【源氏物語】現代語訳をつくってます【経過報告3】
『源氏物語』の現代語訳をつくっています。第九帖「葵(あふひ)」に入りました。今日はその途中報告みたいなものです。
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★修正★
(誤)前東宮は桐壺帝の兄で、桐壺帝即位前に東宮だった
(正)前東宮は桐壺帝の弟で、朱雀帝即位前に東宮だった
以前の配信
『源氏物語』の現代語訳つくってます 1
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『源氏物語』の現代語訳つくってます 2
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六条御息所について
「葵」の帖は光源氏の正妻・葵の上と、愛人である六条御息所(ろくじょうのみやすどころ)を中心とした物語が描かれます。
六条御息所が、とにかく暗いです。重いです。ひたすら物思いに物思いを重ね、読んでるほうまでぐわーーっと、暗黒宇宙のはざまにひきずりこまれそうになります。
六条御息所が登場しただけで、空気が重くなり、鬱陶しくなります。
『源氏物語』の文章は、ただでさえクドく、しつこく、読みづらく、主語も目的語も省略されているので、大方なに言ってるかわからない、読むのにとても骨が折れる、暗号のような、難解で、晦渋な文章ですが、
その、もともとの文章の読みにくさに加えて、六条御息所がメインとなる場面では、さらにクドく、しつこく、読みづらく、粘着質をきわめ、暗黒宇宙のはざまにひきずりこまれるような感があります。
六条御息所は、物語のかなり初期から、六条にお忍びで通っている女性がいらっしゃるということだけは匂わせてあるんですが、
光源氏が、なぜかその、六条の御方から逃げ続けている。
関係を絶ちたくまではないけれど、かといって親密の度をふかめたくはないというふうで、距離を置き続けているさまが物語のかなり初期の頃から繰り返し描かれます。
そしていざ、六条御息所が実際に登場すると、このおばちゃんが、ほんっっとうに鬱陶しい。
前東宮の后、ということですから、物語中ではじめに帝位についている桐壺帝が即位する前に東宮(皇太子)であった方、おそらく桐壷帝の兄でしょう、その方が即位しないまま亡くなったので、桐壺帝が天皇の位についたという設定です。
※前東宮の后=朱雀帝が東宮であったよりも前に東宮であった方。おそらく桐壺帝の弟。この「前東宮」が即位前に亡くなつたため、桐壺帝の子が東宮となり、後に朱雀帝として即位しました。
その前東宮という方は物語中には登場しないですが、その前東宮の后で、未亡人になっている女性が六条御息所です。
とにかく鬱々と考え込む、これ以上の物思いはないというくらいに物思いを重ねる女性です。
光源氏と交際して、恋仲になっているんだけれど、
「あの人は私を見てくれない!」
「正妻の葵の上さまがいらして、そちらにばかりお気持ちが向いておられる、口惜しい!」
と、ひたすら思いつめていく…
ひたすらの物思い
物思いに物思いを重ねたはてに、疲れ切って、もうどうせあの人は私には気持ちがないんだから、
きっぱりと断ち切って、伊勢に下ろうということになります。
自分の娘が伊勢の斎宮に占いで選ばれたのに乗じて、自分自身も伊勢に下ろうと決意しますが、
でも、そうはいっても未練がある。
都のきらびやかな生活も、光源氏も、あきらめきれない。
「もうあの人のことはあきらめるわ」と心を決めても、うまいタイミングで、光源氏がいたわりの歌を、ホロッとさせるような歌を、贈ってくるので、
そこでまた、ほだされて、やっぱり離れられないと…
そんなグダグダした六条御息所の心理描写が延々と続きます。
『源氏物語』のもともとの冗長な、読みにくい文書とあいまって、読んでいると、気持ちが重くなり暗くなり、胃にもたれます。
