【橋姫 07】阿闍梨、冷泉院の使者を八の宮に引き合わせ、薫のことを語る

帝は、御|言伝《ことづ》てにて、「あはれなる御住まひを人づてに聞くこと」など聞こえたまうて、

世をいとふ心は山にかよへども八重たつ雲を君やへだつる

阿闍梨、この御使を先に立てて、かの宮に参りぬ。なのめなる際《きは》のさるべき人の使だにまれなる山蔭に、いとめづらしく待ちよろこびたまひて、所につけたる肴《さかな》などして、さる方にもてはやしたまふ。御返し、

あとたえて心すむとはなけれども世をうぢ山に宿をこそかれ

聖《ひじり》の方をば卑下して聞こえなしたまへれば、なほ世に恨み残りける、といとほしく御覧ず。

阿閣梨、中将の君の道心深げにものしたまふなど語りきこえて、「法文《ほふもん》などの心得まほしき心ざしなん、いはけなかりし齢《よはひ》より深く思ひながら、え避《さ》らず世にあり経《ふ》るほど、公私《おほやけわたくし》に暇《いとく》なく明け暮らし、わざと閉ぢ籠《こも》りて習ひ読み、おほかたはかばかしくもあらぬ身にしも、世の中を背き顔ならむも憚るべきにあらねど、おのづからうちたゆみ紛らはしくてなん過ぐしくるを、いとあり難き御ありさまを承り伝へしより、かく心にかけてなん頼みきこえさするなど、ねむごろに申したまひし」など語りきこゆ。

宮、「世の中をかりそめのことと思ひとり、厭《いと》はしき心のつきそむることも、わが身に愁へある時、なべての世も恨めしう思ひ知るはじめありてなん道心も起こるわざなめるを、年若く、世の中思ふにかなひ、何ごとも飽かぬことはあらじとおぼゆる身のほどに、さ、はた、後《のち》の世をさへたどり知りたまふらんがあり難さ。ここには、さべきにや、ただ、厭ひ離れよと、ことさらに仏などの勧めおもむけたまふやうなるありさまにて、おのづからこそ、静かなる思ひかなひゆけど、残り少なき心地するに、はかばかしくもあらで過ぎぬべかめるを、来《き》し方《かた》行く末、さらにえたどるところなく思ひ知らるるを、かへりては心恥づかしげなる法《のり》の友にこそはものしたまふなれ」などのたまひて、かたみに御消息|通《かよ》ひ、みづからも参うでたまふ。

現代語訳

帝(冷泉院)は、御言伝として、「風情ある御住まいを人づてに聞きました」など申し上げられて、

(冷泉院)世をいとふ……

(俗世間を厭う気持ちは宇治山に通うほどですが、お目にかかれないのは、あなたが八重たつ雲を隔てていらっしゃるからでしょうか)

阿闍梨は、この御使を先に立てて、かの八の宮に参った。それほどでない身分の訪問してしかるべき使さえめったにない山陰に、たいそう珍しくお喜び迎えなさって、この土地ならではの肴などで、山里にふさわしく接待なさる。御返し、

(八の宮)あとたえて……

(俗世間との関わりを断って、心が澄んだわけではないけれど、世の中を憂きものと思い、この宇治山に、仮の宿をとっております)

八の宮が修行の面のことをあえて卑下して申し上げられると、冷泉院は、やはり俗世に恨みが残っているのだと、気の毒にお思いになる。

阿闍梨は、中将の君(薫)が道心深そうにしていらっしゃることなどを八の宮に語り申し上げて、「『経文などを理解したいという気持ちは、幼い頃から深く思っていましたが、俗世を去ることができず長年過ごしているうちに、公私にわたって暇もなく明け暮らし、ことさら家に閉じこもって経文などを習い読み、大体においてしっかりしてもいないわが身ではありますが、世の中に背を向けているような顔をしているのも憚らねばならぬようなことではないが、自然とぐずぐずして日常の雑事に紛れてばかりで過ごしているのですが、貴方さまの、まことに滅多にないお暮らしぶりを耳にしてからというもの、いつか拝見がかないますよう、こうして心にかけて頼み申し上げているのです』など、熱心に申していらっしゃいます」など、阿闍梨は八の宮に語り申しあげる。

八の宮は、「世の中をかりそめのここと感じとり、俗世を厭う心がつきはじめることも、わが身に辛いことがあった時、世間一般のことも恨めしく思い知るきっかけがあって、道心も起こるようだが、この中将の君(薫)は年若く、世の中は思うがままで、何事も満足できないことはないだろうと思われる身のほどでありながら、そうして、また、後の世のことまでも伝え聞かれたらしいが、それは滅多にないすばらしいことだ。私はといえば、こういう道に進む運命だったのだろうか、ただ、世の中を厭い離れよと、ことさら仏などがお勧めくださったようなありさまで、自然と、静かに修行したい願いはかなっていったが、人生も残り少ない気がするのに、仏道の深淵を極めることもできずに過ぎてしまうようなのを、過去も未来も、まったく探り当てようもないと実感されるのだが、この中将(薫)は、かえってこちらが恐縮するような仏法の友になってくださるだろう」などとおっしゃって、お互いにご連絡をしあい、中将(薫)ご自身も八の宮のもとにお参りになる。

語句

■御言伝 冷泉院が、阿闍梨とともに使を宇治に遣わした。 ■人づて 冷泉院と八の宮は兄弟だが長らく交渉がなかった。 ■世をいとふ… 「八重たつ雲」は冷泉院と八の宮を隔てている幾重もの障害。それは不本意だとする。 ■さる方に 山里にふさわしい歓迎をする。 ■あとたえて… 「すむ」は「澄む」と「住む」をかける。「わが庵は都の辰巳しかぞすむ世をうぢ山と人は言ふなり」(古今・雑下 喜撰)をひびかせる。 ■なほ恨み残りける 政争にやぶれた八の宮の過去は【橋姫 04】に詳しい。 ■え避らず やむをえず俗事にかまけていたこと。 ■かりそめのこと 現世をかりそめの世と見る考え。「世間虚仮(こけ)、唯仏是真」(上宮聖徳法王帝説)。 ■思ひとり 深く実感すること。 ■なべての世の 個人的な厭世感がやがて世の中全般への厭世感へと拡大されていく。「おほかたの我が身ひとつの憂きからになべての世をも恨みつるかな」(拾遺・恋五 貫之)、「飛鳥川我が身ひとつの淵瀬ゆゑなべての世をも恨みつるかな」(後撰・雑三 読人しらず)などによる。 ■世の中思ふにかなひ 薫は冷泉院の寵愛を受け世の中のことは思うがままである。 ■あり難さ 薫が八の宮について言う「いとあり難き御ありさま」とひびきあう。八の宮は薫が道心を抱くようになった内的ないきさつ(出生の秘密に悩んでいたこと)を知らない。 ■さべきにや 仏の道に進むべく前世から定められていたこと。 ■はかばかしくもあらで 仏道の深淵をうかがい知ることもできずに。

朗読・解説:左大臣光永