【橋姫 15】薫、帰京後、宇治と文通 匂宮に語る

老人《おひびと》の物語、心にかかりて思し出でらる。思ひしよりはこよなくまさりて、をかしかりつる御けはひども面影にそひて、なほ思ひ離れがたき世なりけり、と心弱く思ひ知らる。御文奉りたまふ。懸想《けさう》だちてもあらず、白き色紙の厚肥《あつご》えたるに、筆はひきつくろひ選《え》りて、墨つき見どころありて書きたまふ。

うちつけなるさまにや、とあいなくとどめはべりて、残り多かるも苦しきわざになむ。かたはし聞こえおきつるやうに、今よりは御簾《みす》の前も心やすく思しゆるすべくなむ。御|山籠《やまごも》りはてはべらむ日数も承りおきて、いぶせかりし霧のまよひもはるけはべらむ。

などぞ、いとすくよかに書きたまへる。左近将監《さこんのざう》なる人、御使にて、「かの老人《おひびと》たづねて、文《ふみ》もとらせよ」とのたまふ。宿直人が寒げにてさまよひしなどあはれに思しやりて、大きなる檜破子《ひわりご》やうのものあまたせさせたまふ。

またの日、かの御寺にも奉りたまふ。山籠りの僧ども、このごろの嵐にはいと心細く苦しからむを、さておはしますほどの布施《ふせ》賜ふべからん、と思しやりて、絹、綿など多かりけり。御行ひはてて出でたまふ朝《あした》なりければ、行ひ人どもに、綿、絹、袈裟、衣など、すべて一領《ひとくだり》のほどづつ、あるかぎりの大徳《だいとこ》たちに賜ふ。

宿直人、かの御脱ぎ棄ての艶にいみじき狩の御|衣《ぞ》ども、えならぬ白き綾の御衣のなよなよといひ知らず匂へるをうつし着て、身を、はた、えかへぬものなれば、似つかはしからぬ袖の香《か》を人ごとに咎められ、めでらるるなむ、なかなかところせかりける。心にまかせて身をやすくもふるまはれず、いとむくつけきまで人のおどろく匂ひを、失ひてばやと思へど、ところせき人の御移り香にて、えも濯《すす》ぎ棄てぬぞ、あまりなるや。

君は、姫君の御返り事、いとめやすく児《こ》めかしきををかしく見たまふ。宮にも、かく御消息ありきなど人々聞こえさせ御覧ぜさすれば、「何かは。懸想《けさう》だちて、もてないたまはむも、なかなかうたてあらむ。例の若人に似ぬ御心ばへなめるを、亡からむ後もなど、一言《ひとこと》うちほのめかしてしかば、さやうにて心ぞとめたらむ」などのたまひけり。御みづからも、さまざまの御とぶらひの、山の岩屋にあまりしことなどのたまへるに、参《ま》うでむと思して、三の宮の、かやうに奥まりたらむあたりの見まさりせむこそをかしかるべけれと、あらましごとにだにのたまふものを、聞こえはげまして、御心騒がしたてまつらむ、と思して、のどやかなる夕暮に参りたまへり。

例の、さまざまなる御物語聞こえかはしたまふついでに、宇治の宮の事語り出でて、見し暁のありさまなどくはしく聞こえたまふに、宮いと切《せち》にをかしと思《おぼ》いたり。さればよ、と御気色を見て、いとど御心動きぬべく言ひつづけたまふ。「さて、そのありけん返り事は、などか見せたまはざりし。まろならましかば」と恨みたまふ。「さかし。いとさまざま御覧ずべかめる端《はし》をだに、見せさせたまはぬ。かのわたりは、かく、いとも埋《む》もれたる身に、ひき籠めてやむべきけはひにもはべらねば、かならず御覧ぜさせばやと思ひたまふれど、いかでか尋ねよらせたまふべき。かやすきほどこそ、すかまほしくは、いとよくすきぬべき世にはべりけれ。うち隠ろへつつ多かめるかな。さる方に見どころありぬべき女の、もの思はしき、うち忍びたる住み処《か》ども、山里めいたる隈《くま》などに、おのづからはべるべかめり。この聞こえさするわたりは、いと世づかぬ聖《ひじり》ざまにて、こちごちしうぞあらむと、年ごろ思ひ侮《あなづ》りはべりて、耳をだにこそとどめはべらざりけれ。ほのかなりし月影の見劣りせずは、まほならんはや。けはひありさま、はた、さばかりならむをぞ、あらまほしきほどとおぼえはべるべき」など聞こえたまふ。

