【椎本 09】匂宮よりの文 大君、返歌するも慎重な態度をたもつ
兵部卿宮よりも、たびたびとぶらひきこえたまふ。さやうの御返りなど、聞こえん心地もしたまはず。おぼつかなければ、中納言にはかうもあらざなるを、我をばなほ思ひ放ちたまへるなめり、と恨めしく思す。紅葉の盛りに、文《ふみ》など作らせたまはむとて、出で立ちたまひしを、かくこのわたりの御|逍遥《せうえう》、便《びん》なきころなれば、思しとまりて口惜しくなん。 御|忌《いみ》もはてぬ。限りあれば涙も隙《ひま》もや、と思しやりて、いと多く書きつづけたまへり。時雨《しぐれ》がちなる夕つ方、
「をじか鳴く秋の山里いかならむ小萩がつゆのかかる夕ぐれ
ただ今の空のけしきを、思し知らぬ顔ならむも、あまり心づきなくこそあるべけれ。枯れゆく野辺もわきてながめらるるころになむ」などあり。「げに、いとあまり思ひ知らぬやうにて、たびたびになりぬるを、なほ聞こえたまへ」など、中の宮を、例の、そそのかして、書かせたてまつりたまふ。今日《けふ》までながらへて、硯など近く引き寄せて見るべき物とやは思ひし、心憂くも過ぎにける日数《ひかず》かな、と思すに、またかき曇り、もの見えぬ心地したまへば、押しやりて、「なほえこそ書きはべるまじけれ。やうやうかう起きゐられなどしはべるが、げに限りありけるにこそ、とおぼゆるも、うとましう心憂くて」と、らうたげなるさまに泣きしをれておはするもいと心苦し。
夕暮のほどより来ける御使宵すこし過ぎてぞ来たる。「いかでか、帰りまゐらん、今宵は旅寝して」と言はせたまへど、「たち返りこそ参りなめ」と急げば、いとほしうて、我さかしう思ひしづめたまふにはあらねど、見わづらひたまひて、
なみだのみ霧《き》りふたがれる山里はまがきにしかぞもろ声になく
黒き紙に、夜の墨つぎもたどたどしければ、ひきつくろふところもなく、筆にまかせて、押し包みて出だしたまひつ。
御使は、木幡《こはた》の山のほども、雨もよにいと恐ろしげなれど、さやうのもの怖《お》ぢすまじきをや選《え》り出でたまひけむ、むつかしげなる笹の隈を、駒ひきとどむるほどもなくうち早めて、片時に参り着きぬ。御前《おまへ》にても、いたく濡れて参りたれば、禄賜ふ。さきざき御覧ぜしにはあらぬ手の、いますこしおとなびまさりて、よしづきたる書きざまなどを、いづれかいづれならむ、とうちも置かず御覧じつつ、とみにも大殿籠らねば、「待つとて起きおはしまし、また御覧ずるほどの久しきは、いかばかり御心にしむことならん」と、御前なる人々ささめききこえて、憎みきこゆ。ねぶたければなめり。
まだ朝霧深きあしたに、急ぎ起きて奉りたまふ。
「朝霧に友まどはせる鹿の音《ね》をおほかたにやはあはれとも聞く
もろ声は劣るまじくこそ」とあれど、あまり情だたんもうるさし。一《ひと》ところの御蔭に隠ろへたるを頼みどころにてこそ、何ごとも心やすくて過ぐしつれ、心より外《ほか》にながらへて、思はずなる事の紛れつゆにてもあらば、うしろめたげにのみ思しおくめりし亡き御|魂《たま》にさへ瑕《きず》やつけたてまつらん」と、なべていとつつましう恐ろしうて聞こえたまはず。この宮などをば、軽《かろ》らかに、おしなべてのさまにも思ひきこえたまはず。なげの走り書いたまへる御筆づかひ言の葉も、をかしきさまになまめきたまへる御けはひを、あまたは見知りたまはねど、これこそはめでたきなめれ、と見たまひながら、そのゆゑゆゑしく情ある方に言《こと》をまぜきこえむもつきなき身のありさまどもなれば、何か、ただかかる山伏だちて過ぐしてむ、と思す。
現代語訳
兵部卿宮(匂宮)からも、たびたびお見舞い申し上げられる。しかし姫君たちは、そうした御返事など申し上げるご気分にもなられない。様子がわからないので、(匂宮)「中納言(薫)に対してはこんなに冷淡でもないと聞くのに、やはり私のことを見くびっておられるようだ」と恨めしくお思いになる。紅葉の盛りに、人々に詩文などを作らせようとお思いになってご出発なさったが、このように宇治のあたりをぶらぶらとお歩きになるにはまずい時期なので、断念なさって、口惜しくお思いになっていらっしゃる。
