【竹河 20】薫、昇進の挨拶に玉鬘邸を訪れ、対面
左大臣亡せたまひて、右は左に、藤《とう》大納言、左大将かけたまへる、右大臣になりたまふ。次々の人々なり上《あが》りて、この薫《かをる》中将は中納言に、三位《さむゐ》の君は宰相になりて、よろこびしたまへる人々、この御|族《ぞう》より外《ほか》に人なきころほひになんありける。中納言の御よろこびに、前尚侍《さきのないしのかむ》の君に参りたまへり。御前《おまへ》の庭にて拝したてまつりたまふ。尚侍《かむ》の君対面したまひて、「かくいと草深くなりゆく葎《むぐら》の門《かど》を避《よ》きたまはぬ御心ばへにも、まづ昔の御こと思ひ出でられてなん」など聞こえたまふ。御声あてに愛敬《あいぎやう》づき、聞かまほしういまめきたり。「旧《ふ》りがたくもおはするかな。かかれば、院の上は、恨みたまふ御心絶えぬぞかし。いまつひに、事ひき出でたまひてん」と思ふ。「よろこびなどは、心にはいとしも思ひたまへねども、まづ御覧ぜられにこそ参りはべれ。避《よ》きぬなどのたまはするは、おろかなる罪にうち返させたまふにや」と申したまふ。「今日《けふ》は、さだ過ぎにたる身の愁へなど聞こゆべきついでにもあらず、とつつみはべれど、わざと立ち寄りたまはんことは難《かた》きを、対面《たいめん》なくて、はた。さすがにくだくだしきことになん。院にさぶらはるるが、いといたう世の中を思ひ乱れ、中空《なかぞら》なるやうにただよふを、女御を頼みきこえ、また后《きさい》の宮の御方にもさりとも思しゆるされなんと思ひたまへ過ぐすに、いづ方にも、なめげにゆるさぬものに思されたなれば、いとかたはらいたくて。宮たちはさてさぶらひたまふ、この、いとまじらひにくげなるみづからは、かくて心やすくだにながめ過ぐいたまへとてまかでさせたるを、それにつけても、聞きにくくなん。上《うへ》にもよろしからず思しのたまはすなる。ついであらば、ほのめかし奏したまへ。とざまかうざまに頼もしく思ひたまへて、出だしたてはべりしほどは、いづ方をも心安くうちとけ頼みきこえしかど、今は、かかる事あやまりに、幼うおほけなかりけるみづからの心を、もどかしくなん」と、うち泣いたまふ気色なり。
「さらにかうまで思すまじきことになん。かかる御まじらひの安からぬことは、昔よりさることとなりはべりにけるを。位《くらゐ》を去りて静かにおはしまし、何ごともけざやかならぬ御ありさまとなりにたるに、誰もうちとけたまへるやうなれど、おのおの内《うち》々は、いかがいどましくも思すこともなからむ。人は何の咎と見ぬことも、わが御身にとりては恨めしくなん、あいなき事に心動かいたまふこと、女御后の常の御癖なるべし。さばかりの紛れもあらじものとてやは思したちけん。ただなだらかにもてなして、御覧じ過ぐすべきことにはべるなり。男《をのこ》の方にて奏すべきことにもはべらぬことになん」と、いとすくすくしう申したまへば、「対面のついでに愁へきこえむと、待ちつけたてまつりたるかひなく、あはの御ことわりや」と、うち笑ひておはする、人の親にてはかばかしがりたまへるほどよりは、いと若やかにおほどいたる心地す。「御息所もかやうにぞおはすべかめる。宇治の姫君の心とまりておぼゆるも、かうざまなるけはひのをかしきぞかし」と思ひゐたまへり。
尚侍《ないしのかみ》も、このころまかでたまへり。こなたかなた住みたまへるけはひをかしう、おほかたのどやかに紛るることなき御ありさまどもの、簾《す》の内心恥づかしうおぼゆれば、心づかひせられて、いとどもてしづめめやすきを、大上《おほうへ》は、近うも見ましかばと、うち思しけり。
現代語訳
