【松風 05】明石の君ら、明石の浦を出立 大堰邸に入る
御車は、あまたつづけむもところせく、かたヘづつ分けむもわづらはしとて、御供の人々もあながちに隠ろへ忍ぶれば、舟に忍びやかに、と定めたり。辰《たつ》の刻《とき》に舟出したまふ。昔の人もあはれと言ひける浦の朝霧、隔たりゆくままにいともの悲しくて、入道は、心澄みはつまじくあくがれながめゐたり。ここら年を経て、いまさらに帰るも、なほ思ひ尽きせず、尼君は泣きたまふ。
かの岸に心よりにしあま舟のそむきしかたにこぎかへるかな
御方、
いくかへりゆきかふ秋をすぐしつつうき木にのりてわれかへるらん
思ふ方の風にて、限りける日|違《たが》へず入りたまひぬ。人に見咎められじの心もあれば、道のほども軽《かろ》らかにしなしたり。家のさまもおもしろうて、年ごろ経つる海づらにおぼえたれば、所かへたる心地もせず。昔のこと思ひ出でられて、あはれなること多かり。造りそへたる廊《ろう》など、ゆゑあるさまに、水の流れもをかしうしなしたり。まだこまやかなるにはあらねども、住みつかばさてもありぬべし。親しき家司《けいし》に仰せたまひて、御設けのことせさせたまひけり。渡りたまはむことは、とかう思したばかるほどに日ごろ経ぬ。なかなかもの思ひつづけられて、捨てし家ゐも恋しうつれづれなれば、かの御形見の琴《きん》を掻き鳴らす。をりのいみじう忍びがたければ、人離れたる方にうちとけてすこし弾くに、松風はしたなく響きあひたり。尼君もの悲しげにて寄り臥したまへるに、起きあがりて、
身をかへてひとりかへれる山ざとに聞きしににたる松風ぞふく
御方、
ふる里に見しよのともを恋ひわびてさへづることをたれかわくらん
現代語訳
御車は、たくさん続けるのも窮屈だし、一部分ずつ海路と陸路に分けるのも煩わしいということで、御供の人々もむやみに人目に立つのを嫌がるので、舟でこっそり行くことに決めた。辰の刻に舟出なさる。昔の人もしみじみ心打たれたという明石の浦の朝霧が立って、その彼方に舟が隠れて遠ざかっていくにつれてひどくもの悲しくて、入道は、俗世を捨てた澄んだ心のままに住みおおせそうになく、魂が抜けたように呆然とながめていた。長い年月をここで過ごして、いまさら京に帰るのも、やはり思いは尽きず、尼君はお泣きになる。
(尼君)かの岸に…
(此岸に心を寄せていた海人舟…尼の私が、もう捨てたはずの都…俗世に漕ぎかえることですよ)
御方、
(明石)いくかへり…
(何度も去来する秋をすごしすごししてきて、今さら浮き木に乗って私は都へ帰るのだろうか)
順風が吹いて、決めていた日に違えず京にお入りになる。人に見られまいとの用心もあるので、道中も質素ないでたちであった。
家のようすも風情があって、長年過ごした海辺に景色が似ていると思うので、場所を変えた気持ちもしない。
昔のことが思い出されて、しみじみ胸を打つことが多いのである。
建て増しした廊など、風情あるようすで、遣水の流れも風流にしつらえてある。
まだこまごまと部屋内まで整えてあるわけではないが、住み着いてみればそのような状態でもまあ住めるものであろう。
源氏の君は、近しく召し使っている家司に仰せになって、御祝宴のことをご用意させなさった。君ご自身がおいでになることは、あれこれ考えめぐらしているうちに日数が経ってしまった。
女君(明石の君)はかえってもの思いをつづけることになって、捨ててきた明石の家も恋しくやることがなく所在ないので、あの源氏の君の御形見の琴を掻き鳴らす。
秋の季節の寂しさがたいそう忍び難いので、人気のない所にくつろいですこし弾くと、松風がきまりが悪いほどに琴の音と響きあった。尼君は何となく悲しげに物に寄りかかって横になっていらしたが、起きあがって、
(尼君)身をかへて…
(尼の姿に身を変えて、一人帰ってきた山里に、以前明石で聞いたのに似た松風が吹くことよ)
御方、
ふる里に…
(故郷の明石の里で親しんでいたころの友達を恋しく思い悲しがってかき鳴らしている琴の音を誰が聞き分けるでしょうか)
語句
■御供の人々 明石の君を迎えにきた源氏の使者たち。 ■辰の刻 午前八時頃。 ■浦の朝霧 「ほのぼのと明石の浦の朝霧に島隠れゆく舟をしぞ思ふ」(古今・羇旅 読人しらず)。 ■心澄みはつまじく 「澄み」に「住み」をかける。 ■あくがれながめゐたり 「あくがる」は魂が抜け出すこと。参考「物思へば沢の蛍も我が身よりあくがれ出づるたまかとぞ見る」(後拾遺集・雑六 和泉式部)。 ■かの岸に… 「かの岸」は彼岸に明石の浦の意をこめる。「あま」は「海人」と「尼」をかける。「そむきしかた」は此岸に京の意をこめる。 ■いくかへり 「うき木」は水中の浮木。安定しない不安な立場を象徴。「うき」は「浮き」と「憂き」をかける。 ■思ふ方の風 思う通りに吹く風。順風。 ■道のほど 陸路。難波から淀川をさかのぼり伏見で上陸し、京に向かったのだろう。 ■軽らかに 質素な身なりをして身分低い一行のように装った。 ■家 大堰邸。 ■年ごろ経つる海づらにおぼえたれば 前に惟光が「あたりをかしうて、海づらに通ひたる所のさまになむはべりける」と源氏に報告している(【松風 02】)。 ■昔のこと 曽祖父中務宮在世中からのこと。 ■まだこまやかなるにはあらねども 屋内の設備は。 ■さてもありぬべし 「さありても(そのような状態でも)」、「ありぬべし(住めるだろう)」。 ■御設 無事に着いたことの祝宴。 ■とかう思したばかるほどに 主に紫の上への言い訳を思案しているうちに。 ■かの御形見の琴 「琴はまた掻き合はするまでの形見に」(【明石 17】)。 ■松風はしたなく 「琴の音に峰の松風かよふらしいづれの緒よりしらべそめけむ」(拾遺・雑上 斎宮女御)。「はしたなし」は人目を避けて弾いていたのに松風が調子をあわせるので。『平家物語』「小督」は『源氏物語』松風巻の影響が色濃く見られる。松風の音の風情が印象的。 ■身をかへて… 「山ざと」を「ふるさと」とする本もある。「聞きしににたる松風」は明石の浦で聞いたのに似た松風の意と、明石の君の琴の音に似た松風の意をかける。 ■ふる里に… 「ふる里」は明石の浦。「言」と「琴」をかける。「さへづる」はいい加減に掻き鳴らすこと。