【橋姫 02】北の方逝去 八の宮、二人の姫宮を養育する

年ごろ経《ふ》るに、御子ものしたまはで心もとなかりければ、さうざうしくつれづれなる慰めに、いかでをかしからん児《ちご》もがな、と宮ぞ時々思しのたまひけるに、めづらしく女君のいとうつくしげなる生《む》まれたまへり。これを限りなくあはれと思ひかしづききこえたまふに、さしつづきけしきばみたまひて、このたびは男《をとこ》にてもなど思したるに、同じさまにてたひらかにはしたまひながら、いといたくわづらひて亡せたまひぬ。宮、あさましう思しまどふ。

「あり経《ふ》るにつけても、いとはしたなくたへがたきこと多かる世なれど、見棄てがたくあはれなる人の御ありさま心ざまにかけとどめらるる絆《ほだし》にてこそ、過ぐし来つれ。独《ひと》りとまりて、いとどすさまじくもあるべきかな。いはけなき人々をも、独りはぐくみたてむほど、限りある身にて、いとをこがましう人わうかるべきこと」と思したちて、本意《ほい》も遂げまほしうしたまひけれど、見ゆづる人なくて残しとどめむをいみじく思したゆたひつつ、年月も経《ふ》れば、おのおのおよすけまさりたまふさま容貌《かたち》のうつくしうあらまほしきを、明け暮れの御慰めにて、おのづからぞ過ぐしたまふ。

後《のち》に生《む》まれたまひし君をば、さぶらふ人々も、「いでや、をりふし心憂く」などうちつぶやきて、心に入れてもあつかひきこえざりけれど、限りのさまにて、何ごとも思しわかざりしほどながら、これをいと心苦しと思ひて、「ただ、この君をば形見に見たまひて、あはれと思せ」とばかり、ただ一言《ひとこと》なむ宮に聞こえおきたまひければ、前《さき》の世の契りもつらきをりふしなれど、さるべきにこそはありけめと、今はと見えしまでいとあはれと思ひてうしろめたげにのたまひしを、と思し出でつつ、この君をしもいとかなしうしたてまつりたまふ。容貌《かたち》なむまことにいとうつくしう、ゆゆしきまでものしたまひける。姫君は、心ばせ静かによしある方にて、見る目もてなしも、気《け》高く心にくきさまぞしたまへる。いたはしくやむごとなき筋はまさりて、いづれをも、さまざまに思ひかしづききこえたまへど、かなはぬこと多く、年月《としつき》にそへて宮の内ものさびしくのみなりまさる。さぶらひし人も、たづきなき心地するにえ忍びあへず、次々に、従ひてまかで散りつつ、若君の御|乳母《めのと》も、さる騒ぎにはかばかしき人をしも選《え》りあへたまはざりければ、ほどにつけたる心浅さにて、幼きほどを見棄てたてまつりにければ、ただ宮ぞはぐくみたまふ。

さすがに広くおもしろき宮の、池、山などのけしきばかり昔に変らでいといたう荒れまさるを、つれづれとながめたまふ。家司《けいし》などもむねむねしき人もなかりければ、とり繕《つくろ》ふ人もなきままに、草青やかに茂り、軒のしのぶぞ所え顔に青みわたれる。をりをりにつけたる花|紅葉《もみぢ》の色をも香《か》をも、同じ心に見はやしたまひしにこそ慰むことも多かりけれ、いとどしくさびしく、よりつかん方《かた》なきままに、持仏《ぢぶつ》の御|飾《かざ》りばかりをわざとせさせたまひて、明け暮れ行ひたまふ。

かかる絆《ほだし》どもにかかづらふだに思ひの外《ほか》に口惜しう、わが心ながらもかなはざりける契りと思《おぼ》ゆるを、まいて、何にか世の人めいて今さらにとのみ、年月《としつき》にそへて世の中を思し離れつつ、心ばかりは聖《ひじり》になりはてたまひて、故君の亡せたまひにしこなたは、例の人のさまなる心ばへなど戯《たはぶ》れにても思し出でたまはざりけり。「などかさしも。別るるほどの悲しびは、また世にたぐひなきやうにのみこそは思《おぼ》ゆべかめれど、あり経《ふ》ればさのみやは。なほ世人《よひと》になずらふ御心づかひをしたまひて。いとかく見苦しくたづきなき宮の内も、おのづからもてなさるるわざもや」と人はもどききこえて、何くれとつきづきしく聞こえごつことも類《るい》にふれて多かれど、聞こしめし入れざりけり。

御|念誦《ねんず》の隙《ひま》々には、この君たちをもてあそび、やうやうおよすけたまへば、琴《こと》ならはし、碁打ち、偏《へん》つぎなどはかなき御遊びわざにつけても、心ばへどもを見たてまつりたまふに、姫君は、らうらうじく、深く重りかに見えたまふ。若君は、おほどかにらうたげなるさまして、ものつつみしたるけはひにいとうつくしう、さまざまにおはす。

