【椎本 06】八の宮、訓戒を残して山籠りに出発

秋深くなりゆくままに、宮は、いみじうもの心細くおぼえたまひければ、例の、静かなる所にて念仏をも紛れなうせむと思して、君たちにもさるべきこと聞こえたまふ。「世の事として、つひの別れをのがれぬわざなめれど、思ひ慰まん方ありてこそ、悲しさをもさますものなめれ、また見ゆづる人もなく、心細げなる御ありさまどもをうち棄ててむがいみじきこと。されども、さばかりの事に妨げられて、長き夜の闇にさへまどはむが益《やく》なさを。かつ見たてまつるほどだに思ひ棄つる世を、去りなん後《うしろ》のこと知るべきととにはあらねど、わが身ひとつにあらず、過ぎたまひにし御|面伏《おもてぶせ》に、軽々《かるがる》しき心ども使ひたまふな。おぼろけのよすがならで、人の言《こと》にうちなびき、この山里をあくがれたまふな。ただ、かう人に違《たが》ひたる契りことなる身と思しなして、ここに世を尽くしてんと思ひとりたまへ。ひたぶるに思ひしなせば、事にもあらず過ぎぬる年月なりけり。まして、女は、さる方に絶え籠りて、いちじるくいとほしげなるよそのもどきを負はざらむなんよかるべき」などのたまふ。ともかくも身のならんやうまでは、思しも流されず、ただ、いかにしてか、後《おく》れたてまつりては、世に片時《かたとき》もながらふべきと思すに、かく心細きさまの御あらましごとに、言ふ方なき御心まどひどもになむ。心の中《うち》にこそ思ひ棄てたまひつらめど、明け暮れ御かたはらにならはいたまうて、にはかに別れたまはむは、つらき心ならねど、げに恨めしかるべき御ありさまになむありける。

明日《あす》入りたまはむとての日は、例ならずこなたかなたたたずみ歩《あり》きたまひて見たまふ。いとものはかなく、かりそめの宿《やどり》にて過ぐいたまひける御住まひのありさまを、亡からむ後《のち》、いかにしてかは若き人の絶え籠《こも》りては過ぐいたまはむ、と涙ぐみつつ、念誦《ねんず》したまふさま、いときよげなり。おとなびたる人々召し出でて、「うしろやすく仕うまつれ。何ごとも、もとよりかやすく世に聞こえあるまじき際《きは》の人は、末の衰へも常のことにて、紛れぬべかめり。かかる際になりぬれば、人は何と思はざらめど、口惜しうてさすらへむ、契りかたじけなく、いとほしきことなむ多かるべき。ものさびしく心細き世を経《ふ》るは、例のことなり。生《む》まれたる家のほど、おきてのままにもてなしたらむなむ、聞き耳にも、わが心地にも、過《あやま》ちなくはおぼゆべき。にぎははしく人数《ひとかず》めかむと思ふとも、その心にもかなふまじき世とならば、ゆめゆめ軽々《かろがろ》しくよからぬ方にもてなしきこゆな」などのたまふ。

まだ暁《あかつき》に出でたまふとても、こなたに渡りたまひて、「なからむほど、心細くな思しわびそ。心ばかりはやりて遊びなどはしたまへ。何ごとも思ふにえかなふまじき世を。な思し入れそ」など、かへりみがちにて出でたまひぬ。二《ふた》ところ、いとど心細くもの思ひつづけられて、起き臥しうち語らひつつ、「一人一人なからましかば、いかで明かし暮らさまし。今、行く末も定めなき世にて、もし別るるやうもあらば」など、泣きみ笑ひみ、戯《たはぶ》れ事もまめ事も、同じ心に慰めかはして過ぐしたまふ。

現代語訳

秋が深くなってゆくにつれて、宮(八の宮)はひどく心細くお思いになられたので、例によって、静かな所で念仏をも邪魔の入らないようにして行おうとお思いになられて、姫君たちにも心得ておくべきことを申し上げられる。(八の宮)「世間の常の事として、最期の別れは逃れることができないことのようだが、心を慰める人があってこそ、悲しさも静められるものであろうが、他に後見を頼む人もなく、心細そうな貴女方の御様子を見棄てて行くことがつらいことです。そうはいっても、それだけの事に妨げられて往生できず、長き夜の闇にまでも迷うことになるのもつまらないことであるよ。また、貴女方といっしょにいる現在でさえも俗世のことは断念しているのだから、私が去った後の事は知りようもないことであるが、私の身一つではなく、お亡くなりになられた母君の御手前からいっても、軽々しいお気持ちを起こしなさるな。しっかりした拠り所もないままに、人の言葉になびいて、この山里をお出になってはなりません。ひたすらに、こうして人と違う、前世からの宿縁が異なる身と思うようにして、この場所で生涯を終えようと思うようになさい。ひたすらに思い返してみると、なんという事もなく過ぎてしまった年月であったことだ。まして、女は、そのようにすっかり引きこもって、ひどく人目に立つような陰口を避けるのがよいことなのだろう」などとおっしゃる。姫君たちは、とにもかくにもわが身がどうにかなるまでは、遠い将来まで思い巡らすこともできず、ただ、父宮に先立たれ申して後は、どうやってこの世に片時でも生き長らえることができようかとお思いになると、こうして父宮が心細い様子でご意向を述べられるにつけ、言いようもなく、それぞれ困惑なさるのだった。父宮は心の内でこそお見棄てあそばしたであろうが、明け暮れおそばにいらっしゃることが当然になっていたのが、ここに至り急にお別れになるのは、姫君たちを嫌ってのことではないにしても、実際、恨めしいようなお仕打ちであるのだった。