六条御息所の鬱々とした思いは、ついに生霊となってさまよい出て、葵の上を取り殺すわけですが、
訳していると、こっちまで六条御息所の怨霊にたたられて、ダメージをくらいそうな…並々ならぬ怨念といいますか…
六条御息所というキャラクターは、作者自身を色濃く投影していると、私は思うんですね。あまりにも内にこもって、考えすぎてしまうあたりが。
一方、紫の上や明石の君といった、前向きで、芯のしっかりした女性像というのは、たぶん作者が思うところの理想の女性像なんじゃないかと。
このようにありたかった。でも私にはできない…だからこそ物語世界で理想を描くのだという、そういうことだったんじゃないかと。
六条御息所はずーーと物語の後半まで、生霊となって、死んだあとは死霊となって、光源氏に近づく女性を次々と呪いつづけます。
『源氏物語』という作品全体を、六条御息所というドス黒い闇がおおっているようで、とても胃にもたれます。
こんなにもしつこく、ドロドロした、怨念の深いキャラクターを、よくも創作したものだと、感心します。
貴族はヒマ
だいたい貴族はヒマですからね。
いったん物思いにふけりはじめると、どこまでも出口の見えない暗黒世界におちこんでいくわけですよ。
中にも六条御息所の立場は、「いつ訪れるかわからない源氏の君をひたすら待ちつづける」、それしかできない立場です。
そりゃあストレスがたまります。
やはり社会に出て、人と関わることは大事だなと、つくづく思わされます。
そうでなくても、掃除をするとか、料理をするとか。
家の中の小さなことでもいいから、何かやってるほうが気がまぎれますよ。
労働しなくていいい立場だとしても、ほんとに何もしないで、ひたすら待っていて…あの人の気持ちがこちらに向かない、なぜ私に振り返ってくれないのと、そんなことばかり考えてるのは不健康のきわみです。
やはり人間にとって労働とか、外に出て人と関わるというのは、大切なんだなと、
六条御息所のゆがんだ人間性を通して、現代に生きる我々にあらためて気付かせてくれる、『源氏物語』は、すばらしい作品です。
車争ひ
「車争ひ」のくだりです。
桐壺帝が譲位して、あたらしい天皇(朱雀帝)の御代になったのにともない、伊勢の斎宮があたらしく占いで選ばれ(六条御息所の娘=秋好中宮)、賀茂の斎院も同じく占いで選ばれます(女三の宮)。
伊勢の斎宮は、伊勢神宮にお仕えする皇室の未婚の女子で、賀茂の斎院は、賀茂神社(下鴨神社・上賀茂神社)にお仕えする皇室の未婚の女子です。天皇が代がわりすると占いによって新しい斎宮・斎院がえらばれました。
さて新しい賀茂の斎院がえらばれると、旧暦四月の葵祭にさきがけ、賀茂河原で禊が行われます。禊に伴う神幸行列は京の人々の楽しみな見物でした。
六条御息所は、光源氏の気持ちが自分に向いていないことに悩み、物思いにふけっていたところで、せめての気晴らしにと、行列を見に出かけました。
さて六条御息所の車が、いい場所をとって行列が通るのを待っていると、そこに葵の上方の車が通りかかります。
六条御息所方はそしらぬ風にしていましたが、葵の上方は、それと気づき、酒に酔ってもいるので、
あれは御息所の車ではないか。
なんの愛人風情が。こっちは正妻の葵の上さまだぞと、
おおいにつけあがった葵の上方の従者たちは、御息所方の車にさんざんに乱暴をはたらきます。
はじめに現代語訳で、つぎに原文で読みます。
現代語訳
日が高くのぼってくると、姫君(葵の上)一行は、外出の準備も格式ばらない程度に車や装束を調えてご出発される。
隙間もなくそこらじゅう物見車が立っているところに、この一行は車の装束をいかめしく整えて列をなしたまま、車をなかなか立てることができずにいる。
身分の高い女性が乗っている車が多く、その中に雑人がついていない隙間を、ここと心に決めて、周囲の車を皆どかせる中に、網代車のすこし使用感があるので、下簾の様子なども風情があるのに、乗り手は奥深くに引き入っており、ほんのすこし見える袖口、裳の裾、汗袗などが、物の色がさっぱりして、意識的に目立たないようにしているようすがはっきりわかる車が二つある。