宮(八の宮)の御忌も終わった。御忌の作法には決まりがあることなので、涙の乾く間もあろうか、とお思いやりになられて、たいそう長々とお書きつづけなさる。時雨がちの夕方、
(匂宮)「をじか鳴く……
(牡鹿の鳴く秋の山里の風情はどんなでございましょう。小萩の露が降りかかる…貴女方ご姉妹が涙に暮れていらっしゃる、このような夕暮れ時は)
ただ今の空の風情を、知らぬ顔でいらっしゃるのも、あまりに素っ気ないようですよ。日に日に枯れゆく野辺も格別に眺められて物思いにふけりがちな季節ですから」などと書いてある。(大君)「実際、あまりにも風情を解さないようにふるまって、何度かお手紙を怠りましたから、今回はやはり御返事を差し上げなさい」など、大君は、中の宮(中の君)に、例によって御返事を書くようにすすめて、お書かせ申し上げられる。中の君は、「今日まで長らえて、硯などを近くにひき寄せて見ることはあるまいと思っていたのに、心憂くも過ぎてしまった日数であるよ」とお思いになられるにつけ、また涙に目の前が曇って、ものも見えない気がなさるので、御文を押しやって、(中の君)「やはり書くことはできません。ようやくこうして起きていられるようにはなりましたのが、やはり悲しみにも限りがあったのだと思われるにつけても、うとましく情けないことで」と、痛々しい様子で泣きしおれていらっしゃるのも、ひどくおいたわしい。
夕暮れの頃から京を出発した御使が宵を少し過ぎてから八の宮邸に到着した。(大君)「今夜中に帰参はできますまい。今宵は旅寝なさっては」と人を介して言わせなさるが、(使)「ならば一度もどって折返し参上いたします」と急ぐので、気の毒で、大君はご自分も冷静に落ち着いていらっしゃるわけではないが、見るに見かねなさって、
(大君)なみだのみ……
(涙ばかりで霧に閉じ込められている山里では、垣根のもとで鹿が鳴くように、こうして姉妹いっしょに喪に服して泣いております)
黒い紙に、夜の筆運びもおぼつかなかったので、とりつくろいようもなく、筆の動くままに、礼紙に包んで御返事をお出しになる。
御使は、木幡の山のあたりも、雨も実にたいそう恐ろしげに降っていたが、そのようなことに物怖じしないような者を使者として選び出されたのだろうか、気味の悪そうな笹の生い茂った山道を、馬をひきとどめる間もないほどに早く走らせて、あっという間に帰参した。宮(匂宮)の御前にも、ひどく濡れたまま参ったので、禄を賜った。以前何度も御覧になったものではない手跡で、それらよりはもうすこし大人びていて、たしなみ深い書きようなのを、宮(匂宮)は、どちらがどちらの手跡だろう、と下に手紙を置きもせずに御覧になっては、すぐにはお休みにならないので、(女房)「返事を待つといって起きていらしたが、また手紙を御覧になる時間の長いことを見ると、たいそう先方さまに対して御執心なのでしょう」と、御前にお仕えしている女房たちはひそひそと言い合って、憎らしくお思い申し上げる。眠たいからだろう。
まだ朝霧が深い朝に、急いで起きてご返事を差し上げられる。
(匂宮)「朝霧に……
(朝霧の中、つれを見失って鳴いている鹿の声を、私が他人事として聞いているとでもお思いでしょうか)