現代語訳

結婚して何年もたつのに、御子がいらっしゃらないので子孫が絶えるのではないかと気がかりであったので、寂しく所在のない日々の慰めに、どうにかして可愛らしい子どもがほしいものだと、と宮は時々お思いになりそうおっしゃっていたが、思いがけないことに、とても可愛らしい女君がお生まれになった。この女君を限りなく可愛く思って大切にお育て申し上げていらっしゃるうちに、続けてご懐妊なさって、今度は男であったらなどお思いになっていらしたところ、同じく女君で、無事にお生まれになったが、北の方はとてもひどくお患いになって、お亡くなりになられた。宮は、呆然としてお思い迷いになられる。

「これまで過ごしてきたことにつけても、ひどく居心地が悪く耐え難いことが多い世の中ではあったが、見捨てがたく大切な人(北の方)のご様子、ご気性に引き留められるこの世への未練があるからこそ、今日まで過ごしてきたのだ。独りこの世にとどまるのは、ひどく寂しいに違いないよ。幼い人々を私独りで育て上げるのは、不自由の多いこの身にはひどく愚かしいことで、ひどくうるさく世間の人が悪しざまに言うだろう」と出家の決意をして、その願いを遂げたいとなさっていたが、後のことを託す人もないままに二人の姫宮を残してご出家されることをたいそうためらっていらっしゃるうちに、年月も重なると、姉妹どちらも立派にご成長なさるお姿の、可愛らしく好ましいのを、明け暮れの御慰めとして、何となく日々を過ごしになる。

後からお生まれになった姫君(中の君)を、お仕えしている女房たちも、「さあ、折りの悪いことで」などとつぶやいて、熱心に世話も申し上げなかったが、北の方のご臨終の際に、何ごとも判断がおつきにならないほど弱ってはおられたが、この姫君を後に残していくことを心苦しくお思いになって、(北の方)「ただ、この君を私の形見とご覧になって、大切にお思いになってください」とだけ、ただ一言を宮に申し置かれたので、前世からの夫婦の契りを考えても辛い折節ではあったが、「このように定められた運命だったのだろう」と、また「いよいよご臨終と見えた時まで姫君のことをとてもかわいくお思いになって心配そうにおっしゃったものよ」とお思い出されては、この姫君(中の君)をとてもお可愛がり申し上げなさる。

器量はまことに可愛らしく、不吉なまでに整っていらっしゃる。上の姫君(大君)は、気性が落ち着いていて品のある方で、見た目もふるまいも、気高く奥ゆかしいようすでいらっしゃる。上の姫君(大君)は、いたわってさしあげたいような、高貴なお血筋という感じは姉君のほうがまさっていて、宮(八の宮)は、どちらの姫君をも、さまざまに大切に思いお育て申し上げられるが、思うままにならないことが多く、年月が経つにつれて宮(御邸)の内はものさびしくばかりなっていく。お仕えしていた人々も、出世の手づるにならない感じがするので我慢できず、次々に、後から後へと散り散りに退出して、若君(中の君)の御乳母も、そうした出産の時の(北の方が亡くなるという)騒ぎのせいで、しっかりした人をお選びになる余裕もなかったので、身分相応の思慮の浅さから、姫君の幼いときにお見捨て申し上げたので、ただ宮(八の宮)独りだけが姫君をお育てになっていらした。

そうはいっても広く風情のある御邸で、池や築山のけしきだけが昔と変わらずその他はひどく荒廃した様子がまさっているのを、宮(八の宮)は所在のないままに物思いにふけってながめていらっしゃる。家司(職員)などもこれといった人もなかったので、修繕する人もないままに、草が青々と茂り、軒のしのぶ草だけが我が物顔に一面に青々としている。四季折々の花や紅葉の色をも香をも、北の方と同じ気持で鑑賞なさってこそ慰められることも多かったのに、北の方のいらっしゃらない今は、いよいよ寂しく、身を寄せる人もないままに、持仏の御飾ばかりをことさらになさって、明け暮れ仏事のおつとめをしていらっしゃる。

宮(八の宮)は、こうして娘たちの世話をして俗世に未練を引かれることさえも不本意で残念で、自分の気持としては出家したいが、それも叶わなかった運命であったと思われるのに、まして、どうして世間並に今さら再婚などできようかと、年月が経つにつれて世の中を諦めて距離を置きつつ、心ばかりはすっかり聖になってしまわれて、故君(北の方)がお亡くなりになられてからというものは、世間の人のように再婚しようというお気持ちなど冗談にもお思いつきもなさらないのだった。(世間の人)「どうしてそう独り身でいらっしゃるのですか。北の方とお別れになられた時の悲しみは、他に世に比べようもないとばかりお思いになるでしょうが、時間が経てば悲しみも薄まりましょう。やはり世間の人と同じように再婚をお考えになってください。そうすればこんなにもひどく見苦しく、頼りにならない宮の内も、自然とどうにかなりましょう」と、人は宮(八の宮)にご意見申し上げて、あれこれもっともらしく申しあげることも親類縁者の関係で多いのだが、宮(八の宮)は、お聞き入れにならないのだった。

