【椎本 10】薫、宇治を訪れ大君と歌を詠み交わす

中納言殿の御返りばかりは、かれよりもまめやかなるさまに聞こえたまへば、これよりもいとけうとげにはあらず聞こえ通ひたまふ。御|忌《いみ》はてても、みづから参うでたまへり。東《ひむがし》の廂《ひさし》の下《くだ》りたる方にやつれておはするに、近う立ち寄りたまひて、古人《ふるびと》召し出でたり。闇にまどひたまへる御あたりに、いとまばゆくにほひ満ちて入りおはしたれば、かたはらいたうて、御|答《いら》へなどをだにえしたまはねば、「かやうにはもてないたまはで、昔の御心むけに従ひきこえたまはんさまならむこそ、聞こえ承るかひあるべけれ。なよび気色ばみたるふるまひをならひはべらねば、人づてに聞こえはべるは、言の葉もつづきはべらず」とあれば、「あさましう、今までながらへはべるやうなれど、思ひさまさん方なき夢にたどられはべりてなむ、心より外《ほか》に空の光見はべらむもつつましうて、端《はし》近うもえ身じろきはべらぬ」と聞こえたまへれば、「事といへば、限りなき御心の深さになむ。月日の影は、御心もてはればれしくもて出でさせたまはばこそ、罪もはべらめ。行く方《かた》もなく、いぶせうおぼえはべり。また思さるらむはしばしをも、明らめきこえまほしくなむ」と申したまへば、「げにこそ、いとたぐひなげなめる御ありさまを慰めきこえたまふ御心ばへの浅からぬほど」など人々聞こえ知らす。

御心地にも、さこそいへ、やうやう心静まりて、よろづ思ひ知られたまへば、昔ざまにても、かうまで遥けき野辺をわけ入りたまへる心ざしなども思ひ知りたまふべし、すこしゐざり寄りたまへり。思すらんさま、またのたまひ契りしことなど、いとこまやかになつかしう言ひて、うたて男《を》々しきけはひなどは見えたまはぬ人なれば、けうとくすずろはしくなどはあらねど、知らぬ人にかく声を聞かせたてまつり、すずろに頼み顔なることなどもありつる日ごろを思ひつづくるもさすがに苦しうて、つつましけれど、ほのかに一言《ひとこと》など答《いら》へきこえたまふさまの、げによろづ思ひほれたまへるけはひなれば、いとあはれと聞きたてまつりたまふ。黒き几帳の透影《すきかげ》のいと心苦しげなるに、ましておはすらんさま、ほの見し明けぐれなど思ひ出でられて、

色かはる浅茅《あさぢ》を見ても墨染にやつるる袖を思ひこそやれ

と、独《ひと》り言《ごと》のやうにのたまへば、

「色かはる袖をばつゆのやどりにてわが身ぞさらにおきどころなき

はつるる糸は」と末は言ひ消《け》ちて、いといみじく忍びがたきけはひにて入りたまひぬなり。

現代語訳

大君は、中納言殿(薫)への御返事だけは、あちら(薫)からもこまごまとした様子に申し上げられるので、こちら(大君)からもひどく疎遠にはならず文通していらっしゃる。八の宮の御忌が終わってからも、中納言殿(薫)はみずから参られる。姫君たちが東の廂の間の一段低くしているところで喪に服していらっしゃると、中納言殿(薫)は近くお立ち寄りになって、古参の女房(弁など)を召し出す。闇に迷っているところに、たいそうまばゆく色づいた匂いが満ちて入っていらっしゃるので、大君は恐縮して、御答えなどさえもおできならないので、(薫)「このように大仰なお扱いをなさるのではなく、父宮さまとの昔からのご愛顧のままにしてくださればこそ、お見舞い申し上げ、そちらのお話をうかがう甲斐もあるというものでしょう。私は浮ついた色めいたふるまいなどは馴れておりませんので、間に人を介して申し上げますのでは、うまく言葉もつづきません」と書いてあるので、(大君)「呆れたことに、今まで長らえているようでございますが、父宮がお亡くなりになられた後の衝撃を冷ましようもなく夢の中をさまよっております有様で、そこに心外なことに空の光を見ることは気が引けまして、部屋の端に出ていくこともできかねます」と申し上げられると、(薫)「何をおっしゃるかと思えば、限りもない御慎み深さですね。月日の光については、ご自身から晴れ晴れしい態度を表に出されたらばこそ罪もございましょうが、まさかこの場合は…。私は身の持っていきどころもなく、気が晴れないと感じております。また貴女がの御心の内の端々もうかがって、気が晴れるようにしてさしあげたいのです」と申し上げられるので、(女房たち)「なるほど、大君がひどく類なく悲しそうな様子でいらっしゃるのを、中納言殿(薫)が慰め申し上げられる、そのお心遣いの深いこと」など女房たちは大君にご報告申し上げる。

