【橋姫 09】晩秋、薫、八宮不在の山荘を訪れる

秋の末つ方、四季《しき》にあててしたまふ御念仏を、この川面《かはづら》は網代《あじろ》の波もこのごろはいとど耳かしがましく静かならぬをとて、かの阿闍梨の住む寺の堂に移ろひたまひて、七日のほど行ひたまふ。

姫君たちは、いと心細くつれづれまさりてながめたまひけるころ、中将の君、久しく参らぬかな、と思ひ出できこえたまひけるままに、有明《ありあけ》の月のまだ夜深くさし出づるほどに出で立ちて、いと忍びて、御供に人などもなく、やつれておはしけり。

川のこなたなれば、舟などもわづらはで、御馬にてなりけり。入りもてゆくままに霧《き》りふたがりて、道も見えぬしげ木の中を分けたまふに、いと荒ましき風の競《きほ》ひに、ほろほろと落ち乱るる木の葉の露の散りかかるもいと冷やかに、人やりならずいたく濡れたまひぬ。かかる歩《あり》きなども、をさをさならひたまはぬ心地に、心細くをかしく思されけり。

山おろしにたへぬ木の葉の露よりもあやなくもろきわが涙かな

山がつのおどろくもうるさしとて、随身《ずいじん》の音《おと》もせさせたまはず。柴の籬《まがき》を分けつつ、そこはかとなき水の流れどもを踏みしだく駒の足音も、なほ、忍びてと用意したまへるに、隠れなき御匂ひぞ、風に従ひて、主《ぬし》知らぬ香《か》とおどろく寝覚めの家々ありける。

近くなるほどに、その琴とも聞きわかれぬ物の音《ね》ども、いとすごげに聞こゆ。「常にかく遊びたまふと聞くを、ついでなくて、親王《みこ》の御|琴《きん》の音《ね》の名高きもえ聞かぬぞかし。よきをりなるべし」と思ひつつ入りたまへば、琵琶の声の響きなりけり。黄鐘調《わうしきじやう》に調べて、世の常の掻《か》き合はせなれど、所からにや耳馴れぬ心地して、掻きかへす撥《ばち》の音《おと》も、ものきよげにおもしろし。箏《さう》の琴《こと》、あはれになまめいたる声して、絶え絶え聞こゆ。

しばし聞かまほしきに、忍びたまへど、御けはひしるく聞きつけて、宿直人《とのゐびと》めく男《をのこ》なまかたくなしき出で来たり。「しかじかなん籠《こも》りおはします。御|消息《せうそこ》をこそ聞こえさせめ」と申す。「なにか。しか限りある御行ひのほどを、紛らはしきこえさせんにあいなし。かく濡れ濡れ参りて、いたづらに帰らむ愁へを、姫君の御方に聞こえて、あはれとのたまはせばなん慰むべき」とのたまへば、醜《みにく》き顔うち笑みて、「申させはべらん」とて立つを、「しばしや」と召し寄せて、「年ごろ、人づてにのみ聞きて、ゆかしく思ふ御|琴《こと》の音《ね》どもを、うれしきをりかな、しばし、すこしたち隠れて聞くべき物の隈《くま》ありや。つきなくさし過ぎて参りよらむほど、みなことやめたまひては、いと本意《ほい》なからん」とのたまふ。御けはひ、顔容貌《かほかたち》の、さるなほなほしき心地にも、いとめでたくかたじけなくおぼゆれば、「人聞かぬ時は、明け暮れかくなむ遊ばせど、下人《しもびと》にても、都の方より参り立ちまじる人はべる時は、音《おと》もせさせたまはず。おほかた、かくて女《をむな》たちおはしますことをば隠させたまひ、なべての人に知らせたてまつらじと思しのたまはするなり」と申せば、うち笑ひて、「あぢきなき御もの隠しなり。しか忍びたまふなれど、皆人《みなひと》あり難《がた》き世の例《ためし》に、聞き出づべかめるを」とのたまひて、「なほしるべせよ。我はすきずきしき心などなき人ぞ。かくておはしますらん御ありさまの、あやしく、げになべてにおぼえたまはぬなり」とこまやかにのたまへば、「あなかしこ。心なきやうに後の聞こえやはべらむ」とて、あなたの御前《おまへ》は竹の透垣《すいがい》しこめて、みな隔てことなるを、教へ寄せたてまつれり。御供の人は、西の廊《らう》に呼びすゑて、この宿直人《とのゐびと》あひしらふ。

