【橋姫 03】春の日、宮と姫君たち、水鳥に寄せて歌を詠み交わす

春のうららかなる日影に、池の水鳥どもの翼《はね》うちかはしつつおのがじし囀《さへづ》る声などを、常ははかなきことと見たまひしかども、つがひ離れぬをうらやましくながめたまひて、君たちに御|琴《こと》ども教へきこえたまふ。いとをかしげに、小さき御ほどに、とりどり掻《か》き鳴らしたまふ物の音《ね》どもあはれにをかしく聞こゆれば、涙を浮けたまひて、

「うち棄ててつがひさりにし水鳥のかりのこの世にたちおくれけん

心づくしなりや」と目おし拭《のご》ひたまふ。容貌《かたち》いときよげにおはします宮なり。年ごろの御行ひに痩せ細りたまひにたれど、さてしもあてになまめきて、君たちをかしづきたまふ御心ばへに、直衣《なほし》の萎《な》えばめるを着たまひて、しどけなき御さまいと恥づかしげなり。

姫君、御|硯《すあずり》をやをら引き寄せて、手習のやうに書きまぜたまふを、「これに書きたまへ。硯には書きつけざなり」とて紙奉りたまへば、恥ぢらひて書きたまふ。

いかでかく巣立ちけるぞと思ふにもうき水鳥のちぎりをぞ知る

よからねど、そのをりはいとあはれなりけり。手は、生《お》ひ先見えて、まだよくもつづけたまはぬほどなり。「若君と書きたまへ」とあれば、いますこし幼げに、久しく書き出でたまへり。

泣く泣くもはねうち着する君なくはわれぞ巣守りになるべかりける

御|衣《ぞ》どもなど萎《な》えばみて、御前《おまへ》にまた人もなく、いとさびしくつれづれげなるに、さまざまいとらうたげにてものしたまふをあはれに心苦しう、いかが思さざらん。経を片手に持《も》たまひて、かつ読みつつ唱歌《さうが》もしたまふ。姫君に琵琶《びは》、若君に箏《さう》の御|琴《こと》を。まだ幼けれど、常に合はせつつ習ひたまへば、聞きにくくもあらで、いとをかしく聞こゆ。

現代語訳

春のうららかな日の光のもと、池の水鳥たちが羽を交わしてはそれぞれさえずる声などを、宮(八の宮)は、ふだんは特に何ともお思いにならないが、夫婦が一緒にいるのをうらやましくお眺めになって、姫君たちにそれぞれ御琴をお教え申し上げられる。たいそう可愛らしいようすの幼い御年頃でありながら、それぞれ演奏される楽器の音がしみじみと情深く聞こえるので、宮は涙をお浮かべになり、

(八の宮)「うち棄てて……

(父鳥を捨てて母鳥が去ってしまった後、水鳥の子が、かりそめの現世にどうして生き残ってしまったのだろう)

感無量であるよ」と、目をお拭いになる。宮は、お顔立ちがたいそう美しげでいらっしゃる。長年のご勤行のせいでやせ細ってはいらっしゃるが、そうはいっても品があって優美で、姫君たちをお可愛がりなさるお心遣いから、直衣の柔らかくなったのをお召しになって、ゆったりとしたご様子は、こちらが恥ずかしくなるほど奥ゆかしく見える。

姫君(大君)は、御硯をそっとひき寄せて、ほんの手遊びのように筆先で書きまぜられるのを、(八の宮)「これにお書きなさい。硯には書きつけるものではございません」とおっしゃって紙を差し上げられると、姫君(大君)は恥じらってお書きになる。

(大君)いかでかく……

(どうやってここまで巣立ったのかと思うにつけても、悲しい水鳥の定めを思い知ることです)

よい歌とはいえないが、折が折だけに、たいそうしみじみと興深いものであった。手跡は将来が期待されるもので、まだよく字をつなげて書くことはおできにならないお年ごろである。(八の宮)「若君(中の君)もいっしょにお書きなさい」とおっしゃるので、姉よりも少し幼なげに、長い時間をかけてお書き上げになった。

(中の君)泣く泣くも……

(母君が亡くなって泣く泣くではあっても羽を着せてくださる父君がいらっしゃらなくては、私は卵のまま巣にこもっていたことでしょう)

ご姉妹それぞれの御召し物なども着古していて、御前にほかに人もなく、ひどく寂しく所在ないので、さまざまに、まことに可愛らしくおふるまいになるのを、宮(八の宮)は愛しく心苦しく、どうして大切にお思いにならないことがあろうか。経を片手にお持ちになられて、一方ではそれを読んで、一方では唱歌をなさる。姫君(大君)に琵琶、若君(中の君)に箏の御琴をお教えになる。姫君たちの演奏はまだたどたどしいが、いつも合奏しつつ習っていらっしゃるので、聞き苦しいこともなく、たいそう風情あるように聞こえる。

語句

■池の水鳥ども つがいの水鳥を人間の夫婦に重ね合わせて、妻と死別した悲しみにくれる。 ■常ははかなきことと 北の方の生前は水鳥など見ても何も思わなかったが。 ■うち棄てて… 「水鳥の」までが「かりのこ(鴨の卵)」にかかる序詞。「かりのこ」に「仮の此の世」をかけ、「子」をひびかせる。北の方を失った悲しみと、姫君たちの将来を心配すめ気持ちをこめる。 ■容貌いときよげに 八の宮は落魄しているといっても生来の美しさを失っていない。 ■年ごの御行ひ 八の宮が「御念誦」を日課にしていることが前に語られてた(【橋姫 02】)。 ■さてしもあてに やせ細っていることでかえって生来の美しさが前面に出ている。 ■直衣 平服。生活苦からいつも糊けをきかせてもいられない。 ■手習 源氏の紫の上に対する養育を思わせる。「やがて本にと思すにや、手習絵などさまざまにかきつつ見せたてまつりたまふ」(【若紫 24】)。 ■硯には書きつけざる 硯は文殊菩薩の目とされたのでそこに字を書くことは禁忌とされたらしい。 ■いかでかく… 「う(浮)き」に「憂き」をかける。水鳥にわが身を重ねる。 ■そのをり 父と娘が水鳥をながめて唱和しいてる、その状況を考えると。 ■つづけたまはぬ 連綿体になりきらない。 ■若君と 「若君と」とする本も。そのほうがわかりやすい。 ■泣く泣くも… 「君」は父八の宮。「巣守り」は孵化せずに巣に残っている卵。 ■唱歌 仏事に関する歌などを歌うこと。 ■御琴を 下に「習はせ給ふ」などを補い読む。

朗読・解説:左大臣光永