はてはては、まめだちていとねたく、おぼろけの人に心移るまじき人のかく深く思へるを、おろかならじとゆかしう思すこと限りなくなりたまひぬ。「なほ、またまた、よくけしき見たまへ」と人をすすめたまひて、限りある御身のほどのよだけさを、厭はしきまで心もとなしと思したれば、をかしくて、「いでや、よしなくぞはべる。しばし世の中に心とどめじと思うたまふるやうある身にて、なほざりごともつつましうはべるを、心ながらかなはぬ心つきそめなば、おほきに思ひに違《たが》ふべきことなんはべるべき」と聞こえたまへば、「いで、あなことごとし。例のおどろおどうしき聖詞《ひじりことば》見はててしがな」とて笑ひたまふ。心の中《うち》には、かの古人《ふるびと》のほのめかしし筋などの、いとどうちおどろかされてものあはれなるに、をかしと見ることも、めやすしと聞くあたりも、何ばかり心にもとまらざりけり。

現代語訳

中将(薫)は、あの老人(弁)の話が、心にかかって自然とお思い出しになられる。姫君たちは、想像していたよりもはるかに素晴らしく、風情のある御気配が面影につきまとって、やはり執着を断ち切り難い世なのであった、と心弱くも実感される。御文を差し上げられる。懸想文めいてもなく、白い色紙の厚ぼったいのに、筆はかしこまって選んで、墨つきに見どころのあるふうにお書きになる。

ぶしつけではないかと、わけもなく途中で切り上げてしまいまして、申し上げ残したことが多いのも苦しいことです。ちょっと申し上げておきましたように、今後は御簾の前も安心して私にお気をお許しください。宮(八の宮)が御山籠りを終えられる日数もうかがっておきまして、お会いできましたら、霧にとざされてうっとうしい思いも晴れましょう。

などと、実にきまじめにお書きになる。左近将監《さこんのぞう》である人を、御使として、(薫)「あの老人(弁)を訪ねて、手紙を受け取らせよ」とおっしゃる。宿直人が寒そうにさまよっていたことなどを気の毒にお気を遣われて、大きな檜破子(弁当箱)のようなものを多くお持たせになる。

翌日、中将(薫)は、かの御寺にもお使いをお遣わしになる。「山籠りの僧たちは、このごろの嵐にはひどく心細く苦しいだろうし、そうして宮(八の宮)は山寺に籠もっていらっしゃる間の布施をお与えになるのだろうから」と中将はお気を遣われて、絹・綿などを多く差し上げるのだった。お勤めが終わって山をお出になる朝であったので、お勤めの僧たちに、綿、絹、袈裟、衣など、すべて一そろいぐらいづつ、ぜんぶの徳の高い僧たちにお与えになる。

宿直人は、中将がお脱ぎ捨てになったあの優美ですばらしい幾枚かの狩衣、何ともいえない白い綾の御衣のなよなよと言いようもなくよい匂いがするのを、そのまま着て、それでも着るほうの身は取り替えられるものではないので、似合わない袖の香を人ごとに怪しまれたり、愛でられたりするのが、かえって窮屈であった。心にまかせて気軽にもふるまえず、ひどく気味が悪いまでに人が驚くその匂いを、いっそなくしてしまいたいと思うが、ぎょうさんなまでの御移り香なので、濯ぎ流すこともできないのが、あまりに理不尽なことではある。

