え思ひえず 「え」が重複している。 ■いとあさましう… 落葉の宮の台詞という説もある。 ■御耳馴れぬる年月も 長年世話をしてきたことをわかっているでしょうと言うとともに、自分の名声についても聞いているでしょうという自負心が見える。 ■悔しう 入り込まれる隙を見せたことへの悔しさ。 ■かくまで これほど無礼な扱いを受けなければならないのか…というほどの気持ちをこめる。 ■やる方なければ 「や(遣)る」は、払いのける。 ■若々しき 「若々しい」は大人げない。子供っぽい。 ■これより馴れ過ぎたることは… これ以上強引に迫ることは同意がなければしないから安心してほしいの意。宮はすっかりおびえている。 ■千々に… 「君恋ふる心はそれに砕くるをなど数ならぬわが身なるらん」(曾丹集)、「君恋ふる心は千々に砕くれどひとつも失せぬものにぞありける」(和泉式部集) ■さりとも 落葉の宮が「心憂く若々しき御さま」であっても。 ■御覧じ知る 私(夕霧)の気持ちを。 ■強いておぼめかしう 前に「忍びあまりぬる筋も…知らぬ顔にのみもてなしたまへるを」(【夕霧 03】)とあった。 ■いとかたじけなければ 下に「これ以上強引な行動には出ません」の意を補い読む。 ■あながちに これまでの無作法を反省してかえって丁重なふるまいとなる。 ■引きも開けず 強引に引き開けないところに夕霧の実直な性格が出ている。 ■けぢめ 襖のへだて。 ■うたて心 情けない心。「うたてし」は情けない。嘆かわしい。 ■人の御ありさま 襖の襖の間の隙間が落葉の宮のようすがうかがえる。 ■さはいへど 夫柏木の愛情が薄かったのは落葉の宮の容貌が悪いせいではないかと夕霧は推察していた(【柏木 12】)。その推察をうけて、「そうはいっても」。 ■うちとけたまへる 落葉の宮はまさか夕霧が乗り込んでくるとは思っていないので普段着であった。 ■滝 音羽の滝。参考「かくてこの大臣…山里の心細げなる殿まうけてぞ住みたまひける。そのわたりは比叡坂本小野のわたり、音羽川近くて、滝の音、水の声あはれに聞こゆる所なり。もの思はぬ人だに、その心細げなるわたりなり」(宇津保物語・忠こそ)。 ■ただありのあはつけ人 世間並の軽薄な人。 ■寝ざめしぬべき 物思いに夜目が覚めてしまうこと。 ■なほかう思し知らぬ… 私のような誠実な男の好意を受け入れない貴女は思慮が浅いと夕霧は主張する。以下、夕霧のこじらせた無神経さが描かれる。 ■しれじれしき 「痴れ痴れし」は無知で愚かであること。 ■かやすきほどの人 気軽にふるまえる身分の人。つまり低い身分の人。 ■かかるをば 自分のように好色な態度を取れない者を。 ■世の中をむげに思し知らぬにしもあらじ 落葉の宮がかつて人妻であったことをいう。 ■世を知りたる方の心やすきやうに 結婚の経験があるので言い寄りやすいように。 ■げにたぐひなき… 「げに」は御息所が「いづ方にもよらず、中空にうき御宿世なりければ」(【柏木 10】)といったのを受けるか。 ■うきみづからの罪 柏木と結婚したこと。 ■われのみや… 夕霧の「世の中を…あらじを」という言葉を受けて。「濡れそふ」は柏木との結婚生活で辛い思いをしたのに、今また夕霧との関係で辛い思いをしなくてはならないのか、の意。 ■わが心につづけて 落葉の宮の歌がよく聞こえなかったので、心の中で反芻して不明瞭な部分を自ら補った、の意か。 ■かたはらいたく、いかに言ひつることぞと思さるるに 主語を落葉の宮ととったが、夕霧ともとれよう。 ■あしう聞こえつかし 「世の中を…あらじを」と言ったことを夕霧は反省する。 ■おほかたは… 「濡れ衣」は落葉の宮の歌の「濡れそふ袖」を受ける。「くちにし袖の名」は柏木に降嫁し不幸になったという評判。それは今更消えないのだから私と一緒になってもいいじゃないかという勝手な理屈。 ■御ゆるしあらでは… 無粋な言い方。 ■浅はかなる 山荘の簡素な造りである。 ■紛らわしたまへるもてなし 顔を隠す仕草。 ■さすがに 「さまよう…聞こえたまふ」ものの、それでもやはり。 ■位などもまだ及ばざりけるほど 柏木は落葉の宮と結婚した時、中納言(従三位相当)。現在、夕霧は大納言兼左大将(正三位相当)。 ■誰も誰も 落葉の宮の父の朱雀院や、柏木の父の致仕の大臣など(【柏木 10】)。 ■めざましき心 柏木が落葉の宮に冷淡だったこと。 ■かう強う思ふとも ここから、夕霧と落葉の宮にこの夜実事はなかったと知れる。『伊勢物語』六十九段を思わせる。 ■事あり顔 事実があったような顔。この言い方からも夕霧と落葉の宮との間に事実はなかったことが知れる。 ■朝露の思はむところ 「露」は「置く」「起く」に通じる。一晩中起きていて私たちのことをみていた朝露が、変に思うでしょう、の意(事実はなかったのに、どうして事実があったかのような表情をしているのかと)。 ■なほさらば思し知れよ このあたりから夕霧の言葉は脅迫めいてくる。 ■かうをこがましきさま 宮と一晩を過ごしながら何もしなかったこと。 ■知らぬ事々 夕霧自身さえ抑えがきかない理不尽な事々。 ■なかなかなれど 「なかなか」は中途半端だ。どっちつかずだ。 ■ゆくりか 思いがけないさま。不用意なさま。突然なさま。 ■わが御みづからも 夕霧自身の気持ちとしても、あのまま宮に対して好色な行為におよんでいたら自分に失望していただろうの意。 ■誰が御ためにも 宮のためにも夕霧のためにも。 ■そらなり 「そら」は「霧」の縁語。 ■荻原や… 「軒端の露」は軒端の荻の露。「そぼつ」は露に濡れることと涙に濡れることをかける。「夕霧に衣は濡れて草枕旅寝するかもあはぬ君ゆゑ」(古今六帖一・五)。 ■濡れ衣はなほえ干させたまはじ 私と関係を持ったという世間からの濡れ衣を貴女は避けることができませんよの意。脅しめいている。 ■げに 「濡れ衣はなほえ干させたまはじ」を受ける。 ■たけからず かんばしくないものとして。よくないものとして。 ■心の問はむにだに 「親ある女に忍びて通ひけるを、男もしばしは人に知られじと言ひはべりければ/無き名ぞと人には言ひてありぬべし心の問はばいかがこたへむ」(後撰・恋三 読人しらず)。歌意は、事実無根ですと否定しても自分の心は欺けない。 ■口ぎよう やましくないように。 ■分けゆかむ… 私に濡れ衣を着せるのですかと、非難する歌。「かごと」は言い訳。 ■めづらかなる 心外なこと。とんでもないこと。 ■あはめたまへる 「淡む」はたしなめる。うとんじる。 ■うちたゆめ 「たゆむ」は油断させる。 ■おろかならず 本気で。 ■露けさ 「露」は「思ひ乱れ」の縁語。

朗読・解説:左大臣光永