左大臣(竹河左大臣)がお亡くなりになって、右大臣(夕霧)は左大臣に、藤大納言(紅梅大右大臣)は左大将を兼任する右大臣におなりである。それにつづく人々も昇進して、この薫大将は中納言に、三位の君(三位の中将・昔の蔵人少将)は宰相になって、誉れをお受けになる人々は、この御一族よりほかに人もないというような時世であった。
中納言(薫)は昇進のお礼の挨拶回りに、前尚侍の君(玉鬘)の御邸にお参りになった。御前の庭で昇進のお礼の意味で拝舞される。尚侍の君(玉鬘)は対面なさって、(玉鬘)「こんなにひどく草深くなってゆく葎の生い茂ったわが家を、素通りなさらない貴方の御心ざしにつけても、まっ先に昔の御ことが思い出されまして」など申し上げられる。その御声は上品で好ましく、もっと聞いてたいと思えるほど、華やかなひびきがある。「なかなか老い衰えもなさらないものであるな。だからこそ、院の上(冷泉院)は、お恨みになる御気持ちが絶えないのだろう。そのうち面倒事でも引き起こすに違いない」と思う。
(薫)「昇進のよろこびなどは、それほどとも思いませんが、まっ先に御覧に入れようと参ったのでございます。「素通りしない」などおっしゃるのは、御無沙汰しております私の過失を逆におっしゃったのでしょうか」と申し上げられる。
(玉鬘)「今日は、年寄りの愚痴などを申し上げるべき機会でもないと遠慮しておりましたが、わざわざ貴方がお立ち寄りになられることは滅多にないので、お逢いする機会もなくて、ついまた愚痴が出まして。とは申しましても面倒なことばかりございましてね。大君は現在、冷泉院にお仕えしていらっしゃいますが、たいそうひどく宮仕えに思い乱れて、地に足がつかないというふうにふらふらしていらっしゃるのですが、女御(弘徽殿女御)を頼りに申し上げて、また后の宮の御方(秋好中宮)にも、大君が気に食わないとはいっても、それでも受け入れていただけるだろうと思って過ごしておりましたのに、どちらの御方(弘徽殿女御・秋好中宮)からも、無礼で許しがたいものとお思いになられたということですので、ひどく居心地が悪うございまして。宮たち(大君腹の女宮と男宮)はそうはいっても宮中にそのままいらっしゃいますが、この、ひどく宮中での交際がしずらさそうにしていらっしゃる大君ご自身は、こうしてせめて安心してぼんやりお過ごしなさいと申して里下がりをさせたのです。しかしそれにしても、外聞の悪いことで。冷泉院もご不快なこととお思いになり仰せになっておられるということで。機会があれば、貴方さま(薫)から私どもの苦しい立場を、それとなく冷泉院に奏上なさってください。大君の参院については、あちら(冷泉院)からも、こちら(弘徽殿女御や秋好中宮)からも勧められて、信頼できると思いまして、出仕させましたはじめの頃は、どちら様(弘徽殿女御と秋好中宮)にも安心して心をゆるして信頼申し上げておりましたのに、今は、こんなふうにしくじって、私としても、幼く分不相応であった自分自身の心を、もどかしく思っております」と、御簾の内で泣いておられる様子である。
(薫)「けしてそこまでお悩みになるべきことではございますまい。こうした宮中のお勤めが簡単でないことは、昔からそうものとされておりますのに。冷泉院はご退位されて静かにお暮ししておられ、何ごとも派手ではないご様子となっておりますので、女御后の誰もが和気あいあいとしていらっしゃるようですが、おのおの心の内には、どんなにか張り合うお気持ちもございましょう。人はとくに欠点と見ないことも、ご自身の御身にとっては恨めしく、何の関わりもないことにも腹をお立てになるのは、女御后のいつもの癖であるようです。その程度の面倒事もないものと考えて大君の参院をお決めになられたのですか。ただゆったりとふるまって、お見過ごしなさるべき事でございますようです。男の立場から奏上すべきこともございませんことで」と、まことに素っ気なく申されるので、(玉鬘)「お会いしたついでに愚痴を申し上げようと、待ち受け申し上げていたかいもなく、素っ気なくお裁きになることで」と、笑っていらっしゃるのは、人の親としててきぱきしていらっしゃるにわりには、とても若々しくおおらかな感じがする。(薫)「御息所(大君)もこのようでいらっしゃるのだろう。宇治の姫君に心惹かれるのも、こうした風情に心そそられるからだろう」と思って座っていらっしゃる。
