【薄雲 01】源氏、姫君の引き取りについて明石の君を説得 明石の君、迷う

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原文

冬になりゆくままに、川づらの住まひいと心細さまさりて、上《うは》の空なる心地のみしつつ明かし暮らすを、君も、「なほかくてはえ過ぐさじ。かの近き所に思ひ立ちね」とすすめたまへど、「つらきところ多く試みはてむも残りなき心地すべきを、いかに言ひてか」などいふやうに思ひ乱れたり。「さらばこの若君を。かくてのみは便《び》なきことなり。思ふ心あればかたじけなし。対に聞きおきて常にゆかしがるを、しばし見ならはさせて、袴着《はかまぎ》の事なども、人知れぬさまならずしなさんとなむ思ふ」と、まめやかに語らひたまふ。さ思すらん、と思ひわたることなれば、いとど胸つぶれぬ。「あらためてやんごとなき方にもてなされたまふとも、人の漏り聞かんことは、なかなかにやつくろひがたく思されん」とて、放ちがたく思ひたる、ことわりにはあれど、「うしろやすからぬ方にやなどはな疑ひたまひそ。かしこには年経ぬれどかかる人もなきが、さうざうしくおぼゆるままに、前斎宮《さきかかのさいぐう》の大人《おとな》びものしたまふをだにこそ、あながちに扱ひきこゆめれば、まして、かく憎みがたげなめるほどを、をろかには見放つまじき心ばへに」など、女君の御ありさまの思ふやうなることも語りたまふ。

「げにいにしへは、いかばかりのことに定まりたまふべきにかと、伝《つて》にもほの聞こえし御心のなごりなく静まりたまへるは、おぼろけの御|宿世《すくせ》にもあらず、人の御ありさまも、ここらの御中にすぐれたまへるにこそは」と思ひやられて、「数ならぬ人の並びきこゆべきおぼえにもあらぬを、さすがに、立ち出でて、人もめざましと思す事やあらむ。わが身はとてもかくても同じこと、生ひ先遠き人の御|上《うへ》もつひにはかの御心にかかるべきにこそあめれ。さりとならば、げにかう何心なきほどにや譲りきこえまし」と思ふ。また、「手を放ちてうしろめたからむこと。つれづれも慰む方なくては、いかが明かし暮らすべからむ。何につけてかたまさかの御立寄りもあらむ」など、さまざまに思ひ乱るるに、身のうきこと限りなし。

尼君、思ひやり深き人にて、「あぢきなし。見たてまつらざらむことはいと胸痛かりぬべけれど、つひにこの御ためによかるべからんことをこそ思はめ。浅く思してのたまふことにはあらじ。ただうち頼みきこえて、渡したてまつりたまひてよ。母方からこそ、帝の御子《みこ》もきはぎはにおはすめれ。この大臣の君の、世に二つなき御ありさまながら世に仕へたまふは、故大納言の、いま一階《ひときざみ》なり劣りたまひて、更衣腹《かういばら》と言はれたまひしけぢめにこそはおはすめれ。ましてただ人は、なずらふべきことにもあらず。また、親王《みこ》たち、大臣の御腹といヘど、なほさし向かひたる劣りの所には、人も思ひおとし、親の御もてなしもえ等しからぬものなり。まして、これは、やむごとなき御方々にかかる人出でものしたまはば、こよなく消《け》たれたまひなむ。ほどほどにつけて、親にも一ふしもてかしづかれぬる人こそ、やがておとしめられぬはじめとはなれ。御|袴着《はかまぎ》のほども、いみじき心を尽くすとも、かかる深山《みやま》隠れにては何のはえかあらむ。ただまかせきこえたまひて、もてなしきこえたまはむありさまをも聞きたまへ」と教ふ。

現代語訳

冬になってゆくにつれて、大堰川に面した住まいはいよいよ心細さがまさって、ただ上の空といった気持ちで、日々明かし暮らしているのを、源氏の君も、「やはりこんなふうに過ごしてはいられないでしょう。あの近い所に移るよう決めておしまいなさい」とおすすめになるが、(明石)「君の冷淡なお気持ちをことごとく見届けたなら、もうお終いという気持ちになるに決まっているのだから、その時何を言って嘆いてよいのか」などと、そんなふうに思い悩んでいる。

