菊花の約 十一

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老母(らうぼ)云ふ。「吾児(わがこ)かしこに去るとも、はやく帰りて老(おい)が心を休めよ。永く逗(とど)まりてけふを旧(ひさ)しき日となすことなかれ」。左門いふ。「生(しやう)は浮(うき)たる泡(あわ)のごとく、旦(あさ)にゆふべに定めがたくとも、やがて帰りまゐるべし」とて泪を振(ふる)うて家を出づ。作用(さよ)氏(うじ)にゆきて老母の介抱(いたはり)を苦(ねんごろ)にあつらへ、出雲の国にまかる路(みち)に、飢(うえ)て食(しよく)を思はず、寒きに衣をわすれて、まどろめば夢にも哭(なき)あかしつつ、十日を経(へ)て富田(とみた)の大城(おほぎ)にいたりぬ。

先ず赤(あか)穴(な)丹治(たんじ)が宅(いへ)にいきて姓名をもていひ入るるに、丹治迎(むか)へ請(しやう)じて、「翼(つばさ)あるものの告ぐるにあらで、いかでしらせ給ふべき。謂(いはれ)なし」としきりに問ひ尋(もと)む。

左門いふ。

「士(し)たる者は富貴(ふうき)消息(せうそく)の事ともに論ずべからず。只信義をもて重しとす。伯(あ)氏(に)宗右衛門、一旦(ひとたび)の約(ちかひ)をおもんじ、むなしき魂(たま)の百里を来(きた)るに報(むく)ひすとて、日夜(ひるよる)を逐(おう)てここにくだりしなり。

吾(われ)、学(まな)ぶ所について士に尋ねまゐらすべき旨(むね)あり。ねがふは明らかに答へ給へかし。昔魏(ぎ)の公叔(こうしゅく)座(ざ)病(やまひ)の床(ゆか)にふしたるに、魏(ぎ)王(おう)みづからまうでて手をとりつも告(つぐ)るは、『若諱(もしいむ)べからずのことあらば誰をして社稷(くに)を守らしめんや。吾(わが)ために教(をしへ)を遺(のこ)せ』とあるに、叔座(しゆくざ)いふ。『商鞅(しやうあう)年少(わか)しといへども奇才(きさい)あり。王(きみ)若(もし)此の人を用ゐ給はずば、これを殺(ころ)しても境(さかひ)を出(いだ)すことなかれ。他の国にゆかしめば必ずも後(のち)の禍(わざわひ)となるべし』と苦(ねんごろ)に教(をし)へて、又商鞅(しやうあう)を私(ひそか)にまねき、『吾(われ)、汝をすすむれども王許(ゆる)さざる色あれば、用ゐずはかへりて汝を害(がい)し給へと教ふ。是(これ)、君を先にし、臣を後にするなり。汝速(はや)く他(ひと)の国に去(さり)て害を免(のが)るべし』といへり。此の事士(し)と宗右衛門に比(たぐへ)てはいかに」。

丹治只頭(かしら)を低(たれ)て言(ことば)なし。
        

現代語訳

老母が答えて言うには、「おまえは出雲の国に行っても、早く帰ってきて年老いた母を安心させておくれ。長い間、とどまって、今日の日を最後の別れの日としないでおくれ」。左門が言った。「人の命は浮いている泡のようなもので朝に夕にいつ消えるとも知れませんが、すぐ帰ってまいりましょう」と、涙をおし拭って家を出る。作用氏宅に行き、老母の世話をくれぐれも頼んで(出かけたが)、出雲の国へ行く途中では飢えても食事をとらず、寒くても衣をのことを忘れて、うとうとすると、夢に(赤穴が現れて)泣き明しながら、十日経って、富田の城に到着した。  

先ず、赤穴丹治の家へ行き、姓名を名乗って、中に入ると、丹治が迎え入れて、「鳥が(飛んで行って)知らせたのでもないのに、どうして(赤穴の死を)ご存じのはずがあろうかな。そんなわけがありません」と、しきりに問い尋ねた。