尚侍(中の君)も、このころ里下がりしていらした。姉妹で隣り合って住んでいらっしゃる、その感じが楽しく、中納言(薫)は、大方のんびりと、雑事にかまけることもない姉妹それぞれのご気配が、簾の内に感じられて気恥ずかしく思われたので、心遣いをされて、ますます控え目に無難にしておられる。それを大上(玉鬘)は、「この人(薫)を婿として、お側で世話することができるなら」と、お思いになるのだった。
語句
■藤大納言 按察使大納言。紅梅右大臣。 ■よろこび 昇進・任官などの祝い事。 ■この御族 夕霧と致仕の大臣の一族。 ■拝したてまつりたまふ お礼の意味をこめて拝舞する。 ■対面 簾を隔てて向き合う。 ■昔のこと 源氏の養女であった昔のこと。 ■院の上は… 薫は冷泉院の寵臣であり冷泉院に近しい。 ■いまつひに 源氏と朧月夜の恋の再燃(【若菜上 19】)を予感させるが実際にはその出来事は起こらず、物語からフェードアウトしていく。 ■避きぬなど… 玉蔓が「避けたまはぬ御心ばへ」と言ったのに対応。 ■おろかなる罪に… 私が疎遠にしているのを咎めてわざと逆のことを言っているのかの意。 ■今日は… 今日は祝い事の日だから縁起でもない年よりの愚痴を言うべきではない。なら最後まで言わなければいいのに…。 ■はた 下に「聞こえ難くはべり」と補い読む。今日は祝い事の日だから年寄りの愚痴など言うべきではないが、普段貴方が訪問してくれないからたまに訪問してくれた今日、言わざるを得ないの意。 ■院にさぶらはるる 冷泉院に参っている大君のこと。 ■さりとも思しゆるされん 大君が冷泉院の寵愛を一身に集めているとはいっても。 ■いづ方にも 弘徽殿女御にも、秋好中宮にも。 ■なめげ 無礼である。 ■宮たち 大君腹の女宮と男宮。今も宮中にいる。 ■聞きにくく 「宮たちを宮中に残して自分は里下がりするなんて…」などと周囲が陰口を言うのが耳に入るのである。 ■ついであらば 薫は冷泉院の寵臣なので奏上する機会もあるだろうという期待。 ■とざまかうざまに頼もしく思ひたまへて 冷泉院からは大君の参院を懇願され、女御からもすすめられて(【竹河 03】・【同 10】)、どの方面においても信頼できると思って。 ■いづ方をも 弘徽殿女御や秋好中宮を信頼できると思っていたのは間違いだったと玉蔓は思う。 ■幼うおほけなかりける 見通しの甘さを思い知らされる玉蔓。 ■気色なり 簾ごしなので玉蔓の姿は薫には見えない。 ■かかる御まじらひ 宮中での女御更衣方との交際。宮仕え。 ■あいなき事 自分は関係のないこと。 ■さばかりの紛れもあらじと… その程度の面倒もないと思って大君を参院させたのですかの意。 ■男の方にて 後宮女性たちの問題は男の官僚が口出しするようなことではないの意。玉蔓の「あなたから機会があったら冷泉院に奏上してください」という願いをつっぱねる。 ■あは 「淡し」の語幹。 ■うち笑ひて 乾いた笑いである。 ■宇治の姫君 宇治の大君。竹河巻は宇治十帖と時系列的には並行しているらしい。宇治十帖の予告めいてもいる。 ■こなたかなた 大君と中の君は寝殿の西と東に中の戸を隔てて住んだ。里下がりのときももとの部屋にいる。 ■けはひ 明るく楽しげな雰囲気。 ■簾の内 薫は簾の内にいる大君や中の君を思い、気恥ずかしく感じる。 ■近うも見ましかば 薫を婿として世話したいの意。