【松風 04】明石一家、別れを惜しみあう

秋のころほひなれば、もののあはれとり重ねたる心地して、その日とある暁に、秋風涼しくて虫の音《ね》もとりあへぬに、海の方を見出だしてゐたるに、入道、例の後夜《ごや》より深う起きて、鼻すすりうちして行ひいましたり。いみじう言忌《こといみ》すれど、誰も誰もいと忍びがたし。若君は、いともいともうつくしげに、夜光りけむ玉の心地して、袖より外《ほか》に放ちきこえざりつるを、見馴れてまつはしたまへる心ざまなど、ゆゆしきまでかく人に違《たが》へる身をいまいましく思ひながら、片時見たてまつらでは、いかでか過ぐさむとすらむ、とつつみあへず。

「ゆくさきをはるかに祈るわかれ路にたえぬは老のなみだなりけり

いともゆゆしや」とて、おしのごひ隠す。尼君、

もろともに都は出できこのたびやひとり野中のみちにまどはん

とて泣きたまふさま、いとことわりなり。ここら契りかはしてつもりぬる年月のほどを思へば、かう浮きたることを頼みて棄てし世に帰るも、思へばはかなしや。御方、

「いきてまたあひ見むことをいつとてかかぎりもしらぬ世をばたのまむ

送りにだに」と切《せち》にのたまへど、かたがたにつけて、えさるまじきよしを言ひつつ、さすがに道のほどもいとうしろめたなき気色なり。「世の中を棄てはじめしに、かかる他《ひと》の国に思ひ下りはべりしことども、ただ君の御ためと、思ふやうに明け暮れの御かしづきも心にかなふやうもや、と思ひたまへたちしかど、身のつたなかりける際《きは》の思ひ知らるること多かりしかば、さらに都に帰りて、古受領《ふるずらう》の沈めるたぐひにて、貧しき家の蓬葎《よもぎむぐら》、もとのありさまあらたむることもなきものから、公私《おほやけわたくし》にをこがましき名を弘《ひろ》めて、親の御亡《な》き影を辱《は》づかしめむことのいみじさになむ、やがて世を棄てつる門出《かどで》なりけり、と人にも知られにしを、その方《かた》につけては、よう思ひ放ちてけり、と思ひはべるに、君のやうやう大人びたまひ、もの思《おぼ》ほし知るべきにそへては、などかう口惜しき世界にて錦《にしき》を隠しきこゆらんと、心の闇晴れ間なく嘆きわたりはべりしままに、仏神《ほとけかみ》を頼みきこえて、さりともかうつたなき身にひかれて、山がつの庵にはまじりたまはじ、と思ふ心ひとつを頼みはべりしに、思ひよりがたくてうれしきことどもを見たてまつりそめても、なかなか身のほどを、とざまかうざまに悲しう嘆きはべりつれど、若君の、かう出でおはしましたる御|宿世《すくせ》の頼もしさに、かかる渚に月日を過ぐしたまはむもいとかたじけなう、契りことにおぼえたまへば、見たてまつらざらむ心まどひはしづめがたけれど、この身は長く世を棄てし心はべり、君たちは世を照らしたまふべき光しるければ、しばしかかる山がつの心を乱りたまふばかりの御契りこそはありけめ、天《てん》に生《む》まるる人の、あやしき三つの途《みち》に帰るらむ一時に思ひなづらへて、今日長く別れたてまつりぬ。命尽きぬと聞こしめすとも、後の事思しいとなむな。避《さ》らぬ別れに御心動かしたまふな」と言ひ放つものから、「煙ともならむ夕《ゆふべ》まで、若君の御ことをなむ、六時の勤めにもなほ心きたなくうちまぜはべりぬべき」とて、これにぞうちひそみぬる。

現代語訳

秋の季節なので、さまざまな情緒を重ねた気持ちがして、その日は出発という日の暁に、秋風が涼しく吹いて、虫の声もあわただしく鳴く折から、女君(明石の君)は外の海の方を見ていると、入道は、いつもの後夜のお勤めよりも早い時間に起きて、鼻をすすりすすりして勤行していらっしゃる。誰も彼も、出発の縁起をかついでたいそう言葉をつつしむけれど、涙をこらえることができない。