現代語訳

秋の末ごろ、中将(薫)は、四季ごとになさっている御念仏を、この川のほとりは網代の波もころごろはひどく耳にうるさく落ち着かないからといって、かの阿闍梨が住む寺の堂にお移りになって、七日の間勤行なさる。

姫君たちはひどく心細く所在なさがまさってぼんやり物思いに沈んでいらしたころ、中将の君(薫)は、「長く参っていないものだ」と思い出し申し上げられたのにまかせて、有明の月がまだ夜深く出ているうちに出発して、たいそうこっそりと、御供に人数もなく、身をやつしておでかけになられたのである。

川のこちら側なので、舟に乗る面倒もなく、御馬でおでかけになったのだ。山路に入って行くにつれて霧であたりが満ちて、道も見えない鬱蒼とした木の中をお踏み分けになるにつけ、ひどく荒々しい風と競いあううように、ほろほろと落ち乱れる木の葉の露が散りかかるのもひどく冷ややかで、みずから求めてのことながら露でひどく濡れになった。こうした忍び歩きなども、めったに慣れていらっしゃらないお心には、心細く、あま興あることともお思いになられるのだった。

山おろしに……

(山おろしの風にたえず吹き乱される木の葉の露よりも、不思議にもろい私の涙よ)

木こりが目をさますのも面倒なので、随身に前駈追う声もおさせにならない。柴の籬を分けつつ、ささやかな水の流れ流れを踏みしだく馬の足音も、やはり、こっそりと注意深くなさるのだが、隠れなようもない御匂いが、風に乗って、主のわからない香だなと驚いて目をさます家々があるのだった。

近づくにつれて、何の楽器とも聞き分けられない多くの楽器の音が、たいそう寂しげに聞こえてくる。(薫)「いつもこうして楽器を演奏していらっしゃると聞くのに、機会がなくて、親王(八の宮)の名高い御琴の音も聞いていなかったのだ。よい機会だろう」と思いながらお入りになると、琵琶の音の響きなのであった。黄鐘調《おうしきちょう》に調べて、世間によくある曲ではあるが、場所のせいだろうか耳慣れない感じがして、掻き返す撥の音も、なんとなく美しげに風情がある。箏の琴は、しみじみと胸にせまる優美な音で、とぎれとぎれに聞こえる。

中将(薫)はしばらく演奏を聞いていたいので、忍んでいらしたが、御気配をはっきりと聞きつけて、宿直人めいた男で無骨そうなのが出てきた。(宿直人)「これこれのわけで、八の宮は御堂に籠もっていらっしゃいます。御連絡を伝えさせましょう」と申す。(薫)」「その必要はない。そのような日を限っての御勤行の最中にお邪魔申しあげることは具合が悪い。こうして露に濡れながら参って、むなしく帰っていく残念さを、姫君の御方に申し上げて、気の毒とおっしゃってくださるなら、慰められもしよう」とおっしゃると、宿直人は醜い顔に笑みをうかべて、「申し付けておきましょう」といって出発するのを、(薫)「しばし待て」と召し寄せて、「長年、人づてにのみ耳にしていて、聞いてみたいと思っていた姫君たちの御琴の音を、うれしい機会ではないか、しばらく、すこし隠れて聞ける物陰はあろうか。私が場違いにしゃしゃり出て近くに参っているうちにお二人が琴を弾くことをお止めになられては、ひどく残念だろうから」とおっしゃる。中将(薫)の御気配、顔や容姿も、宿直人には、こうした取るに足らない者の心にも、たいそう素晴らしく畏れ多く思われるので、(宿直人)「人が聞いていない時は、明け暮れこうして演奏していらっしゃいますが、身分の低い者でも、都の方からおいでになった人がございます時は、音もお立てになりません。いったい宮さま(八の宮)は、こうして姫君たちがいらっしゃることをお隠しになり、並大抵の人にはお知らせ申し上げまいとお思いになり、そうおっしゃっています」と申すので、中将(薫)は笑って、(薫)「つまらないお隠し立てをなさるものだね。そうやって隠していらっしゃるとしても、誰だって姫君たちのことを、世にもまれお方の例として、聞き出さずにはおくまいに」とおっしゃって、(薫)「やはり私を案内せよ。私は好色な気持などない人だぞ。姫君たちがこうしてお住まいでいらっしゃるご様子が、不思議と、なるほど並々のものとは思えぬのだ」と熱心におっしゃるので、(宿直人)「恐れいります。わきまえのない者と後々評判になりましょうから」といって、あちらの御庭前は竹の透垣をめぐらして、すっかり隔てが他と異なっているのだが、そこへ、宿直人は中将をご案内申し上げるのだった。中将(薫)の御供の人たちは、西の廊に呼んでそこに留めておき、この宿直人が相手をする。

