仏法僧 一

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雨月物語 巻之三

仏法僧(ぶつほふそう)

うらやすの国ひさしく、民作業(たみなりはひ)をたのしむあまりに、春は花の下(もと)に息(やす)らひ、秋は錦の林を尋(たづ)ね、しらぬ火の筑紫路(つくしぢ)もしらではと械(かぢ)まくらする人の、富士・筑波の峰々(みねみね)を心にしむるぞそぞろなるかな。

伊勢(いせ)の相可(あふか)といふ郷(さと)に、拝志氏(はやしうぢ)の人、世を早く嗣(つぎ)に讓(ゆづ)り、忌(いむ)こともなく頭(かしら)おろして、名を夢然(むぜん)とあらため従来(もとより)身に病さえなくて、彼此(をちこち)の旅寝(たびね)を老(おい)のたのしみとする。季子(すゑのこ)作之治(さくのぢ)なるものが生長(ひととなり)の頑(かたくな)なるをうれひて、京の人見するとて、一月(むつき)あまり二条(の)別業(べつげふ)に逗(とど)まりて、三月(やよひ)の末(すゑ)吉野の奥の花を見て、知れる寺院に七日ばかりかたらひ、此のつひでに「いまだ高野山を見ず。いざ」とて、夏のはじめ青葉の茂みをわけつつ、天(てん)の川といふより踰(こえ)て、魔尼(まに)の御山にいたる。道のゆくての険(さか)しきになづみて、おもはずも日かたふきぬ。

壇場(だんぢゃう)、諸堂、霊廟(みたまや)、残りなく拝みめぐりて、「ここに宿からん」といへど、ふつに答ふるものなし。そこを行く人に所の掟(おきて)をきけば、「寺院僧房に便(たより)なき人は、麓(むもと)にくだりて明かすべし。此の山すべて旅人に一夜をかす事なし」とかたる。いかがはせん。さすがに老(おい)の身(み)の険(さか)しき山路を来(こ)しがうへに、事のよしを聞きて大きに心倦(う)みつかれぬ。

作之治(さくのぢ)がいふ。「日もくれ、足も痛(いた)みて、いかがしてあまたのみちをくだらん。弱(わか)き身は草に臥(ふす)とも厭(いと)ひなし。只病(やみ)給はん事の悲しさよ」。夢然(むぜん)云ふ。「旅はかかるをこそ哀れともいふなれ。今夜(こよひ)脚をやぶり、倦(うみ)つかれて山をくだるともおのが故郷(ふるさと)にもあらず。翌(よく)のみち又はかりがたし。此の山は扶桑(ふさう)第一の霊場(れいぢやう)、大師の広徳(くわうとく)かたるに尽(つき)ず。殊(こと)にも来りて通夜(つや)し奉り、後世(ごせ)の事たのみ聞ゆべきに、幸(さいはひ)の時(をり)なれば、霊廟(みたまや)の夜もすがら法施(ほふせ)したてまつるべし」とて、杉の下道(したみち)のをぐらきを行くゆく、霊場(みたまや)の前なる灯籠堂(とうろうだう)の簀子(すのこ)に上(のぼ)りて、雨具(あまぐ)うち敷き座をまうけて、閑(しづか)に念仏(ねんぶつ)しつつも、夜の更(ふけ)ゆくをわびてぞある。

現代語訳

うらやすの国と呼ばれるこの国は長い間、穏やかな治世が続いていた。人々は仕事を楽しみ、(その余暇には)、春は花の下にくつろぎ、秋は紅葉の林を訪ね、あげくのはてに、まだ見ていない九州路に行ってみなければと西国へ船旅をする人が、更に、富士や筑波の峰々に心惹かれるのも気のそぞろなことである。

伊勢の相可の郷に、拝志(はやし)という人がいて、自分の代を早く次に譲り、戒められることがあったわけでもないのに髪をそり落として隠居し、名を夢然と改め、もともと健康だったのであちこちと旅を楽しむのを老後の生きがいにしていた。只、末っ子の作之治が人柄が堅苦しく頑固なのを心配し、一度、京の雅やかな気風を見せようと、約ひと月の間、二条(京の)別荘に滞在し、三月の終わりに、吉野山の奥の花を見て、知り合いの寺に七日ほど泊まったが、そのついでに、「まだ高野山を見たことがないのだ。さあ見に行くぞ」といって、初夏の青葉の茂みをかき分けながら、天の川という所を越えて、高野山に到着した。(途中)道中の険しさに気後れして脚が進まず、思わず日が傾きいつのまにか暗くなってきていた。

壇場、諸堂、霊廟 すべてを拝み廻り、寺の前で、「ここで泊めてください!」と言ってみたが、すこしもそれに答えてくれる人がいない。そこを通りかかった人に、この山の決まり事を聞くと、「寺院や僧房にてづるのない人は麓に下って、夜を明かしてください。高野山はすべての旅人に一夜をかす事はありません」と語った。どうしたらいいのか。さすがに(夢然は)、老人の身体で険しい山路を登って来たうえに(宿を貸さないという)事のいきさつを聞き、大いに意気消沈してがっくり気落ちしてしまった。

