【橋姫 18】薫、柏木の遺書を読む 母宮を訪れ思案にふける

帰りたまひて、まづこの袋を見たまへば、唐《から》の浮線綾《ふせんりよう》を縫ひて、「上」といふ文字を上《うへ》に書きたり。細き組《くみ》して口の方《かた》を結《ゆ》ひたるに、かの御名の封《ふう》つきたり。開《あ》くるも恐ろしうおぼえたまふ。いろいろの紙にて、たまさかに通ひける御文の返り事、五つ六つぞある。さては、かの御手にて、病は重く限りになりにたるに、またほのかにも聞こえむこと難《かた》くなりぬるを、ゆかしう思ふことはそひにたり、御かたちも変りておはしますらむが、さまざま悲しきことを、陸奥国紙《みちのくにがみ》五六枚に、つぶつぶとあやしき鳥の跡のやうに書きて、

目の前にこの世をそむく君よりもよそにわかるる魂《たま》ぞかなしき

また、端《はし》に、「めづらしく聞きはべる二葉《ふたば》のほども、うしろめたう思うたまふる方はなけれど、

命あらばそれとも見まし人しれぬ岩根にとめし松の生《お》ひすゑ」

書きさしたるやうにいと乱りがはしうて、「侍従の君に」と上には書きつけたり。紙魚《しみ》といふ虫の住み処《か》になりて、古めきたる黴《かび》くささながら、跡は消えず、ただ今書きたらんにも違《たが》はぬ言の葉どもの、こまごまとさだかなるを見たまふに、げに落ち散りたらましよと、うしろめたういとほしき事どもなり。

かかる事、世にまたあらむやと、心ひとつにいとどもの思はしさそひて、内裏《うち》へ参らむと思しつるも出で立たれず。宮の御前《おまへ》に参りたまへれば、いと何心もなく、若やかなるさましたまひて、経読みたまふを、恥ぢらひてもて隠したまへり。何かは、知りにけりとも知られたてまつらむなど、心に籠めてよろづに思ひゐたまへり。

現代語訳

中将(薫)は自邸にお帰りになられて、まずこの袋を御覧になると、唐の浮線綾《ふせんりょう》を縫って、「上」という文字を上に書いてある。細い組紐で口のほうを結ってあるところに、かの人(柏木)の御名によって封がしてある。開けるのも恐ろしくお思いになる。いろいろの紙で、時々やり取りしていた御文の返事が、五つ六つだけある。他にはそのご手跡で、病は重く限界になっているところで、もうほんの少しでもご連絡申し上げることも難しくなったのを、会いたいと思う気持ちはつのる一方である、御姿も僧形に変えていらっしゃるらしいが、さまざまに悲しいといったことを、陸奥紙五六枚に、途切れ途切れに奇妙な鳥の足跡のように書いて、

(柏木)目の前に……

(目の前に僧形になられた貴女のことより、よそながらこの世に別れていく私の魂こそ、悲しいことです)

また、端に、(柏木)「めでたくも生まれたと聞きました幼子(薫)のようすも、心配に思うようなところはございませんが、

命あらば……

(生きていられるなら、岩の根に残した松のゆく末を、それと見ることもできましょうに…)

途中で書くのをやめたようにひどく乱れた感じで、「侍従の君に」と上には書きつけてある。紙魚という虫の住み処となつて、古めいた黴くささではあるが、文字の跡は消えず、ただ今書いたのにも変わらぬ言葉の数々が、こまごまとはっきりしているのを御覧になるにつけ、「なるほど、これが人に漏れるでもしたら」と、心配であり、またおいたわしいことどもである。

「このような事が、世に他に例があるだろうか」と、中将(薫)は、心の中だけでいよいよ物思いはまして、宮中へ参ろうと思ったもののご出発するお気持ちにもなれない。母宮(女三の宮)の御前にお参りになると、実に無邪気に、若々しいようすをなさって、経をお読みになっていらっしゃるその御姿を、恥ずかしがってお隠しになる。どうして、事実を知ってしまったとお知らせ申し上げることができよう、そんなことはできないと、心に閉じ込めて、中将は万事、物思いにふけっていらっしゃる。

語句

■唐の浮線綾 中国渡来の模様が浮織りになった綾織物。 ■上 女三の宮にわたすべく書いたか。 ■かの御名 柏木の本名(不明)を記した書判(花押)で封をしてある。 ■たまさかに通ひける 前の弁の言葉に「たまさかの御消息の通ひもはべりし」とあった。 ■御文 女三の宮からの返事。 ■ゆかしう思ふこと 臨終が迫っているのでいよいよ会いたい気持ちがつのる。 ■御かたちも変りて 女三の宮の出家。 ■陸奥国紙 恋文を書くような紙ではなく雑記用。臨終が迫り紙を選んでいる余裕もなかったか。 ■つぶつぶとあやしき鳥の跡のやうに 一字一字がぶつ切れで、連綿体にならない。小侍従と最後の対面の際も「言の葉のつづきもなう、あやしき鳥の跡のやうにて」(【柏木 02】)とあった。 ■目の前に… 「声をだに聞かで別るる魂よりもなき床に寝む君ぞかなしき」(古今・哀傷 読人しらず)。引歌は死ぬ私よりも生き残るあなたのほうが悲しいという歌だが、意味を逆転させて、死んでいく私こそ悲しいとした。 ■めづらしく… 薫の誕生をよろこぶ歌。「二葉」は幼子のたとえ。「うしろめたう思うたまふる方」がないのは、源氏の子として何不自由ない立場だから。 ■命あらば… わが子の成長をみとどけることができずに死んでいく無念さをよむ。「松」は前の「二葉」と同じく幼子薫のたとえ。 ■紙魚 しみ科の昆虫。古書などをむしばむ。 ■げに落ち散りたらましよ 前に弁が「落ち散るやうもこそ」と言ったことをふまえ。 ■いとほしき 女三の宮、柏木に対する薫の気持ち。 ■内裏へ参らむと… 前に「今日は内裏の御物忌もあきぬらん、…」とあった。 ■恥ぢらひて 出家の身とはいえ女ながら経文などを読んでいる姿を息子に見られるのが恥ずかしい。 ■何かは、… 薫は自分が「事実を知った」ことを母宮に告げることは断念した。自分の心ひとつにしまいこむこととした。

朗読・解説:左大臣光永