君(薫)は、姫君の御返事を、とても感じがよく子供めいていると、好ましくご覧になる。宮(八の宮)にも、中将からこのようにお手紙がございましたなどと女房たちが申し上げてご覧にいれると、(八の宮)「どうしたものか。懸想文としてお取り扱いするのも、かえってお気の毒だろう。ふつうの若者のようでもない御気性であるようだから、私が亡くなった後、どうか姫君のことを…などと私が一言ほのめかしたので、そのようにお気をとめられたのだろう」などとおっしゃるのだった。宮御みずからも、さまざまなお見舞いの品々が、山の岩屋(山寺)にすぎるほどあったことなどお手紙の中でおっしゃるにつけ、中将(薫)は宮のもとに参ろうとお思いになって、三の宮(匂宮)が、「こうした奥深い山里あたりに住む女で、逢えばかえって良さがまさってくるようなのがすばらしいのだが」と、理想的なこととしてさえおっしゃっていたので、中将(薫)は、宮(匂宮)のお気持ちをかきたてるように煽り申し上げて、御心をおさわがし申し上げよう、とお思いになって、静かな夕暮に宮(匂宮)のもとにおいでになった。

例によって、お互いさまざまなお話をなさるついでに、中将(薫)は、宇治の宮(八の宮)のことを話に出して、姫君たちを垣間見た暁のようすなどくわしくお話申し上げられると、宮(匂宮)はとても一途に興味を抱かれる。中将(薫)は、「それなら」と宮のご様子を見て、いよいよ御心を動かされるように話をつづけられる。(匂宮)「さて、その時の返事は、どうして私に見せてくださらなかったのだ。私になら見せたってよかろうに」と恨み言をおっしゃる。(薫)「そうですよ。貴方(匂宮)は実にさまざまにご覧になっていらっしゃるだろう恋文のほんの一部さえ、私にはお見せくださらないではございませんか。あの宇治のあたりのことは、こうして、ひどく引きこもっているわが身としては、自分だけものとして最後まで隠し通せるような様子でもございませんので、必ず貴方にご覧に入れようと思っておりましたが、それにしても貴方(匂宮)はどうやって宇治の山里などに尋ねていけましょう。軽い身分であったればこそ、好色めいたことをしたければ、実によく好色めいたことができる世でございます。ひっそりと人知れずおもしろいことが多いようでございますな。そうした方面に見どころがあるような女たちの、物思いに沈みがちな、ひっそりした住まいが、山里めいた田舎などに、よくあるようでございます。今お話申し上げております宇治のあたりは、ひどく浮世離れした聖めいたようすで、不風流だろうと、長年軽く見ておりまして、耳にさえ入れずにおりました。ほのかな月明かりで見たとおりの器量だとしましたら、非の打ちどころもございますまい。その物腰といい姿かたちといい、ああいうのを、理想的なと思うべきでございましょう」など申し上げられる。

宮(匂宮)は、最後のほうは、真剣にたいそう妬ましく思って、並ひととおりの女に心移ることはありえない人(薫)が、ここまで深く姫君を思っているのを、ただごとではないと、どこまでも直接逢ってみたいお気持ちになられた。(匂宮)「では、もっともっと、よく様子をさぐってごらんなさい」と、人(薫)におすすめになって、制限のある御身の大げさなお立場を、嫌になるほどじれったくお思いになっていらっしゃるので、中将(薫)はおかしくて、(薫)「まったく、意味のないことでございます。私は、少しも世の中に執着を持つまいと思っておりますので、かりそめの浮ついたことも控えておりますのに、もしわが心ながらどうにもならない心がつき始めては、大いに思いに違えることでございましょう」と申し上げられると、(匂宮)「さあ、ひどく大げさなことを。いつもの大げさな聖人ぶった口ぶりを、最後まで言い続けていられるかな」といってお笑いになる。中将(薫)は、心の中では、あの老人(弁)がほのめかしたことなどが、ますます気になって気持ちをかきたてられるので、姫君を美しいと見ることも、難がないときくことも、まるで心にもとまらないのだった。