御念誦の合間合間には、この姫君たちをお遊び相手になさり、しだいにご成長なさると、琴を習わせ、碁を打ったり、偏つぎなど他愛もない御遊びごとにつけても、姉妹それぞれのご気性をご覧になるにつけ、姫君(大君)は、洗練されており、思慮深く重々しくお見えになる。若君(中の君)は、おっとりして可憐なようすで、控えめな様子がとても可愛らしいというふうで、姉妹それぞれが別の特性を備えていらっしゃる。

語句

■心もとなかりければ このまま子が生まれずに血筋が絶えてしまうことを心配する。 ■めづらしく 思いがけない幸運なことに。 ■けしきばみ 懐妊の兆候が見えること。 ■男にてもなど 下に「あれかし」を補い読む。 ■同じさまにて 第二子も女宮であった。中の君と通称。 ■いといたくわづらひて 産後の体調不良。 ■いとはしたなく 前も「世の中にはしたなめられ」(【橋姫 01】)とあった。 ■かけとどめらるる 宮ははやくから出家の志があったが北の方に心引き留められて出家に踏み切れなかった。「世の憂き目見えぬ山路へ入らむには思ふ人こそほだしなりけれ」(古今・雑下 物部吉名)。 ■いととすさまじくも 前も「さうざうしくつれづれなる」とあった。 ■独りはぐくみ… 「独り」を繰り返し強調。 ■限りある身 親王という制約の多い身分では男手ひとつで娘二人を育てるといっても限界がある。 ■いとをこがまし 親王が手づから娘の養育に苦労することを世間からばかにされる。 ■思したちて 出家の願いを遂げようとする。 ■見ゆづる人もなくて 自分以外に姫君の世話を頼める人がいない。そのことが出家の障りとなる。 ■御慰めにて 宮にとってかつては北の方が「慰め」であったが、今は娘がそれとなる。 ■をりふし心憂く 中の君の出産によって北の方が亡くなったから。 ■限りのさま 北の方の臨終のようす。 ■いと心苦し 生まれた子の行く末を見届けることができないまま死んでいくことを心苦しく思う。 ■前の世の契り 当時、夫婦の関係は前世からの定めとする見方が一般的だった。 ■思し出でつつ 八の宮は北の方の遺言を思い出して中の君を大切に育てるのである。 ■いたはし いたわりたくなる。 ■かなわぬこと多く 主に経済的困窮から。 ■たづきなき心地するに ここにいても出世の手助けにはならないという感じなので。 ■さる騒ぎ 中の君出産にともない北の方が亡くなった騒ぎ。 ■さすがに広くおもしろき… 今は貧しいとはいえかつては信望のあった親王であるので、というニュアンス。 ■家司 家政をつかさどる職員。四位・五位の者がなる。 ■むねむねしき 宗宗しき。しっかりした。 ■草青やかに 以下、庭園の荒廃したさまを描く。須磨流謫中の源氏に花散里が送った歌「荒れまさる軒のしのぶをながめつつしげくも露のかかる袖かな」(【須磨 14】)、荒廃した末摘花邸の描写「昔に変らぬ御しつつらひのさまなど、忍ぶ草にやつれたる…」(【蓬生 12】)などに類似。 ■色をも香をも 「君ならで誰にか見せむ梅の花色をも香をも知る人ぞ知る」(古今・春上 紀友則)。 ■わが心ながらも 出家したいという自分の心を叶えられない前世からの定め。 ■世の人めいて 再婚など女性関係をいう。 ■世の中を思し離れつつ 「世の中」は男女の関係をいう。 ■心ばかりは 俗体でも心は聖。 ■別るるほどの 北の方と死別した当初。 ■あり経れば 時間が経てば忘れられるの意。 ■世人になずらふ 再婚をすすめる。 ■たづきなき心地 前に「たづきなき心地」のために御邸から人々が去っているとあった。 ■もどききこえて 「もどく」は意見する。批判する。 ■類にふれて 零落した立場とはいえ親王という立場上、縁を結ぼうとする者が多いのだろう。 ■御念誦 心に仏の姿を思い浮かべ口に仏名・経文を唱えること。 ■琴 弦楽器の総称。 ■碁打ち 源氏が紫の上を相手にくつろいでいる場面で類似した描写があった。「つれづれなるままに、ただこなたにて碁打ち、偏つぎなどしつつ日を暮らしたまふに」(【葵 27】)。 ■偏つぎ 漢字の偏に旁《つくり》をつけて漢字を完成させる遊び。

朗読・解説:左大臣光永