宮(八の宮)は、明日山寺にお入りになろうという日は、いつもとちがってあちこちお立ち止まりになりながらお回りになって御覧になる。ひどく粗末な造りで、この世での仮の宿としてお過ごしになられたお暮らしだったが、自分が亡くなった後、どうやって若い人(大君と中の君)がすっかり引きこもってお過ごしになるだろう、と涙ぐんでは、念仏読経なさるさまは、実に清らかである。古参の女房たちを召し出して、(八の宮)「姫君によくお仕えして安心できるようにしてさしあげよ。何ごとも、もともと軽々しく、世間に名の聞こえていないような身分の人は、子孫の末が衰えることも常のことで、人目に立つこともないのだろう。しかし我々のような皇族の身分ともなれば、人は何とも思わないだろうが、みじめなありさまで零落してしまうことは、前世からの契りを思うと畏れ多く、いろいろと困ることが多いにちがいない。ものさびしく心細い世を過ごしていくのは、いつものことである。生まれた家の程度、決まりにしたがってふるまっていれば、世間体としても、自分の気持ちとしても、間違いはないと思えるだろう。豊かな暮らしをし、人並みめいたふうになろうと思っても、その思いのままにはいかない世とあっては、けして軽々しく中途半端な相手との縁をお取り持ちしてはならぬ」などとおっしゃる。

まだ暁にご出発にさなるに際しても、こちら(姫君たちのところ)にお渡りになられて、(八の宮)「私が亡くなった後、心細くお悲しみになられますな。せめて気持ちだけは明るく持って、管弦の遊びなどなさい。何ごとも思うようにはかなわない世ですから。思い詰めなさいますな」など、何度も振り返りながらご出発になられた。お二人(大君と中の君)は、いよいよ心細くもの思いをおつづけになり、起きても寝てもお語らいになっては、「二人別々にでもなったら、どうやって明し暮らせばよいのでしょう。今、将来もわからないこの世で、もしお互いに別れることでもあったら」など、泣いたり笑ったり、音楽などの風流方面のことも、生活上の実際的なことも、同じ気持ちで慰めあってお過ごしになる。

語句

■いみどうもの心細く 死の間近であることを自覚している。 ■静かなる所 宇治山の阿闍梨の寺(【橋姫 09】)。 ■念仏 四季の念仏。四季それぞれ七日間籠もる(【同上】)。 ■さるべきこと 死を前にしての訓戒。遺言に近い。 ■長き夜の闇 無明長夜の闇。今生に執着心を残して死んだ者は死後も長夜の闇に迷うという。 ■かつ見たてまつる これまで姫君たちを世話してきたこと。 ■過ぎたまひにし 亡くなった姫君たちの母のこと。 ■軽々しき心ども使ひたまふな つまらない相手と結婚するなの意。 ■おぼろけの この「おぼろけ」は「おぼろけならず」の意。 ■よそのもどき 世間からの非難。 ■思しも流されず 将来まで考えることができないの意か。 ■御あらましごと 死を前にしての訓戒。 ■つらき心ならねど 八の宮が姫君たちを嫌ったとか冷たい気持からのことではないにしても。 ■かりそめの宿 宇治の八の宮邸の意と、仏教でいうこの世を仮の宿とする考えをかける。 ■世に聞こえあるまじき際の人 世間に知られていない人。貴族以外。八の宮は脱俗しているようで最期の訓戒は俗そのものである。だがそこに八の宮の人間らしい親心が見て取れる。 ■かかる際 自分たちのような皇族の身分。 ■契りかたじけなく 皇族として生まれてきた前世からの宿縁に対して申し訳ない気持ち。 ■おきて 家格に応じた決まり事。 ■聞き耳 世間体。八の宮が気にしているほど世間はこの一家のことを気にしていないと思うが…。 ■にぎははしく 家が栄えるさま。 ■よからぬ方 普通程度の結婚相手。それではだめだと。 ■心細くな思しわびそ 参籠中のこと言うが暗に自分の死後のこともふくめて言う。 ■心ばかりはやりて 身は自由にならずともせめて心は慰めて。音楽はこの一家の最大の楽しみであった。 ■一人一人ならましかば 離れ離れになってしまった。参考「思ふどちひとりびとりが恋ひ死なば誰によそへて藤衣きむ」(古今・恋三 読人しらず)。 ■もし別るるやうもあらば 姉妹の死別が近いことを予兆。次の総角巻で大君は死ぬ。 ■戯れ事 音楽・歌など風流面のこと。 ■まめ事 主に経済上・生活上のこと。

朗読・解説:左大臣光永