【椎本 03】匂宮、姫君に執心 八宮、姫君の行く末を案ずる

もの騒がしくて、思ふままにもえ言ひやらずなりにしを、飽かず宮は思して、しるべなくても御文は常にありけり。宮も、「なほ聞こえたまへ。わざと懸想だちてももてなさじ。なかなか心ときめきにもなりぬべし。いとすきたまへる親王《みこ》なれば、かかる人なむと聞きたまふが、なほもあらぬすさびなめり」と、そそのかしたまふ時々、中の君ぞ聞こえたまふ。姫君は、かやうのこと戯《たはぶ》れにももて離れたまへる御心深さなり。

いつとなく心細き御ありさまに、春のつれづれは、いとど暮らしがたくながめたまふ。ねびまさりたまふ御さま容貌どもいよいよまさり、あらまほしくをかしきも、なかなか心苦しう、かたほにもおはせましかばあたらしう惜しき方《かた》の思ひはうすくやあらまし、など明け暮れ思し乱る。姉君二十五、中の君二十三にぞなりたまひける。

宮は重くつつしみたまふべき年なりけり。もの心細く思して、御行ひ常よりもたゆみなくしたまふ。世に心とどめたまはねば、出立《いでたち》いそぎをのみ思せば、涼しき道にもおもむきたまひぬべきを、ただこの御事どもに、いといとほしく、限りなき御心強さなれど、必ず、今はと見棄てたまはむ御心は乱れなむ、と見たてまつる人も推しはかりきこゆるを。思すさまにはあらずとも、なのめに、さても人聞き口惜しかるまじう、見ゆるされぬべき際《きは》の人の、真心《まごころ》に後見《うしろみ》きこえんなど思ひよりきこゆるあらば、知らず顔にてゆるしてむ、一ところ一ところ世に住みつきたまふよすがあらば、それを見ゆづる方《かた》に慰めおくべきを、さまで深き心にたづねきこゆる人もなし。まれまれはかなきたよりに、すき事聞こえなどする人は、まだ若々しき人の心のすさびに、物詣《ものまうで》での中宿《なかやどり》、往《ゆ》き来《き》のほどのなほざり事に気色ばみかけて、さすがに、かくながめたまふありさまなど推しはかり、侮《あなづ》らはしげにもてなすは、めざましうて、なげの答《いら》へをだにせさせたまはず。三の宮ぞ、なほ見ではやまじ、と思す御心深かりける。さるべきにやおはしけむ。

現代語訳

なんとなく騒がしいので、思うままにも気持ちを伝えることができなかったのを、心残りに宮(匂宮)はお思いになり、八の宮邸から手引がなくても、宮(匂宮)のほうから御手紙は常にあるのだった。宮(八の宮)も、「やはり御返事をなさい。ことさら恋文めいたものとして扱わないようにしましょう。そんなことをすればかえって気持ちをかきたてることにもなってしまうでしょう。たいそう好色な親王なのだから、『こういう娘がいる』とお聞きになれば、じっとしていられず乗り気になってしまうでしょう」と、おすすめになる時々、中の君が御返事をお書きになる。姫君(大君)は、こういうことには、たとえ冗談でも距離をとっていらっしゃるご用心深さであるのだ。

宮(八の宮)は、いつもながら心細いご境遇のうちに、春の所在ない時分は、ますます一日を過ごし難くぼんやりと物思いに沈んで過ごしていらっしゃる。姫君たちがご成長なさっているご様子、ご器量はいよいよすぐれたものになり、好ましく美しいことも、かえって心苦しく、「もしご器量が悪くていらっしゃったら、もったいなく惜しいという物思いも薄らいだろうに」などと明けても暮れてもお思い乱れていらっしゃる。姉君ニ十五、中の君ニ十三におなりであった。

宮(八の宮)は重い厄年にあたっていらっしゃるのであった。なんとなく心細くお思いになって、仏事のお勤めをいつもよりも怠りなくなさる。俗世に心をおとどめではいらっしゃらなく、死出の旅への出立の用意のことばかりをお考えになるので、極楽浄土への道にも赴かれるにちがいないが、ただこの姫君たちの御事をお思いになると、宮(八の宮)はとても愛しく、この上ない御道心の強さではいらっしゃるが、きっと、今が最後と姫君たちをお見棄てになられる時のお気持ちは乱れるであろう、と拝見する人も推量し申し上げているものであるよ。考えている理想的な相手ではなくても、それなりに、そうはいっても外聞が悪くはなく、世間からも認められる程度の身分の人で、真心から姫君たちを後見申し上げようなどと思いを寄せ申し上げる人があれば、見て見ぬふりをしてゆるすことにしよう、姉妹それぞれが世にお住みつきになられる頼りがあれば、その人にお世話をたのむことで安心できるだろうが、それほど深い気持ちで姫君たちを尋ね申し上げる人もない。時々ちょっとした縁で、色めいたことを申し上げなどする人は、まだ若々しい心の戯れに、寺社参詣の途中の宿や、京と大和方面の往来の際のかりそめのこととして色目を使って、いくら宮家とはいっても、こうして零落した田舎ずまいをしていらっしゃる様子などを推しはかり、侮ったように接するのは、目障りで、無いに等しいような答えさえも、八の宮は姫君たちにおさせにならない。三の宮(匂宮)だけは、やはり姫君を妻にせずにはいられない、とお思いになる御気持ちが深いのだった。しかるべき前世からの定めででもいらっしゃるのだろう。

語句

■しるべなくても 「あふみぢをしるべなくてもみてしがな関のこなたはわびしかりけり」(後撰・恋三 源中正)によるか。 ■なほもありぬすさび 匂宮が、じっとしていられず気持をかきたてられてしまうと。 ■春のつれづれ 参考「思ひやれ霞こめたる山里に花待つほどの春のつれづれ」(後拾遺・春上 上東門院中将)。 ■なかなか心苦しう 八の宮は姫君たちが美しいがゆえにかえって今の境遇が惜しく思われ、姫君たちの将来が心配になる。 ■姉君二十五、中の君ニ十三 当時の上層階級の姫君は十五、六歳で結婚するのが普通。姉妹は結婚が遅れている。 ■重くつつしみたまふべき年 『拾芥抄』には当時の厄年は、十三、二十五、三十七、四十九、六十一、八十五、九十九とある。八の宮の場合、六十一が妥当か。 ■もの心細く思して 八の宮は死の近いことを察している。 ■出立いそぎ 死出の旅への出立(【行幸 05】)。 ■涼しき道 極楽浄土への道。 ■御事ども 姉妹を残していくこと。 ■今はと見棄てたまはむ 出家の際とも死に際とも取れる。 ■後見 姫君たちと結婚して夫として世話をすること。 ■住みつきたまふよすが 結婚生活を営むこと。 ■物詣 長谷寺、高野山、金峰山、多武峰、春日などの社寺詣でが盛んだった。 ■往来のほど 宇治は京と大和の中継点。 ■かくながめたまふありさまなど推しはかり 都を離れ零落した暮らしをしているので都人が言い寄れば簡単になびくだろう、などと推量する。

朗読・解説:左大臣光永