作之治が言うには、「日も暮れ、足も痛んでいるのに、どうして(遠い麓までの)数々の長い道のりをくだることができましょう。若い(自分であれば)野宿しても苦にはなりませんが、只、(父上がそのご老体で)(野宿して)病気になってしまわれるのが心配です」。夢然は云った。「旅においてはこんなことが起こるからかえって趣があるというのだ。今夜、脚を傷つけ意気消沈して山を下るにしても(そこが)自分の故郷のような安堵できるところというわけでもない。、明日の道もまた、どういうふうに行けばいいのか決めることもできない。此の山(高野山)は日本一の霊場、弘法大師の広い功徳を語るに(その話題に)尽きることはない。特別にやって来てでも、通夜をし、死後の成仏を願わねばならないのに、いい機会なので(この)霊廟で一晩中読経して供養申し上げよう」といって、暗い杉の木の下の道をどんどん歩いてゆく、霊場の前にある灯籠堂の簀子の縁側に上がり、雨具を敷き、静かに念仏を唱えながらも、さすがに夜が更けていくのを心細く感じていた。

語句

■仏法僧-この鳥の鳴き声が「ブッポウソウ(仏法僧)」と聞えるところから名付けられた。仏法僧とは、仏教の三宝のことで、仏と、仏の説いた法、その教えを奉じる広める僧をいい、ブッポウソウはありがたい鳴き声の鳥ということで、古くから零鳥として扱われてきた。しかし、実際には「ゲッゲッゲッ」としか鳴かず、昭和10年(1935年)にブッポウソウと鳴いているのは梟の一種である「コノハズク」とわかった。以降、学術名は「ブッポウソウ」のままであるが、俗にこの鳥を「姿のブッポウソウ」、コノハズクを「声のブッポウソウ」と呼んで区別されるようになった。■うらやすの国-日本の美称。穏やかで太平の意を含む。「日本は浦安国」(神武記)。「うら安は安意也」(金砂[こがねいさご・五])。■ひさしく-長く太平の世が続いたさま。■作業(なりはひ)-生業。「業(なりはひ)」。■しらぬ火の-筑紫の枕詞。また、「知らぬ」の意を掛ける。■筑紫路-ここでは九州路。■械(かぢ)まくら-「波枕」と同じ。船旅の事。■(心に)しむるぞ-しみじみと思うこと。■そぞろなるかな-何となく気を惹かれること。■伊勢(いせ)の相可(あふか)-今の三重県多気郡多気町。秋成の知人、村田道哲の出身地。■拝志-この姓は河内・伊予などに見られるという。■世-自分の代。■忌(いむ)こともなく頭(かしら)おろして-戒めを受けずに剃髪をして。(俳諧と旅を楽しむ楽隠居として剃髪したのである)■生長(ひととなり)-生長は成人だが「ひととなり」と読んで人柄を表す。■かたらひ-何かと語り合って旧交を暖めたこと、すなはち滞在したこと。■いざ-人を誘い、また新しく行動を起す時の呼びかけの感動詞。■天の川-奈良県吉野郡天川村。大峰口とも、七度半道ともいう。高野山東谷に出る。■魔尼(まに)の御山-高野山を形成する山の一つに魔尼山があるが、ここでは広く高野山を指す。■なづみて-行き悩むの意。■壇場(だんぢゃう)-高野山では東塔より西塔にあたる、金堂、御影堂の一帯をいう。奥の院とともに両壇といい、金剛(こんごう)・胎蔵(たいぞう)の二界にたとえる。■諸堂-そのほか諸々の堂塔。■霊廟(みたまや)-奥の院にあって弘法大師の霊を祀る。■ふつに-絶えて、ちっとも。■此の山-高野山。■一夜をかす事なし-江戸時代は実際に、縁者・信徒以外は泊めなかった。■あまたのみち-長い道のり(一番近い麓まで八キロメートル)■草に臥(ふす)-草を枕に野宿すること。■厭(いと)ひなし-苦にならぬ。■病(やみ)給はん事の悲しさよ-老いた身で野宿して病気になることを気遣った。■哀れ-趣(おもむき)。■扶桑(ふさう)-もと日の出る所にあるとされる木の名。転じて日本を指す。■霊場-神仏を祀ってある神聖な場所。■大師-開祖の弘法大師を指す。空海。延暦二十三年(804)渡唐、二年後帰朝し、弘仁七年(816)、高野山を開き真言宗を開基した。承和二年(835)没。六十二歳。■殊にも-特別に。■後世の事-死後の成仏。■法施-ここでは読経、称名を唱えること。■わびしい-心細い。■杉の下道-奥の院の入り口にあたる一の橋から大師廟まで約二キロ。その間高く深い杉木立と墓石でうずまっている。■灯籠堂-大師廟の拝殿にあたる。昔から灯籠の灯が絶えたことがない。■簀子-簀子縁。

備考・補足

朗読・解説:左大臣光永

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