【椎本 01】匂宮、初瀬詣での帰途、宇治に中宿りする

二月《きさらぎ》の二十日《はつか》のほどに、兵部卿宮|初瀬《はつせ》に詣《まう》でたまふ。古き御|願《ぐわん》なりけれど、思しも立たで年ごろになりにけるを、宇治のわたりの御|中宿《なかやどり》のゆかしさに、多くはもよほされたまへるなるべし。恨めしと言ふ人もありける里の名の、なべて睦ましう思さるる、ゆゑもはかなしや。上達部《かむだちめ》いとあまた仕うまつりたまふ。殿上人《てんじやうびと》などはさらにもいはず、世に残る人少なう仕うまつれり。

六条院《ろくでうのゐん》より伝はりて、右大殿《みぎのおほとの》しりたまふ所は、川よりをちにいと広くおもしろくてあるに、御設《おほむまう》けせさせたまへり。大臣《おとど》も、帰《かへ》さの御迎へに参りたまふべく思したるを、にはかなる御物忌の重くつつしみたまふべく申したなれば、え参らぬよしのかしこまり申したまへり。宮、なますさまじと思したるに、宰相《さいしやうの》中将今日の御迎へに参りあひたまへるに、なかなか心やすくて、かのわたりのけしきも伝へ寄らむと御心ゆきぬ。大臣《おとど》をば、うちとけて見えにくく、ごとごとしきものに思ひきこえたまへり。御子の君たち、右大弁、侍従《じじゆうの》宰相、権中将、頭《とうの》少将、蔵人兵衛佐《くらうどのひやうゑのすけ》などみなさぶらひたまふ。帝、后《きさき》も心ことに思ひきこえたまへる宮なれば、おほかたの御おぼえもいと限りなく、まいて六条院の御方ざまは、次々の人も、みな私《わたくし》の君に心寄せ仕《つか》うまつりたまふ。

現代語訳

二月の二十日ごろに、兵部卿宮(匂宮)は初瀬に参詣なさる。ずっと前にお立てになった御願ではあったが、初瀬参詣を思い立たないれまま長年が経っていたのだが、宇治のあたりに途中お泊りになることに心惹かれなさって、それを理由の多くの部分として、今回の初瀬参詣をご計画なさったようだ。「恨めしい」という人もあった「宇治(憂し)」という里の名が、一途に親しく深くお思いになる、その理由もはかないものであることだ。上達部がたいそう大勢お供をなさる。殿上人などは言うまでもなく、世に残る人も少ないというほどに宮(匂宮)にお仕え申し上げている。

六条院(源氏)から相続して、右大殿(夕霧)が領有なさっている所は、都からみて宇治川の対岸にとても広く風情のあるところだが、そこに宮(匂宮)のお宿のご準備をおさせになった。大臣(夕霧)も、宮(匂宮)の初瀬からの帰り道の御迎えにお参りになるおつもりでいらしたが、急な御物忌で重く謹んでいなければならないという進言があったといかいうことで、参上できない旨を恐縮して申し上げなさった。宮(匂宮)は、なんとなく面白くないとお思いになっておられたが、宰相中将(薫)が今日の御迎えにちょうど参られたので、かえって気が楽になって、あの八の宮のあたりのようすも伝え聞いてお近づきになろうというお気持ちになられた。宮(匂宮)は、大臣(夕霧)を、気軽にはお会いしづらく、堅苦しい御方と存じ上げていらっしゃるのだった。大臣(夕霧)の御子の君たちは、右大弁、侍従宰相、権中将、頭少将、蔵人兵衛佐などみな、宮(匂宮)にお仕えになっていらっしゃる。帝(今上帝)も后(明石の中宮)も格別な御気持ちで大切に思い申し上げていらっしゃる宮なので、世間一般からの信望もたいそう限りなく、それ以上に六条院(源氏)の御一家は、そのご子孫の方々も、みな私の君として心をこめてお仕え申し上げていらっしゃる。

語句

■二月 橋姫末尾の翌年の二月か。 ■初瀬 奈良県桜井市初瀬。長谷観音がある。 ■古き御願 匂宮は以前に長谷観音に願立てをしていたというが物語中にそれは描かれていない。 ■宇治のわたり 大和に旅する人は宇治で中宿りをすることが多かった。匂宮は宇治の姉妹の話を薫からきいて(【橋姫 15】)近づきになれるのではと期待している。 ■恨めしと言ふ人も… 宇治を「憂し」とみて心憂い場所とする。「わが庵は都の辰巳しかぞ住む世をうぢ山と人はいふなり」(古今・雑下 喜撰)による。「忘らるる身を宇治橋のなか絶えて人もかよはぬ年ぞ経にける」(古今・恋五 読人しらず)によるとする説も。 ■睦ましう 匂宮は薫から話をきいて宇治の姉妹に強い興味を抱いている(【同上】)。 ■右大殿 夕霧。竹河巻に左大臣に昇進とある(【竹河 20】)が宇治十帖を通して右大臣として登場。 ■しりたまふ所 『花鳥余情』によると宇治院を想定。源融の山荘に始まり、後に陽成天皇がしばらく住み、宇多上皇、六条左大臣源雅信を経て藤原道長の別邸となり、子の頼通が寺として平等院と称した。「六条左大臣から藤原道長に伝わった」のを「六条院より伝はりて」と書きなしたか。 ■川よりをちに 京から見て宇治川の対岸。平等院側。 ■御子の君たち 夕霧の息子たち。六人いた(【夕霧 36】)。 ■頭少将 蔵人頭と近衛少将を兼ねる。 ■心ことに 匂宮を東宮に立てるつもりがある。 ■私の君 匂宮は母が明石の君であり、源氏と紫の上が格別にかわいがった君なので、六条院の人々には思い入れが並々でない。

朗読・解説:左大臣光永