姫君はそれはもう可愛らしく、夜光るという玉のような感じがして、袖から外には手放さず大事にしていたのだが、入道に馴染んでそばを離れさせないこの姫君のお心具合などを、(不吉なまでにこうして人と違う出家の身をいまいましく思いながら)、その姫君のお心具合などを、片時も拝見しないでは、どうして過ごすしていけようと、それを思うと自分を抑えることができない。

(入道)「ゆくさきを…

(姫君の行く先をはるかに祈るこの別れ路に、こらえきれず流れ続けているのは年老いた私の涙であったことよ)

なんと縁起でもない」といって、涙をぬぐって隠す。尼君は、

もろともに…

(夫婦で一緒に都を出てきたことですが、今回のこの旅は、私は一人野中の道に迷うことでしょう)

といってお泣きになるさまは、なるほど無理もない。夫婦の契を交わしてから多くの年月が積もったことを思えば、こうして当てにならないことを頼みにして一度は捨てた俗世間に舞い戻るのも、思えば悲しいことであるよ。御方(明石の君)は、

(明石)いきてまた…

(生きてまたいつ会うことができるか、その期限もわからないこの世の中を頼みにするのでしょうか)

せめて都まで見送ってください」と熱心におっしゃるが、入道は、あれこれの事情でそうもいかないことを言いつつ、そうはいってもやはり道中のこともたいそう気がかりなようすである。

(入道)「私が世の中を最初に捨てたころ、こんな田舎に決心して下ってきましたことは、ただ貴女の御ためと、思うように明け暮れ貴女を満足に養育することもできるだろうからと、思い立ったのでしたが、わが身のつたない運命を思い知らされることが多かったので、今さら都に帰っても、落ちぶれた元受領の仲間に入って、貧しい家の蓬葎を、もとのありさまに改めることもできないのに、公私にわたってばかげた評判を広めて、親の御名を辱めることの耐え難さに、「田舎に下ったのがそのまま、出家の門出であったのだ」と人にも知られたのを、たしかにその出家したという点においては、「よくぞ思い切って決断した」と、思ってございましたが、貴女がしだいにご成長なさり、物事がおわかりになられるにつれて、どうしてこんな残念な辺鄙な土地で錦のようなすばらしい天分をお隠し申し上げているのだろうと、子を思う親の心の闇が晴れ間もなく嘆きつづけておりましたままに、仏神をお頼み申し上げて、今はこうであっても、こうして私のつたない身にひかれて、山がつの庵に交わりなさることもあるまいと、思う心ひとつを頼みにしてございましたところ、思いがけず嬉しいいろいろな事を拝見することになりまして、かえってわが身のほどのつたなさを、あれこれ悲しく嘆いていたのでございますが、若君がこうしてご出生なさった前世のご因縁の頼もしさに、こんな渚に月日をお過ごしになられるのもたいそう勿体なく、若君は格別にすばらしいご運命とお見受けされますから、拝見できなくなるとまどいは鎮めがたいものがありますが、この身は長く世を捨てた心づもりですから、若君たちは世をお照らしになるに違いない光がはっきり見えているので、一時はこんな山賤の心をお乱しにむなる程度のご宿縁はあったにせよ、天上界に生まれる人が、厭わしい三つの道に一時は帰るということになぞらえて、今日は長くお別れ申し上げることにいたしましょう。私の命が尽きたとお聞きになっても、後世を弔う法会などはお考えにならず、営まれますな。避けられない別れに御心を動かされますな」と言い放つのだが、(入道)「荼毘に付されて煙となる夕べまで、若君の御ことを、六時のお勤めの時もやはり未練がましく祈りの内にまぜておりましょう」といって、ここで入道はべそをかくのだった。

