【蓬生 09】源氏、末摘花邸のそばを通りかかる

卯月ばかりに、花散里《はなちるさと》を思ひ出できこえたまひて、忍びて、対《たい》の上《うへ》に御|暇《いとま》聞こえて出でたまふ。日ごろ降りつるなごりの雨いますこしそそきて、をかしきほどに月さし出でたり。昔の御|歩《あり》き思し出でられて、艶《えん》なるほどの夕月夜《ゆふづくよ》に、道のほどよろづの事思し出でておはするに、形もなく荒れたる家の、木立茂く森のやうなるを過ぎたまふ。

大きなる松に藤の咲きかかりて、月影になよびたる、風につきてさと匂ふがなつかしく、そこはかとなきかをりなり。橘《たちばな》にはかはりてをかしければ、さし出でたまへるに、柳もいたうしだりて、築地《ついひぢ》もさはらねば、乱れ伏したり。見し心地する木立かな、と思すは、はやうこの宮なりけり。いとあはれにておしとどめさせたまふ。例の、惟光はかかる御忍び歩きに後れねばさぶらひけり。召し寄せて、「ここは常陸の宮ぞかしな」「しかはべり」と聞こゆ。「ここにありし人は、まだやながむらん。とぶらぶべきを、わざとものせむもところせし。かかるついでに入りて消息《せうそこ》せよ。よくたづね寄りてをうち出でよ。人|違《たが》へしてはをこならむ」とのたまふ。

ここには、いととながめまさるころにて、つくづくとおはしけるに、昼寝の夢に故宮《こみや》の見えたまひければ、覚めていとなごり悲しく思して、漏《も》り濡《ぬ》れたる廂《ひさし》の端《はし》つ方《かた》おし拭《のご》はせて、ここかしこの御座《おまし》ひきつくろはせなどしつつ、例ならず世づきたまひて、

亡き人を恋ふる袂《たもと》のひまなきに荒れたる軒のしづくさへ添ふ

も心苦しきほどになむありける。

現代語訳

四月頃、源氏の君は、花散里を思い出されて、お忍びで、対の上(紫の上)に御暇を申してご外出なさる。

ここ何日か降っていた名残の雨がいま少し落ちかかってきて、風情ある空に月が出ている。昔の御忍び歩きも思い出されて、優艶な折からの夕月に、道中、さまざまの事を思い出していらっしゃると、見るかげもなく荒れている家で、木立が茂って森のようなところを通り過ぎなさる。

大きな松に藤が咲きかかって、月光の中になよなよと揺れているのが、風に吹かれてさっと匂うのがなつかしく、そこはかとないよい香りである。

橘の香とはまた違って趣深いので、源氏の君が御車から御体を出してご覧になると、柳もたいそう長く垂れて、築地も崩れていて邪魔をしないので、乱れかぶさっている。

過去に見たような木立であるな、とお思いになるのは、もともとそのはず。この常陸宮邸なのであった。

源氏の君はたいそうしみじみと感慨深く、御車を停めさせなさる。いつものように、惟光はこのような御忍び歩きの供として欠かせないので控えていた。召し寄せて、(源氏)「ここは常陸宮の邸だね」(惟光)「さようでございます」と申し上げる。(源氏)「ここにいた人は、まだ物思いにふけっていようか。訪ねてやるべきだが、わざわざ行くのもばつが悪い。この機会に入って名乗り入れてみよ。よく確かめて、その上で言い出すようにせよ。人違いをしてはお笑い草であろう」とおっしゃる。

さてこちら(姫君の方)では、ひどく物思いが増すころで、つくづく気の滅入る思いでいらっしゃったところ、昼寝の夢に故宮(父宮)をご覧になったので、覚めて後、ひどく悲しくお思いになって、雨漏りで濡れている廂の間の端のあたりを拭き取らせて、あちこちの御座所をととのえさせなどしつつ、いつもと違って世間並になったような気になられて、

(末摘花)亡き人を…

(亡き人恋しさに涙を流す袂がかわく暇もないのに、荒れた軒のしずくさえ加わって、さらに濡れることだ)

というのも、おいたわしい折なのであった。

語句

■卯月ばかりに 卯月からは夏。花散里の物語は夏に集中する。 ■昔の御歩き 花散里巻でも、源氏が花散里を訪ねたのは五月雨の晴れ間だった(【花散里 01】)。 ■夕月夜 夕方の月。夕月。「夜」は接尾語。参考「夕月夜さすや岡辺の松の葉のいつともわかぬ恋もするかな(古今・恋一)。 ■形もなく 原型もとどめず。 ■なよびたる 「なよぶ」はなよなよする。 ■風につきて… 「人もなき宿ににほへる藤の花風にのみこそ乱るべらなれ」(貫之集)を引くか。 ■橘にかはりて 橘は花散里のイメージ。「橘の香をなつかしみほととぎす花散里をたづねてぞとふ」(【花散里 03】)。 ■さし出でたまへるに 車から身をのりだす。 ■はやうこの宮なりけり 「はやう」はもともと。最初から。 ■消息せよ 名乗り入れてみよ。申し入れてみよ。 ■たづね寄りてをうち出でよ 「を」は感嘆。 ■いとどながめまさるころにて 前の源氏の台詞「まだやながむらん」に対応。 ■も心苦しきほどに 「も」は前の歌から直接続く。

朗読・解説:左大臣光永

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