【橋姫 10】薫、月下に宇治の姉妹を垣間見る

あなたに通ふべかめる透垣の戸を、すこし押し開《あ》けて見たまへば、月をかしきほどに霧《き》りわたれるをながめて、簾《すだれ》を短く捲き上げて、人々ゐたり。簀子《すのこ》に、いと寒げに、身細く萎《な》えばめる童|一人《ひとり》、同じさまなる大人《おとな》などゐたり。内なる人、一人柱にすこしゐ隠れて、琵琶を前に置きて、撥《ばち》を手まさぐりにしつつゐたるに、雲隠れたりつる月のにはかにいと明《あ》かくさし出でたれば、「扇《あふぎ》ならで、これしても月はまねきつべかりけり」とて、さしのぞきたる顔、いみじくらうたげににほひやかなるべし。添ひ臥《ふ》したる人は、琴《こと》の上にかたぶきかかりて、「入る日をかへす撥《ばち》こそありけれ、さま異《こと》にも思ひおよびたまふ御心かな」とて、うち笑ひたるけはひ、いますこし重《おも》りかによしづきたり。「およばずとも、これも月に離るるものかは」など、はかなきことをうちとけのたまひかはしたるけはひども、さらによそに思ひやりしには似ず、いとあはれになつかしうをかし。昔物語などに語り伝へて、若き女房などの読むをも聞くに、かならずかやうのことを言ひたる、さしもあらざりけむ、と憎く推しはからるるを、げにあはれなるものの隈《くま》ありぬべき世なりけりと、心移りぬべし。

霧の深ければ、さやかに見ゆべくもあらず。また、月さし出でなんと思すほどに、奥の方《かた》より、「人おはす」と告げきこゆる人やあらむ、簾《すだれ》おろしてみな入りぬ。驚き顔にはあらず、なごやかにもてなしてやをら隠れぬるけはひども、衣《きぬ》の音もせずいとなよよかに心苦しうて、いみじうあてにみやびかなるをあはれと思ひたまふ。

やをら立ち出でて、京に、御車|率《ゐ》て参るべく、人走らせつ。ありつる侍《さぶらひ》に、「をりあしく参りはべりにけれど、なかなかうれしく、思ふことすこし慰めてなむ。かくさぶらふよし聞こえよ。いたう濡れにたるかごとも聞こえさせむかし」とのたまへば、参りて聞こゆ。

現代語訳

姫君のお部屋のほうに通じているらしい透垣の戸を、すこし押し開けてご覧になると、月がいい具合に出て、霧がそこらじゅうにかかっているのをながめて、簾を短く巻き上げて、女房たちが座っている。簀子に、とても寒そうに、痩せてよれよれの格好の女童《めのわらわ》が一人と、同じ姿をした女房などがいる。部屋内にいる人は、一人が柱にすこし隠れるように座っていて、琵琶を前に置いて、撥を手でまさぐりつつ座っているが、雲に隠れていた月が急にとても明るく出てきたので、(中の君)「扇でなくて、この撥でも、月は招き返すことができそうでした」といって、撥からちょっと月を覗いた顔は、たいそう可愛らしく美しいようだ。物に寄りそって横になっている人は、琴の上にもたれかかって、(大君)「山の端に入る日を呼び返す撥こそはありますが、変わったことをお思いつきなさること」といって、笑っている気配は、もう少し重みがあり折り目正しい感じである。(中の君)「扇には及ばずとも、この撥も月にそう離れるものではございませんよ」など、たわいのないことを打ち解けてお互いにおっしゃっている姉妹のご様子は、まったくよそながら想像していたのとは違い、とても風情があり心惹かれるすばらしさである。こうした場面を昔物語などに語り伝えて、若い女房などが読むのも聞いていると、必ずこうしたことを言っているのを、まさかそんなこともなかったろうと、反感も抱かれるものだが、なるほど、人目につかず風情あることがあったものだと、心動かされるにちがいない。

霧が深いので、はっきり見ることもできない。また月が出るかと思っているうちに、部屋の奥から、「人がいらっしゃいます」とお知らせ申しあげる人があるのだろうか、簾をおろしてみな中に入ってしまった。驚いた顔をするでもなく、なごやかにふるまってそっと隠れた姉妹の気配は、衣の音もせずたいそうゆったりとしてこちらが心苦しいほどで、たいそう品があり華やかなのを、中将(薫)はしみじみ風情があるとお思いになる。

中将(薫)はそっと外に出て、京に、御車をひいて参るように、人を使として走らせた。さっきの侍に、(薫)「折悪く参りましたが、かえってうれしく、憂鬱な気持ちがすこし慰められました。こうして私が控えていることを姫君たちにお伝えください。ひどく濡れていることの恨み言も申し上げましょう」とおっしゃるので、宿直人は姫君たちのもとに参って申し上げた。

語句

■透垣 板や竹で間が少し透けるように作った垣根。そこに戸がついているのである。 ■月をかしきほどに 月灯りが霧のためよく見えない。前に「霧りふたがりて」(【橋姫 09】)とあった。 ■いと寒げに 以下の侍女たちのようすに八の宮家の貧しい暮らしがうかがえる。 ■内なる人 姫君たち。廂の間にいるのだろう。 ■一人 二人の姫君のうちの一人。中の君。中の君が琵琶を、大君が琴を演奏していたと見るのが定説。 ■扇ならで 月光が急に明るくなったのを、「手まさぐり」していた撥のせいだと洒落た。 ■入る日をかへす撥こそありけれ 中の君がいう月は日の誤解だろう笑う。陵王舞の秘曲「日掻手」、別号「入日ヲ麾《さしまね》ク手」では、桴《ばち》(鼓を打つ柄・槌)を宙に上げて空を仰ぐ動作がある。ここでは琵琶の「撥」に「桴」をかけて洒落た。平清盛に日招き伝説がある。 ■いますこし重りか 断片的な描写ながらも姉妹の人となりをしっかり書き分けている。 ■これも月に離るるものかは 琵琶の撥を収める箇所を「隠月」ということから、撥も月と縁があるという。 ■よそに思ひやりし 薫は「女君たち、…世の常の女しくなよびたる方は遠くや」(【橋姫 08】)と想像していた。 ■昔物語 『宇津保物語』俊蔭巻で若小君が零落した俊蔭の女の家近くで琴の音を聞く場面や、『住吉物語』で中将が姫君の琴を聞く場面を古注は引く。 ■世なりけり 現実の中に物語的場面を見出したことの感動。 ■また、月さし出でなんと 叢雲の折で、月があらわれたり隠れたりしている。 ■驚き顔にはあらず 姫君たちの上臈めいたさま。 ■京に 往路は馬で、復路は牛車で帰る。 ■をりあしく 八の宮の不在をいう。 ■思ふこと 日頃の憂鬱。 ■いたう濡れにたるかごと 前も「かく濡れ濡れ参りて、…」(【橋姫 09】)とあったがここでは「かごと」とまで踏み込んでいる。

朗読・解説:左大臣光永