【橋姫 16】十月、薫、宇治を訪れ八の宮と対面 姫君の後見を頼まれる
十月になりて、五六日のほどに宇治へ参でたまふ。「網代《あじろ》をこそ、このごろは御覧ぜめ」と聞こゆる人々あれど、「何か、その蜉蝣《ひをむし》にあらそふ心にて、網代にも寄らん」と、そぎ棄てたまひて、例の、いと忍びやかにて出で立ちたまふ。かろらかに網代車にて、縑《かとり》の直衣《なほし》、指貫《さしぬき》縫はせて、ことさらび着たまへり。 宮待ちよろこびたまひて、所につけたる御|饗《あるじ》など、をかしうしなしたまふ。暮れぬれば、大殿油《おほたなぶら》近くて、さきざき見さしたまへる文どもの深きなど、阿闍梨《あざり》も請《さう》じおろして、義《ぎ》など言はせたまふ。うちもまどろまず、川風のいと荒ましきに、木の葉の散りかふ音《おと》、水の響きなど、あはれも過ぎて、もの恐ろしく心細き所のさまなり。
明け方近くなりぬらんと思ふほどに、ありししののめ思ひ出でられて、琴《こと》の音《ね》のあはれなることのついでつくり出でて、「前《さき》のたび霧にまどはされはべりし曙《あけぼの》に、いとめづらしき物の音《ね》、一声うけたまはりし残りなむ、なかなかにいといぶかしう、飽かず思うたまへらるる」など聞こえたまふ。「色をも香《か》をも思ひ棄ててし後、昔聞きしこともみな忘れてなむ」とのたまへど、人召して琴《きん》とりよせて、「いとつきなくなりにたりや。しるべする物の音《ね》につけてなん、思ひ出でらるべかりける」とて、琵琶召して、客人《まらうと》にそそのかしたまふ。取りて調べたまふ。「さらに、ほのかに聞きはべりし同じものとも、思うたまへられざりけり。御|琴《こと》の響きからにやとこそ思うたまへしか」とて、心とけても掻《か》きたてたまはず。「いで、あなさがなや。しか御耳とまるばかりの手などは、いづくよりかここまでは伝はり来《こ》む。あるまじき御ことなり」とて、琴《きん》掻き鳴らしたまへる、いとあはれに心すごし。かたへは、峰の松風のもてはやすなるべし。いとたどたどしげにおぼめきたまひて、心ばへある手ひとつばかりにてやめたまひつ。
「このわたりに、おぼえなくて、をりをりほのめく箏《さう》の琴《こと》の音《ね》こそ、心得たるにや、と聞くをりはべれど、心とどめてなどもあらで、久しうなりにけりや。心にまかせて、おのおの掻き鳴らすべかめるは。川波ばかりや打ち合はすらむ。論《ろ》なう、物の用にすばかりの拍子《はうし》などもとまらじとなむおぼえはべる」とて、「掻き鳴らしたまへ」と、あなたに聞こえたまへど、思ひよらざりし独《ひと》り琴を、聞きたまひけんだにあるものを、いとかたはならむ、と引き入りつつ、みな聞きたまはず。たびたびそそのかしきこえたまへど、とかく聞こえすさびてやみたまひぬめれば、いと口惜しうおぼゆ。
そのついでにも、かくあやしう世づかぬ思ひやりにて過ぐすありさまどもの、思ひの外《ほか》なることなど、恥づかしう思《おぼ》いたり。「人にだにいかで知らせじ、とはぐくみ過ぐせど、今日明日《けふあす》とも知らぬ身の、残り少なさに、さすがに、行く末遠き人は、落ちあぶれてさすらへんこと、これのみこそ、げに世を離れん際《きは》の絆《ほだし》なりけれ」と、うち語らひたまへば、心苦しう見たてまつりたまふ。「わざとの御後見だち、はかばかしき筋にはべらずとも、うとうとしからず思しめされんとなむ思ひたまふる。しばしもながらへはべらむ命のほどは、一言《ひとこと》も、かくうち出できこえさせてむさまを、違《たが》へはべるまじくなむ」など申したまへば、「いとうれしきこと」と思しのたまふ。
現代語訳
十月になって、中将(薫)は、五六日あたりに宇治にお参りになる。「網代を、この季節にはご覧ください」と申し上げる人々があるが、(薫)「どうして、その蜉蝣とはかなさを競う心で、網代に近寄ったりするものか」と、遊び心はお捨てになって、例によって、実にひっそりとご出発される。簡素ないでたちで網代車に乗って、無地の直衣や指貫を縫わせて、わざわざお召しになっていらっしゃった。
宮(八の宮)は中将(薫)を喜んでお迎えになり、場所柄を活かしたご饗応など、趣深くおととえになる。日が暮れてしまったので、燈火を近づけて、前々から途中まで読んでいらした多くの仏典の深いところなど、阿闍梨も山からお招きして、意味など言わせなさる。少しもまどろみもせず、川風がひどく荒々しいのに加えて、木の葉の散り交う音、水の響きなど、風情があるというのを過ぎて、なんとなく恐ろしく心細い所のさまである。