左門が言った。「武士たる者は、富貴盛衰のことを言い争ってはいけません。ただ信義を(守ることを)重大なこととします。兄宗右衛門が、いったん約束したことを重んじ、亡魂となって百里をやって来た(その信義に)報いようと、夜を日についでこの地へ下って来たのです。

(ところで)私が学んだところについて、貴殿にお尋ねしたいことがあります。どうかはっきりとお答えください。昔、魏の宰相公叔座が重病の床に臥した時、魏王みずから見舞って、叔座の手を取りつつ、『もしその方に万一の事があったら、誰に国事を任せたらよいか。わがために教えを残してほしい』と尋ねたのに対し、叔座は『商鞅(しようおう)が若年ながらも、すぐれた才を持っております。もし王が、彼を登用なさらぬ時は、たとえ彼を殺しても国境の外へ出してはなりません。彼を他国へ行かせたら、必ず後にわが国の災いとなるでしょう』と、懇ろに教えたが、一方では商鞅(しようおう)をひそかに呼んで、『自分が死んだ後の国事について、私は君を推薦したが、王にはこれを聞き入れない様子があったので、重用するのでなければ逆に君を殺害しなさいと教えた。これは君主を先にし、臣下を後にする道理に基づくのである。君は早く他国へ逃れて害を避けるとよい』と言ったという。この話を、あなたと宗右衛門の場合に比べてみるといかがであるか」。

丹治はただ首を垂れて返す言葉もなかった。

語句

■かしこ-彼処。出雲を指す。■旧しき日-永別の日。母は老体であり、また左門の出雲下りに生死をかけた気持ちを読み取って、永の別れとなることを怖れたのであろう。■生は浮きたる泡のごとく-人間の生命はあたかも水面に浮かんでいる泡のようなもので、死は朝に夕に定めがたいものである。■佐用氏-左門の妹の嫁ぎ先。
■苦に-くれぐれも。こまごまと。■あつらへる-依頼する。■まかる-都の方面から地方へ行くこと。■姓名をもて-姓名を名乗って。■翼(つばさ)あるものの告ぐるにあらで-中国前漢の蘇武が匈奴の地から雁の足に手紙を結び付けて、武帝に送ったという故事がある。雁が、蘇武のように捕らわれている赤穴宗右衛門の手紙をもって来たというわけでもないのにの意。■いかで知らせ給ふべき-どうして知っておいでのことがありましょう。反語表現で疑問の副詞「いかで」をうけて、連体形「べき」で結ぶ。■謂なし-理由がない。そんなわけがない。■消息-栄枯盛衰のこと。■日夜を逐うて-夜を日についで。昼夜兼行で。■ねがふは-「願うことは」の意。どうか。■魏の公叔座-中国戦国時代の魏の宰相。■魏王-魏の恵王。■手をとりつも-手をとりながら。■諱(いむ)べからずのこと-忌み避けることのできないこと。
■社稷-国家。■商鞅-中国戦国時代の政治家。秦の宰相となって、公叔座が予言したように、魏を破った。■奇才-世にも珍しい優れた才智。■境-国境。
■かへりて汝を害し給へ-かえってお前(商鞅)を殺してしまいなさい。■比(たぐへ)てはいかに-くらべてみてはどうでしょうか。■頭を低て言なし-恥じ入って、言葉もない様。

備考・補足

たとえがわかりにくい。つまり、公淑座が心底、商鞅に対して信義を貫いたという話。それに比べて、丹治、あんたは何だ。赤名宗右衛門に対してまったく信義がないじゃないか責めているのである。

公淑座の商鞅に対する信義とは、まず商鞅を魏王に推薦したこと。もし用いない場合は殺してしまいなさいとまで言ってまで推薦したこと。

しかし魏王がその言葉を用いないとなると、商鞅に身のキケンを知らせ、外国に逃げろとすすめたこと。

ただし言うほど公淑座が商鞅に対して信義かというとギモンに思う。そもそも魏王に対して「商鞅を用いない場合は殺してしまえ」などと言わなければ商鞅にキケンは及ばなかったわけである。もっと別の推薦の仕方はなかったのか?

朗読・解説:左大臣光永

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