【椎本 08】薫の悲嘆と弔問 姫君たち、悲しみに沈む

中納言殿には聞きたまひて、いとあへなく口惜しく、いま一《ひと》たび心のどかにて聞こゆべかりけること多う残りたる心地して、おほかた世のありさま思ひつづけられて、いみじう泣いたまふ。「またあひ見ること難《かた》くや」などのたまひしを、なほ常の御心にも、朝夕の隔て知らぬ世のはかなさを人よりけに思ひたまへりしかば、耳馴れて、昨日今日と思はざりけるを、かへすがへす飽かず悲しく思さる。阿闍梨のもとにも、君たちの御とぶらひも、こまやかに聞こえたまふ。かかる御とぶらひなど、また訪れきこゆる人だになき御ありさまなるは、ものおぼえぬ御心地どもにも、年ごろの御心ばへのあはれなめりしなどをも、思ひ知りたまふ。世の常のほどの別れだに、さし当りては、またたぐひなきやうにのみ皆人《みなひと》の思ひまどふものなめるを、慰む方なげなる御身どもにて、いかやうなる心地どもしたまふらむと思しやりつつ、後《のち》の御わざなど、あるべき事ども推しはかりて、阿闍梨にもとぶらひたまふ。ここにも、老人《おいびと》どもにことよせて、御|誦経《ずきやう》などのことも、思ひやりきこえたまふ。

明けぬ夜の心地ながら、九月にもなりぬ。野山のけしき、まして袖の時雨《しぐれ》をもよほしがちに、ともすればあらそひ落つる木《こ》の葉の音も、水の響きも、涙の滝もひとつもののやうにくれまどひて、かうては、いかでか限りあらむ御命もしばしめぐらひたまはむ、とさぶらふ人々は心細く、いみじく慰めきこえつつ思ひまどふ。ここにも念仏の僧さぶらひて、おはしましし方は、仏を形見に見たてまつりつつ、時々参り仕うまつりし人々の、御|忌《いみ》に籠りたるかぎりは、あはれに行ひて過ぐす。

現代語訳

中納言殿(薫)は八の宮がお亡くなりになったことをお聞きになられて、ひどくあっけないことに思えて残念で、もう一度ゆっくりとお話し申し上げるべきだったことが多く残っている気がして、いったいに世の無常であることが思い続けられて、ひどくお泣きになる。(八の宮)「またお会いすることは難しいかもしれません」などおっしゃっていたが、中納言殿(薫)は、ふだんの御気持ちとしても、朝夕の隔てもあてにならない世のはかなさを人より強く実感していらした方であるから、いつもの御言葉と聞いていて、まさき昨日今日お亡くなりになろうとは思わなかったと、返す返すも名残惜しく、悲しくお思いになる。阿闍梨のもとにも、姫君たちのお見舞いにも、こまやかにお世話申し上げなさる。こうした御見舞など、ほかにご訪問申し上げる人さえないご様子であるようなので、姫君たちは、茫然自失としたお気持ちの中にも、長年にわたる中納言殿(薫)の御心遣いの深かったらしいことなどをも、ご実感なさる。(薫)「世間のふつうの死別でさえも、実際に直面すると、他に例のないように誰もひどく困惑するようであるのに、この姫君たちは慰める人もないような御身であられるので、どのようなお気持ちでいらっしゃるだろう」と中納言殿(薫)はお思い巡らしつつ、死別後の御法事など、やらなければならない多くの事を推量して、阿闍梨にもお見舞い申し上げられる。姫君たちのもとへも、古参の女房たちへの連絡にかこつけて、御誦経のお布施などのことも、気を遣ってお見舞い申し上げられる。

長い夜が明けないような心地ではあるが、九月になった。野山のけしきは、以前にもまして涙をさそうかのように時雨が降っていて、どうかすると競い合うように落ちる木の葉の音も、水の響きも、涙の滝もひとつのように目の前が真っ暗になったように困惑して、(女房)「姫君たちがここまでお嘆きになられるのでは、どうやって限るある御命も、ほんの少しの間でもお長らえになられるだろう」と、お仕えしている女房たちは心細く、姫君たちを熱心にお慰め申し上げては困惑している。ここ(八の宮邸)にも念仏僧がお仕えしていて、宮(八の宮)が生前住んでいらしたお部屋は、仏像を宮(八の宮)の形見として拝見しつつ、事あるごとに参って宮にお仕え申し上げていた人々で、中陰(四十九日)の御忌に籠もっている人はすべて、深く心をこめて仏事の行いをして過ごしている。

語句

■あへなく 薫はつい一ヶ月前に八の宮と対面して「相撲など、…さぶらはむ」(【椎本 04】)と約束していた。 ■世のありさま 世が無常であること。 ■またあひ見ること難くや 「かかる対面もこのたびや限りならむ」(【同上】)。 ■朝夕の隔て 「朝《あした》に紅顔アツテ世路ニ誇レドモ暮《ゆうべ》ニ白骨トナツテ郊原ニ朽チヌ」(和漢朗詠集・無常 藤原義孝)などによる表現。 昨日今日と思はざりけるを 「つひにゆく道とはかねて聞きしかど昨日今日とは思はざりしを」(古今・哀傷 業平、伊勢物語百二十五段)。 ■年ごろの御心ばへ 三年ほど前からの薫の八の宮家への親切。 ■世の常のほど 世間の普通の死別。それにもまして姫君たちは八の宮の他に頼る者がないから、いっそう困惑すると。 ■後の御わざ 死別後の法事。主に四十九日の法事。 ■とぶらひたまふ 法事に必要な費用などを送り届けることをふくめていう。 ■老人どもにことよせて 老女房たちに与えるという形式で、その実姫君たちのためにやっている。 ■御誦経などのこと 御読経に対するお布施のこと。 ■明けぬ夜の心地 無明長夜の心地。 ■袖の時雨をもよほしがちに 袖の時雨(涙)をさそいがちに。 ■木の葉の音も… 木の葉の落ちる音、水の響き、滝の音に姫君たちの悲しみの涙を重ね合わせる。印象的な表現。 ■おはしましし居間 八の宮の居間。 ■御忌 四十九日(中陰)。この間屋内にこもって故人の冥福を祈る。

朗読・解説:左大臣光永