大君のお心としても、いくら悲しいとはいっても、しだいに気持ちが落ち着いてきて、万事中納言殿(薫)のご誠意がおわかりになってみると、昔からの父宮とのご交際があるとはいえ、こうして遥かな野辺を分け入って訪ねてこられるご誠意なども大君はわかっていらっしゃるらしく、すこし部屋の端にいざり寄ってこられた。中納言殿(薫)は姫君のご心中について、また父宮(八の宮)と中納言殿との間で姫君たちの将来についてお約束されたことなど、とても細々と優しくお話なさって、いやな、粗暴なかんじなどはお見えにならない方であるので、大君も疎遠に、親しみが持てないというわけではないけれど、知らない男性にこうして声をお聞かせ申し上げ、それとなく頼みにしているようなそぶりまで見せることなどもあったここ数日を思いつづけると、かえって心苦しくて、気が引けるが、大君がほんの少し一言などお答え申し上げられる、そのようすが、なるほど万事ぼんやりしていらっしゃるようすなので、中納言殿(薫)はしみじみとおいたわしく存じ上げられる。中納言殿(薫)は、黒い几帳を透かして見える大君の姿がひどく心苦しげであるので、なおさらのこと、普段どうしてお過ごしになっていらっしゃるのだろうかと想像され、以前ほのかに垣間見た明け暮れなどもお思い出されて、

(薫)色かはる……

(色褪せていく浅茅を見るにつけ、貴女が墨染に袖をやつしてお過ごしでいらっしゃることを想像してしまいます)

と、独り言のようにおっしゃると、

(大君)「鈍色にかわった袖に露は宿っていますが、私にははまったく身の置き所もありません」

ほつれる糸は」と終わりのほうは言葉が消えてしまい、ひどく悲しく忍びがたい有様で奥へお入りになったようである。

語句

■けうとげ 「気疎し」は親しみにくい。なじまない。うとましい。 ■四十九日が終わるのは十月のはずで、季節があわない。この「御忌」は三十日の禊のことをさすか。 ■東の廂の下りたる方 服喪中は床を一段低くして土殿とする。 ■やつれて 服喪忠中であるため。 ■闇にまどひたまへる御あたり 姫君たちが服喪中であること。 ■昔の御心むけ 薫が以前から八の宮と懇意にしてきたこと。 ■思ひさまさん方なき夢 父宮が亡くなった衝撃でいまだに夢の中にいるような心地がする。 ■心より外に空の光見はべらむ 服喪中は月日の光さえ見ないことが好ましいとされた。姉妹はそれを忠実に実行しているらしい。 ■端近うも… 薫と話をするために部屋の端近くに寄ると月日の光を見てしまうおそれがある。 ■月日の光は… 月日の光にも自分から向かったならともかく、月日の光のほうから照らすのだから貴女に罪はないという理屈。 ■明らめきこえまほしく 話をすれば気分が晴れると、すすめている。 ■昔ざまにても いくら昔からの八の宮との交誼があるとはいっても、それを考えに入れても薫の親切は深いことだと。 ■のたまひ契りしこと 八の宮と薫の間で姫君たちの将来について約束したこと(【椎本 04】)。 ■男々しきけはい ここでは粗暴でがさつであること。 ■すずろはしく なんとなく親しみが持てないさま。 ■黒き几帳の 喪中なので几帳の帷子も鈍色。 ■透影 几帳の向こうに大君の姿が透けて見える。 ■ほの見し明けぐれ →【橋姫 10】。ただし薫は姫君たちの姿を月下に垣間見たのであり、「明け暮れ」ではない。 ■色かはる… 晩秋、枯れ草色に変わる浅茅。 ■色かはる 露が袖を置き所としている=涙に袖が濡れている。「置く」は「露」の縁語。 ■はつるる糸は 「藤衣はつるる糸はわび人の涙の玉の緒とぞなりける」(古今・哀傷 忠峯)。 ■たまひぬなり 薫は御簾ごしに大君の動きを感じる。だから推量の「なり」。

朗読・解説:左大臣光永