語句

■とりあへぬ 「とりあへず」(副詞)は、すぐに。たちどころに。ここでは大慌てでいそがしげなさま。 ■後夜より 晨朝・日中・日没・初夜・中夜・後夜の六時の一つ。この一時ごとに勤行(誦経・念仏・礼拝)するのを六時礼賛という。 ■鼻すすり 娘・孫との別離を前に涙が出るので鼻をすする。 ■いましたり 「います」は「いる」の尊敬語。入道の動作に敬語があるのは珍しい。茶化す意味があるらしい。 ■言忌み 門出という晴れの場面なので、不吉な言葉を口にするのを避ける。または「事忌み」で涙を避けるの意。 ■夜光りけむ玉 中国の伝説にある夜光珠。 ■見馴れてまつはしたまへる 主語は姫君(明石の君と源氏の間に産まれた娘)。自分のことを見馴れさせ、入道がいつもそばにいるようにする。 ■心ざまなど… 「ゆゆしきまでかく人に違へる身をいまいましく思ひながら」が挿入句で、「片時見たてまつらで」につづく。 ■ゆくさきを… 「ゆくさき」は旅のゆくさきに若君の将来をかける。「たえぬ」は「絶えぬ」と「堪えぬ」をかける。 ■もろともに… 「このたび」は「この旅」と「この度」をかける。「ふる道にわれやまどはむいにしへの野中の草は茂りあひにけり」(拾遺・物名 藤原輔相)。 ■ここら たくさん。たいそう。 ■かう浮きたること 当てにならないこと。源氏の明石の君に対する愛情をさす。 ■いきてまた… 「いきて」は「行きて」と「生きて」をかける。 ■送りだに 都で一緒にすむことはできずとも、せめて都まで見送ってほしいの意。 ■かたがたにつけて あれこれの事情につけて。 ■世の中を棄てはじめしに 近衛中将を辞して播磨守になったこと。以下、文脈が支離滅裂。いったいに明石一族はこうした物思いの独白が始まると止まらず、くどくど洪水のような自分語りがつづく。ほとんど解読不能。文節同士のつながりは、おそらく作者以外、誰も解明できた者はいないだろう。「世間の物笑い」になることを病的なまでに恐れるのも気になる。ただし、錯綜したとりとめない思考の流れとは、たしかにこういうものだとは思わされる。 ■ことども 「ことも」とする本も。 ■思ふやうに 入道は、近衛中将より国司のほうが収入がよいので娘を養育するのによいと考えた。 ■つたなかりける際 つたない前世からの定め。 ■古受領 元受領。 ■蓬葎 蓬と葎は見すぼらしい住まいの象徴。 ■公私にをこがましき名を弘めて 入道の噂は若紫巻にすでに語られている(【若紫 03】)。 ■親の御亡き影 入道の父は大臣だった(【明石 09】)。 ■その方 出家したこと。 ■口惜しき世界にて 明石のような田舎で。 ■錦を隠しきこゆらんと 「富貴ニシテ故郷ニ帰ラザルハ繍ヲ衣テ夜行クガ如シ」(史記・項羽本紀)。明石の君のすぐれた天分にもかかわらず人目につかずひっそり暮らしていることを惜しいと見る。 ■心の闇 人の親の心は闇にあらねども子を思ふ道にまどひぬるかな」(後撰・雑一 藤原兼輔)。 ■仏神を頼みきこえて 住吉の神などに願かけしたこと(【明石 09】)。 ■山がつの家 ここでは明石の家をさす。「山がつ」は山にすむ身分卑しき者。 ■思ひよりがたくて 明石の君が源氏と結ばれたこと。 ■身のほどを 源氏の高貴さの前に、こちらは身分が低いので相手にされないのではないかと心配している。「身のほど」は明石一族のもっとも気にすることで、何度もしつこく繰り返されるキーワード。 ■君たち 明石の君と明石の姫君。 ■世を照らしたまふ 明石の姫君が将来帝の后になることを暗示。 ■しばしかかる山がつの 自分のことを卑下していう。 ■天に生まるる人の… 天上界に生まれる人が果報尽きた時、地獄道・餓鬼道・畜生道の三界に帰るとする説によるもの。その地獄道・餓鬼道・畜生道に帰る「別れ」に妻子との別れをなぞらえて、一時は別れてもいつか…という希望をつなぐ。「果報若シ尽クレバ三悪道ニ還リ随フ」(『正法念経』)。入道の言葉は仏教の教えに基盤を置き、筆者の広範囲な知識のほどがうかがえる。 ■避らぬ別れ 「世の中にさらぬ別れのなくもがな千代もとなげく人の子のため」(古今・雑上 業平、伊勢物語八十四段)。 ■煙ともならむ夕まで 火葬は夕方に行われた。 ■六時の勤め 一日夜を晨朝・日中・日没・初夜・中夜・後夜の六時に分け、それぞれ念仏誦経などの勤行をした。六時礼賛。 ■心きたなく 仏事は俗世へのこだわりを断ち切るべきものなのに、そこでなお肉親の現世利益を祈るから「心きたなし」という。 ■ひそみぬる 「ひそむ」はべそをかく。

朗読・解説:左大臣光永

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