一緒に鳴いていることでは私とて貴女方姉妹と同じですよ」と書いてあるが、(大君)「あまり風情がわかるように書くのも、後がわずらわしい。父宮お一人のご庇護の下に養われていたことに頼りきって、私たち姉妹は何ごとも安心して過ごしてきたのに、心外なことにも父宮が亡くなった後に生きながらえて、予想外の不祥事が少しでも起これば、あの世で私たち姉妹のことを気がかりとばかり思っていらっしゃるでしょう亡き御魂にまでも傷をおつけ申し上げることにもなりましょう」と、いったいにひどく遠慮がちに、恐ろしくて御返事を申し上げられない。大君は、この宮(匂宮)などを、軽薄に、世間並みの好色な方だと存じ上げていらっしゃるわけではない。なんということもなく走り書いていらっしゃる御筆づかいも言葉も、風情があるようすで、優美でいらっしゃるご様子を、大君はこうした御文というものを多く見知っていらっしゃるわけではないが、この手紙の書き主こそは立派な方だろうと御覧になりながら、その由緒深く情けあるむきに対して何か申し上げるのも、不相応な自分たち姉妹の身分なので、「仕方がないではないか。ただもうこうして山伏のように山籠りして生涯を過ごそう」とお思いになる。
語句
■さやうの御返り これまでも姫君は匂宮と文通していたがそう深刻な恋文めいたものではなかった(【椎本 05】)。 ■紅葉の盛りに 前に「この秋のほどに紅葉見におはしまさむと、さるべきついでを思しめぐらす」(【同上】)とあった。 ■出で立ちたまひしを 宇治以外の場所に出かけたが、宇治に立ち寄ることははばかられたの意か。 ■御忌もはてぬ 四十九日が終わるのは十月のはずで、季節があわない。この「御忌」は三十日の禊のことをさすか。 ■いと多く 恋情を長々と書き綴った。相手の状況も考えない無粋さが見える。 ■をじか鳴く… 「小萩」に「子」をかける。「萩がつゆ」は涙に濡れていること。「かかる」は「つゆのかかる」と「かかる夕暮れ」と上下にかかる。 ■思ひ知らぬようにて 匂宮の手紙の「思し知らぬ顔ならむも…」を受ける。 ■中の宮 中の君のこと。八の宮の死を境に宮と呼称することはやや不審。 ■硯など近くひき寄せて見るべき物とやは… 父宮亡き後の悲しみを思うと、手紙を書くことなどとても考えられない。それどころではない。 ■心憂くも過ぎにける日数かな 日数が経つにつれて悲しみが薄らぐのが父宮に対して申し訳ないように、中の君は感じている。 ■今宵は旅寝して 使者に対して今夜は宇治に泊まって明日帰参するようにすすめる。手紙を書く時間的余裕を確保する意図もある。 ■たち返りこそ参りなめ 今夜返事がないなら一度京にもどりふたたび宇治にこようと。さっさと書けと暗に促す。 ■我さかしう思ひしづめたまふにはあらねど 大君も中の君と同様悲しみに沈んでいるのだがの意。 ■なみだのみ… 「しか」は「然か」と「鹿」をかける。もろ声 互いに合わせて鳴く声。本来は牡鹿と牝鹿の「もろ声」だがここでは姉妹の泣き声をいう。 ■黒き紙 喪中のため鈍色の紙を使う。 ■押し包みて 手紙を白い礼紙に包んで。 ■木幡 宇治と京の間の木幡の東方の山地。または桃山か。 ■笹の隈 「ささの隈檜の隈川に駒とめてしばし水かへ影をだに見む」(古今・神遊びの歌)による。ここでは木幡山あたりの笹の生えた山道のことか。 ■片時 一時は約二時間。片時はその半分。ここではあっという間にの意。 ■さきざき御覧ぜし 匂宮の手紙には中の君がこれまで返事を書いていた。「中の君ぞ聞こえたまふ」(【椎本 03】)。今回は大君が返事を書いたので筆跡がちがう。 ■いづれかいづれならむ どちらが姉の筆跡でどちらが妹の筆跡か。 ■朝霧に… 参考「声たててなきぞしぬべき朝霧に友まどはせる鹿にはあらねど」(後撰・秋下 紀友則)。 ■もろ声は劣るまじく 大君の歌の「もろ声になく」を受けて、自分だってもろ声にないていることでは私とて同じですとアピール。 ■情だたん 情緒や風情を解する態度をとること。 ■事の紛れ 不祥事。色恋沙汰をさか。 ■おしなべてのさま 世間によくある男性のような好色な性質。 ■あまたは見知りたまはねど 艷書を。 ■つきなき身 今上帝の第三皇子である匂宮に対しては姉妹の立場はあまりに低い。 ■山伏だちて 父宮の遺言に「この山里をあくがれたまふな」(【椎本 06】)とあった。