明け方近くなったろうと思ううちに、以前の明け方のことが思い出されて、琴の音がしみじみと胸を打つのを話をきっかけとして、(薫)「前回、霧にまどわされました明け方に、たいそう珍しい楽器の音を、一声お聞きしました、その残りがかえって気になりまして、もっと聞きたいと思われます」などと申し上げられる。(八の宮)「この世の、色も香も思い捨ててからというもの、昔聞きおぼえたこともみな忘れてしまいまして」とおっしゃるが、人を召して琴をとりよせて、(八の宮)「まったく不似合いになってしまいました。導いてくださる楽器の音のあとについて、自然と弾き方も思い出されてまいりましょう」といって琵琶を召して、客人(薫)におすすめになる。中将(薫)はそれを取って調子をお合わせになる。(薫)「まったく、以前すこし聞きました音とは、同じものとも思われませんな。御琴の響きのせいかと思っておりましたが(そうではなくて演奏者の技量のせいなのですね)」といって、打ち解けてもお弾きにならない。(八の宮)「さあ、まったく意地がお悪い。そのように御耳にとまるほどの手などは、どこからこの田舎まで伝わって来ましょう。ありえない御ことです」といって、琴をお掻き鳴らしになるさまは、実に趣深く、ものさびしい。一つには、峰の松風が演奏を引き立てるのだろう。宮(八の宮)は、ひどくたどたどしい様子に忘れたふりをなさって、風情のある曲を一曲ぐらい演奏して、おやめになった。
(八の宮)「このあたりに、不意に、時々ほのかに聞こえてくる琴の音こそ、心得があるのだろうか、と聞く折がございますが、熱心に教えたりもしなくなってから、久しくなったものですよ。ただ心のままに、それぞれ掻き鳴らしているようです。川波だけが調子を合わせているのでしょう。言うまでもなく、使い物になるていどの拍子なども取れないと思われるのですが」といって、(八の宮)「お掻き鳴らしください」と、姫君たちのほうに申し上げられるが、姫君たちは、思いも寄らず、独り勝手に弾いていただけの琴を、中将(薫)がお聞きになっていらした、そのことだけでもいたたまれないのに、ひどくぶざまな演奏だろうと、奥に引き入りつつ、二人とも父宮のお申し付けをお聞きにならない。宮(八の宮)は姫君たちに、何度もおすすめ申し上げられるが、姫君たちは、あれこれと言いはぐらかして終わってしまわれるようなので、中将(薫)は、ひどく残念にお思いになる。
そのついでにも、宮(八の宮)は、こうして変に浮世離れした者と思われながら過ごしている姫君二人の、不本意なありさまなどを、恥ずかしく思っていらっしゃる。(八の宮)「せめて世間の人に、この姫君たちの存在をどうにかして知らせまいと、大切に育ててまいりましたが、今日明日とも知らぬ身の残り少なさに、さすがに将来が長い姫君たちは、落ちぶれて路頭に迷うのではないかと、これだけが、実に世を離れる際に断ち難い思いなのでございます」と、お語らいになるので、中将は気の毒に存じ上げられる。(薫)「ことさらの後見人として、しっかりした筋ではないといたしましても、私のことを疎遠でない者としてお考えになっていただきたいと存じます。しばらくでも生きながらえております間は、一言も、こうと申し上げましたことを、違えることはしないつもりです」など申し上げなさると、(八の宮)「実にうれしいことを」とお思いになりそうおっしゃる。
語句
■十月 初冬。前の宇治行きは「秋の末つ方」(【橋姫 09】)。 ■網代 魚を捕るために木や竹を川に渡した仕掛け。冬の宇治の風物であった。 ■蜉蝣 ウスバカゲロウ科の昆虫。「朝ニ生マレ、暮に死ヌル虫ナリ」(和名抄)とあり、無常のたとえ。網代で捕る「氷魚」の音とかける。 ■そぎ棄て 物見遊山の遊び心は捨てて。 ■縑 「固織」の約。無地の平絹。目立たないように身をやつす。 ■文ども 薫は八の宮の指導で経文を読解していた(【橋姫 08】)。 ■請じおろして 下山してもらって。 ■ありししののめ 宇治の姉妹を垣間見た明け方のこと(【橋姫 10】)。 ■ついでつくり出でて 八の宮は琴の名手なので、そのことを話のきっかけとする。 ■色をも香をも 俗世間との関わりを棄てているの意。 ■しるべする物の音 薫が琵琶を弾いたらその後について八の宮が琴を弾く。 ■御琴の響きからにや 素晴らしく聞こえたのは楽器の音のせいではなくて姫君たちの技量が高いからだと持ち上げる。 ■峰の松風の 「琴の音に峰の松風かよふらしいづれの緒よりしらべそめけむ」(拾遺・雑上 斎宮女御)による。琴と松風の合奏の情緒。「緒」と「尾」をかける。 ■おぼめきたまひて 忘れたふりをして。あるいは下手なふりをして。 ■このわたり 自邸内。 ■箏の琴の音 「姫君に琵琶、若君に箏の御琴」【橋姫 03】を教えたとあった。 ■心とどめてなどもあらで 出家後は姫君たちの教育に熱心ではなかった。 ■心にまかせて 合奏するのではなく三者三様にそれぞれ奏でている。 ■論なう 言うまでもなく。「論なく」の撥音無表記。 ■拍子などもとまらじ 姫君の演奏の技量を親として謙遜する。 ■独り琴 合奏というほどでなく、それぞれ好きに弾いていただけなので困惑する。 ■聞きたまひけんだにあるものを 前に薫るの来訪に気付いた姫君たちは「うちとけたるつる事どもを聞きやしたまひつらむ、といといみじく恥づかし」(【橋姫 11】)と思った。 ■思ひやりにて 世間一般の人が。 ■人にだにいかで知らせじ 八の宮は姫君たちを深窓の令嬢として大切に育ててきた。 ■行く末遠き人 姫君たち。 ■げに 妻子など肉親への執着が往生のさまたげになるという教えどおり。 ■わざとの御後見だち 正妻としてのしっかりした取り扱いでなければ姫君の世話をしましょうの意。 ■しばしもながらへはべらむ命 薫は少なくとも八の宮よりも長生きするだろうから。