語句

■四季にあててしたまふ御念仏 四季ごとに七日ずつ行う念仏会。 ■網代 魚を捕るために木や竹を川に渡した仕掛け。昔の宇治川の風物詩。 ■有明の月 夜が明けるか明けないかという時に空に残っている月。月の下旬。 ■川のこなた 京都から木幡を経て宇治へ向かって宇治川の手前。現在の宇治神社・宇治上神社あたりが想定される。 ■しげ木の中 「繁木の中」説と「しげき野中」説がある。ここでは前者をとる。 ■人やりならず 他人に強制されたわけでもなく自ら求めて。 ■かかる歩き 女のもとに忍び通いをすること。 ■山おろしに… 「あやなし」は道理にあわないこと。「俊成卿歌あらし吹くみねの木の葉の日にそへてもろくなりゆく我なみだかな、この源氏の歌をとりてよみ侍り」(花鳥余情)。 ■随身 薫は近衛中将なので、四人の近衛府の舎人を随身てして従えている。 ■隠れなき御匂ひ 隠そうとしても隠しきれない薫の生来のよい薫。「百歩の外もかをりぬべき心地」(【匂宮 06】)とあった。 ■主知らぬ香 「主しらぬ香こそにほへれ秋の野に誰がぬぎかけし藤衣ぞも」(古今・秋上 素性)による(【同上】)。 ■物の音ども 「ども」と複数であることに注目。姉妹の合奏。 ■親王の御琴の音の名高き 「はかなき遊びに心を入れ」(【橋姫 04】)とあった。 ■響きなりけり ハッと気づいた感じ。 ■黄鐘調 鐘の音にふさわしいとされる音階。西洋音階におけるイ調(A)にあたるとされる。 ■掻き合はせ 調子を整えるための短い楽曲。 ■しかじかなん籠りおはします 八の宮の不在を告げる。 ■御消息をこそ 八の宮に薫の来訪をつげる手紙を。 ■させめ 下男に命じて届けさせましょう。 ■なにか それには及ばないの意。 ■しか限りある 前に「七日のほど行ひたまふ」とあった。 ■かく濡れ濡れ参りて 前に「人やりならずいたく濡れたまひぬ」とあった。 ■うち笑みて 薫が姫君に興味を示したので。 ■申させはべらむ 女房を介して言わせる。 ■人づてにのみ聞きて 「この姫君たちの琴弾き合はせて遊びたまへる」(【橋姫 06】)とあった。 ■ことやめたまひては 「こと」は「事」と「琴」をかける。 ■なほなほしき 「直直し」は平凡である。ありきたりである。 ■都の方より… 都に姫君たちの噂が広がるのを嫌っている。 ■すきずきしき心なき人ぞ 源氏物語に登場する男は皆こう言っては「すきずきしき」方面に向かう。もはや恒例行事。 ■げになべてにおぼえたまはぬ 前の宿直人の「なべての人に…」を受ける。 ■あなたの御前 姫君がいる部屋の庭前。 ■教へ寄せたてまつれり 宿直人が薫を姫君の庭前に案内した。 ■西の廊に 姫君の部屋が東面であることがわかる。

朗読・解説:左大臣光永