(六条御息所の供人)「これは、けしてそのように、退けられなどしてよい御車ではない」と、強く言って、車に手を触れさせない。
両方とも、若い者どもは酔いすぎて、騒いでいる時のことは、どうにも処置のしようがないのだ。
葵の上方の、年配のお供の人々は、「そんなことはするな」など言うが、とても止めることはできない。
斎宮の母である六条御息所は、源氏の君の御心をはかりかねて思い乱れていることの慰めにもなるだろうかと、こっそりと物見に出ていらしていたのだ。
六条御息所方はそしらぬふうにふるまっていたが、葵の上方からは、自然と、六条御息所の一行だと見知られることになった。
(葵の上の供人)「その程度の車に、そんなことを言わせるな。大将家(源氏)を権勢のある家だからと、威をかりるつもりだろう」など言うのを、大将家の供人もまじっているので、六条御息所を気の毒と思いながら、引き留めようとするのも面倒なので、知らぬ顔をつくる。
葵の上方は、とうとう六条御息所方に車の列を乗り入れてしまった。それで六条御息所の車は、お供の女房たちの車の奥に押しやられて、御息所は何も見えない。
憤りの思いは当然であるが、それ以上に、このように人目を忍んで出てきたことを知られることが、ひどく無念でたまらないのだ。
榻《しじ》などもみな押し折られて、どうでもいい車の轂《こしき》にうちかけてあるので、またとなく体裁が悪く、悔しく、何のために物見に来たのだろうと、思ってもどうしようもない。
六条御息所は物見もせずに帰ろうとなさるが、通り出る隙間もない。そこに「さあいらしたぞ」と言えば、さすがにつれない人が御前を通っていかれるのを待とうという気になるのも女心の弱さであるよ。
ここは歌にあるような「笹の隈(陰)」でさえないからだろうか、そっけなく通り過ぎなさるにつけても、六条御息所は、なまじちらりと拝見したがゆえにかえって、心も尽きる思いをされるのである。
なるほど、例年より趣向をこらした多くの車の、我も我もとこぼれるように乗っている下襲の隙間隙間にも、源氏の君が、そしらぬ顔ではあるが、微笑しつつ横目に目をおとめになることもある。
左大臣家の車ははっきりそれとわかるので、源氏の君はまじめくさってその御前をお通りになる。
お供の人々がかしこまって、姫君(葵の上)に敬意を表しつつ通るのを、六条御息所は、気圧されてしまったご自分の姿をひどく無様に思われる。
影をのみ…
(影をうつしただけで流れ去ってしまうみたらし川のつれなさに、わが身の不幸の程をいよいよ思い知りました)
と、涙がこぼれるのを人が見るのもばつが悪いが、まぶしいほどの源氏の君の御ようす、ご容貌がたいそう、晴れの場でいちだんとすばらしいのをもし見なかったなら、やはり心残りであったろうと思われる。
原文
日たけゆきて、儀式もわざとならぬさまにて出でたまへり。隙《ひま》もなう立ちわたりたるに、よそほしうひきつづきて立ちわづらふ。よき女房車《にようばうぐるま》多くて、雑々《ざふざふ》の人なき隙《ひま》を思ひ定めてみなさし退《の》けさする中に、網代《あむじろ》のすこし馴れたるが、下簾《したすだれ》のさまなどよしばめるに、いたうひき入りて、ほのかなる袖口、裳の裾《すそ》、汗袗《かざみ》など、物の色いときよらにて、ことさらにやつれたるけはひしるく見ゆる車二つあり。「これは、さらにさやうにさし退《の》けなどすべき御車にもあらず」と、口強《くちごわ》くて手触れさせず。いづ方にも、若き者ども酔《ゑ》ひすぎ立ち騒ぎたるほどのことは、えしたためあへず。おとなおとなしき御前《ごぜん》の人々は、「かくな」などいへど、え止めあへず。
