序
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羅子(らし)は水滸を撰し、而して三世唖児を生み、紫媛(しえん)は源語を著し、而して一旦悪趣に堕つる者、蓋(けだ)し業(げふ)を為すことの迫る所(ところ)耳(のみ)。然り而して其の文を観るに、各々奇態を奮ひ、あん哢(ろう)真に迫り、低昂宛転(ていかうゑんてん)、読者の心気をして洞越(とうゑつ)たらしむる也。事実を千古に鑑(かん)せらるべし。余適(たまたま)鼓腹(こふく)の閑話(かんわ)有り、口を衝(つ)きて吐き出すに、雉鳴き竜戦ふ。自ら以て杜撰(ずさん)と為す。即ち適読(てきどく)する者、固(もと)より当(まさ)に信と謂はざるべき也。豈(あに)醜(しう)唇(しん)平(へい)鼻(び)の報を求む可(べ)けん哉(や)。明和戊子(ぼし)の晩春、雨は霽(は)れて月は朦朧(もうろう)の夜、窓下に編成して、以て梓氏(しんし)に与ふ。題して雨月物語と曰(い)ふと云ふ。剪枝畸人(せんしきじん)書す。
子虚後人 遊戯三昧
現代語訳
羅貫中(らかんちゅう)は「水滸伝(すいこでん)」を著して、そのために子孫三代唖(おし)の子が生まれ、紫式部は源氏物語を著して、一度は地獄にまで堕ちたが、それは思うに、彼らがありもしない嘘の物語を書いて世の人々を迷わせた所業の報いを受けたというべきであろう。しかしながらその文章を見ると、それぞれ変わった場面、情景に富み、あるいは黙し、あるいは歌い囀(さえず)って、文勢に迫力があり、文調は低くあるいは高く滑らかで、読む者の心をして瑟(しつ)の底の孔のように共に鳴り響かせるのであり、事実を千年の後の今日に、さながら目前に見るように思われる。さて私にも太平無事の余りというべき無駄話があるのだが、口から出まかせに吐き出してみると、不吉にも雉が鳴き、野に竜が戦うという奇怪な物語となった。自ら顧みても根拠のない拙(つたな)いものというよりほかにない。すなわち、これを拾い読みする読者もまた、もとより真実だと当然いうはずがないものなのだ。したがって私の場合は、人の心を惑わす罪はあり得ず、子孫に兎唇(としん)や鼻欠(はなかけ)が生まれるという報いをうけるはずがないのだ。明和五年三月、雨は晴れ、月おぼろの晩春の夜、座敷の明かり窓の下で編成して、これを書肆に渡す。題して「雨月物語」ということにした。剪枝畸人(せんしきじん)記す。
語句
■羅氏-羅貫中。中国の十四世紀中頃の人というが伝不詳。『忠義水滸伝』の著者とされ、他に『平妖伝』『三国志演義』なども彼の著と伝えられている。■水滸-『忠義水滸伝』。宗江(そうこう)など百八人の好漢豪傑の活躍する、最も有名な中国小説。わが国でも岡島冠山による百回本の訓訳本が刊行され、江戸時代を通じて愛読された。■紫媛(しえん)-紫式部。藤原為時の娘。長和三年(1014)前後に没。四十一二歳か。『源氏物語』の著者。■悪趣に堕つる者-悪行を積んだ者の趣く所。地獄。紫式部が地獄に堕ちたという伝説は中世説話集『宝物集』『今物語』等に見える。秋成著「ぬば玉の巻」に「此跡なし言まさしげに作りなしたる報にて、恐ろしき所(冥獄)に繋がれ、永き苦しみ受くるぞとて、是が手向草よみしと…」。■あん哢(ろう)-「あん」は黙して言わぬ、の意。「哢」は、鳥の歌い囀(さえず)ること、またその声。ここでは、文のめりはりをいう。■低昂宛転(ていかうゑんてん)-音調が滑らかで、抑揚に富むこと。■洞越(とうゑつ)-その声音を響かせる目的であけられた中国古代の弦楽器志瑟(しつ)(大琴)の底の孔(あな)。感興を共鳴させるもの、の意か。■鼓腹(こふく)-中国上古の「撃壌歌」の「哺を含み、腹を鼓し、壌(つち)を撃って歌う」に由来する語で、太平を楽しむことをいう。■衝きて-ほとばしり出る。■雉鳴き竜戦ふ-竜が野に戦うのは相互に血を流す凶兆とされ、祭礼に庭の鼎(かなえ)に雉が鳴くのは天の戒めを意味し、共に奇怪不吉なことの意。わが国では『伽婢子』や『本朝怪談故事』の序文にも「雉鳴竜戦」の語が見え、怪奇的題材・内容を宣言する常套語であった。■醜唇平鼻-兎唇と鼻欠。■明和戊子-明和五年(1768)三月。著者上田秋成三十五歳。■雨は晴れて云々-『雨月物語』の題名の由来を示している。題名出所については「牡丹灯記」(煎灯新話)中の一文によるという説、その他がある。■梓氏-版木を刻んで刊行する人。書肆(しょし)。■剪枝(せんし)-秋成の戯号。「剪枝」は「木鋏(きばさみ)」の意で、後に「無腸(むちょう)」と号したように、両手指が不自由であった自身を自嘲的にたとえた。■子虚後人-「子虚」は『文選』巻七の「子虚賦」に載った人で、いたずらに変わったことを言う人物。「後人」は、その子孫の意。自分を子虚の子孫に擬した戯号。■遊戯三昧-虚実入り混じった小説の執筆を「遊戯三昧の筆」(五雑俎)といった。それからのヒントで作られた戯印。
備考・補足
■兎唇(としん)-口唇裂(こうしんれつ)という、上唇の奇形。■鼻欠(はなかけ)-先天的に鼻が欠けて生まれた奇形児。
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雨月物語 現代語訳つき朗読