語句

■なほ思ひ離れがたき世なりける 薫は俗世に対する厭世感に包まれ仏の道に入りたいと思っていたが、ここに現世への執着が芽生えた。 ■白き色紙の… 紙は恋文のように色紙ではないが、筆運びに恋文めいたものをただよわせる。 ■今よりは御簾の前も 薫は御簾の前に通された時、「この御簾の前にははしたなくはべりけり」(【橋姫 11】)といった。 ■日数 八の宮の参籠は「七日のほど」(【橋姫 09】)。 ■左近将監 左近衛府の三等官。 ■檜破子 檜でこさえた食物を入れる器。 ■またの日 帰京の翌日。 ■布施 八の宮は七日間参籠の謝礼を払わなければならない。経済的に苦しい八の宮には酷。 ■かの御脱ぎ棄て 前に「濡れたる御衣どもは、みなこの人に脱ぎかけたまひて」(【橋姫 15】)とあった。 ■白き綾 模様を織りだした下着類。 ■えかへぬ よい衣であっても中身を変えるわけにはいかない。 ■いとめやすく 前も「まほにめやすく」と評した。 ■かく御消息ありき 薫の、大君に対する手紙。 ■懸想だちて… 薫の手紙は懸想文とも取れるが、そうは扱わない。 ■亡からむ後も 八の宮はすでに薫に姫君の後見を頼んでいることがわかる。 ■さやうにて 姫君の後見人としての立場からのことで、好色な気持ちからではないと八の宮は理解しようとする。 ■参うでんと思して 一文の中で断りもなく主語が切り替わる。読みづらさのきわみ。 ■かやうに奥まり… 前に「げにあはれなるものの隈ありぬべき世なりけり」(【橋姫 10】)。 ■聞こえはげまして 匂宮が興味をかきたてられるように言う。 ■見し暁のありさま 薫が姫君たちを垣間見たこと(【橋姫 10】)。 ■いとど御心動きぬべく 匂宮の反応に、薫はいよいよ勢いづいて煽る。 ■まろならましかば 下に「見せまし」などを補い読む。 ■さかし 然し。そのとおりである。 ■いとさまざま 匂宮が好色でほうぼうの女と文のやり取りをしていることをいう。 ■端 多くある艷書のほんの一部さえも。 ■かのわたり 宇治の姉妹。 ■埋もれたる身 浮世離れした薫のありさま。 ■いかでか尋ねよらせたまふべき 匂宮は身分上、気軽に宇治に出かけるわけにもいかないとして、いっそう興味を煽る。 ■うち隠ろへつつ多かめるかな 匂宮の興味をかきたてる。 ■こちごちしうぞ 「こちごちし」は無風流だ。 ■年ごろ 薫が八の宮邸に通い始めて三年。 ■ほのかなりし月影の ぼかした言い方でいっそう匂宮の興味を煽る。 ■おぼろけの人 並たいていの人。 ■限りある御身 匂宮は今上帝の第三皇子。立場上、気軽に出歩くことはできない。 ■よだけさ 仰々しさ。大げささ。 ■をかしくて 薫は、匂宮が自分の思惑どおりに反応してくれるのでおもしろがる。 ■よしなくぞ 「よしなし」は意味がない。 ■世の中に心とどめじ 現世に執着するまいという薫の方針。 ■なほざりごと その場限りの恋愛沙汰など。 ■心ながらかなはぬ心つきそめなば この時点では薫にそんな気持ちは発生していないが、匂宮の興味を煽るために言っているのである。 ■見はててしがな 最後までそんなことを言っていられるかなと、いくら浮世離れした薫でも懸想したら夢中になるだろうの意をふくむ。 ■かる古人のほのめかしし筋 弁がほのめかした薫の出生の秘密にまつわる話。前に「老人の物語、心にかかりて…」とあった。

朗読・解説:左大臣光永

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