斎宮の御母御息所《みやすどころ》、もの思し乱るる慰めにもやと、忍びて出でたまへるなりけり。つれなしづくれど、おのづから見知りぬ。「さばかりにては、さな言はせそ。大将殿《だいしやうどの》をぞ豪家《がうけ》には思ひきこゆらむ」など言ふを、その御方の人もまじれれば、いとほしと見ながら、用意せむもわづらはしければ、知らず顔をつくる。つひに御車ども立てつづけつれば、副車《ひとだまひ》の奥に押しやられてものも見えず。心やましきをばさるものにて、かかるやつれをそれと知られぬるが、いみじうねたきこと限りなし。榻《しぢ》などもみな押し折られて、すずろなる車の筒《どう》にうちかけたれば、またなう人わろく、悔しう何に来つらん、と思ふにかひなし。
ものも見で帰らんとしたまへど、通り出でん隙もなきに、「事なりぬ」と言へば、さすがにつらき人の御前渡りの待たるるも心弱しや。笹の隈《くま》にだにあらねばにや、つれなく過ぎたまふにつけても、なかなか御心づくしなり。げに、常よりも好みととのへたる車どもの、我も我もと乗りこぼれたる下簾《したすだれ》の隙間どもも、さらぬ顔なれど、ほほゑみつつ後目《しりめ》にとどめたまふもあり。大殿《おほとの》のはしるければ、まめだちて渡りたまふ。御供の人々うちかしこまり、心ばへありつつ渡るを、おし消《け》たれたるありさまこよなう思さる。
影をのみみたらし川のつれなきに身のうきほどぞいとど知らるる
と、涙のこぼるるを人の見るもはしたなけれど、目もあやなる御さま、容貌《かたち》のいとどしう、出《い》でばえを見ざらましかば、と思さる。
語句
■立ちわたりたるに 見物のため車を停めることを「車を立てる」という。轅をはずして、榻の上にのせる。 ■よき女房車 身分の高い女性の乗る車。 ■網代 檜や竹の細い板を格子状に編んだもので屋根と側面を覆った車。網代車。 ■下簾 車の前後の御簾の内側にかける薄絹の布。色あいや垂らし方に趣向をこらす。 ■ことさらにやされたるけはい 意識的に目立たないようにしているようす。 ■車二つ 六条御息所の車と、御息所の娘(新斎宮)の車。 ■えしたためあへず 「認める」は処置する。 ■おとなおとなしき 年配の。 ■かくな 「かくなせそ」の略。そんなことはするな。 ■さばかりにては 六条御息所ていどの車には。供人たちは源氏と左大臣家の威光をバックにして、六条御息所を低く見ている。 ■豪家 権勢のある家。 ■その御方の人もまじれれば 葵の上の御供の中に大将家(源氏)のお供の者もまじっている。 ■副車 ひとだまひ。人給。お供の女房の車。 ■かかるやつれをそれと知られぬるが 六条御息所はお忍びで出てきたことを白日のもとにさらされた。これは彼女が源氏に未練を持っていることを世間にさらすことになる。プライドの高い御息所にとっては最大級の屈辱であり耐え難いことである。 ■榻 しじ。牛をはずした時、轅を載せておく台。四足のテーブル状のもの。 ■筒 どう。牛車の車輪の中心の丸い部分。轂《こしき》。 ■事なりぬ 待っていた行事が始まったということ。 ■さすがにつらき人の… 六条御息所は大恥をかいたので源氏の姿をみずにそのまま帰ろうと思ったが、「源氏の大将がお通りになる」ときいて、やはりそのまま帰ることはできず、どうしても冷淡な恋人の姿を見ずにはいられないのである。それを作者は女心の弱さと評する。 ■笹の隈 「ささの隈檜の隈川に駒とめてしばし水かへ影をだに見む」(古今・神遊びの歌)。笹の隈(陰)、ひのくま川に馬をとめてしばらく馬に水を飲ませてください。その間、せめて貴方の姿を見ていましょう。この歌を受けて、馬もとめずに源氏が通り過ぎてしまうことをいう。 ■心ばへありつつ渡るを… 六条御息所は、源氏の供人たちが葵の上の車に敬意を表しつつ通り過ぎるのを見て、正妻たる葵の上と、一人の浮気相手にすぎない自分との圧倒的な差を見せつけられた。御息所にとってたえがたい屈辱である。 ■みたらし川 神社に参拝する際、身を浄める川。ここでは賀茂川。源氏をさす。「みたらし川」の「み」に「見」を掛ける。「影」「うき」は「川」の縁語。 ■目もあやなる御さま 輝きのあまりまともに見られないようす。 ■出でばえ 晴れの場でいちだんと見映えがすること。