(源氏)「ならばこの姫君を…。こうしてばかりいるのは不都合なことです。私に考えがあるのだから、このままでは勿体ない。西の対の女君(紫の上)も話は聞いていて、いつも姫君に会いたがっていますから、しばらく女君(紫の上)に姫君の世話をさせて、袴着の事なども、人知れずという形ではなくちゃんと行おうと思うのです」と、真剣にご相談を持ちかけなさる。女君(明石の君)は、源氏の君がそうお思いになっているだろうとずっと思っていたことなので、ひどく胸がつぶれる思いであった。

(明石)「今さら身分高い方のように姫君をお取り扱いになったとしても、世間の人が漏れ聞くこと(母親の身分が低いこと)は、かえって姫君には取り繕いがたいことにお思いになるのではないでしょうか」といって、姫君を手放し難く思っているのは当然の道理ではあるが、(源氏)「不本意な扱いを受けるのではないか、などとお疑いになりますな。あちら(紫の上)には年月が経ってもこういう可愛い子も生まれないので、物足りなく思っているのにまかせて、前斎宮のもうすっかり大人になっていらっしゃるのをさえ、強いてお世話申し上げているような次第ですので。ましてこんな、憎むに憎めない幼い人を、無下に見捨てることなどできぬあの方の気性ですから」など、女君(紫の上)の御人柄の申し分のないこともお話になる。

「なるほど以前は、どんな人のもとに落ち着かれるのだろうかと人伝えにわずかに聞いていた源氏の君の浮気心が、跡形もなくお静まりになっていらっしゃるのは、前世からのご因縁が並々ならぬものであられたのだろうし、またそのお方の御人柄も、そこらの人では及ばないほど優れていらしたからだろう」と想像され、「私のような人数にも入らない者がそのお方と並び申し上げるような信望もないのに、しゃしゃり出てたら、その御方も、いかによい御人柄とはいっても私のことを目障りだとお思いになることがあろう。わが身はどうなっても同じことだが、将来が長いこの子の御身の上も、結局はそのお方の御心にかかってくるようだ。それならば、本当にこうして姫君がまだ物心つかないうちにお譲り申し上げようかしら」と思う。

また一方では、「姫君を手放してしまえば気がかりなことになるだろう。所在ない時も慰めようがないので、どうやって日々明かし暮らしていけるのだろう。また源氏の君は何につけて時たまの御立ち寄りもしてくださるだろう」など、さまざまに思い乱れるにつけ、わが身のつたなさがどこまでも情けなく思われる。

尼君は考え深い人で、(尼君)「くよくよ悩むのはつまらないことですよ。姫君を拝見できなくなることはひどく心痛いでしょうけれど、結局は姫君のためによいに違いないことをお考えなされ。源氏の君はいい加減なお気持ちでおっしゃているのではありますまい。ひたすら源氏の君をご信頼申し上げて、姫君をあちらにお渡し申し上げなさい。母方の身分次第で、帝の御子もいろいろな身分の相違がおありになるようです。この源氏の大臣の君が、世に二人といらっしゃらないお方であるのに臣下の立場でいらっしゃるのは、故大納言(源氏の母桐壺更衣の父)が、他の人よりもう一段地位が劣っていらしたため、更衣腹の御子と言われなさったことによる違いであられるようです。帝の御子でさえそうなのですからまして普通の人は、源氏の君の妻や妾である身分の高い女性方とは比較にもなりません。また、たとえ親王たちや大臣の御腹であったとしても、それよりも素性が劣ってはいてもやはり正妻腹の御子でないと、人も低く思うし、父親からの御扱いも等しくはならないものです。まして、この姫君の場合、もしご身分の高い御方々にこのような御子がお生まれでもしたら、お話にならぬほど圧倒されておしまいになるでしょう。身分身分に応じて父親からもひとかどのものとして大切に可愛がられた人こそ、そのまま世間の人からも大切にされることの始めとなるのです。御袴着の事も、たいそう心を尽くしたところで、こんな山奥で人知れずやっても、何の見映えがしましょう。ただ源氏の君にお任せ申し上げなさって、君が姫君をどうお扱いになるかを見ていらっしゃい」と教えさとす。

語句

■川づらの住まひ 大堰川に面した明石の君の邸。 ■いとど 源氏の訪れが月に二度だけ(【松風 12】)なのに加えて冬になったことでいよいよ心細さがまさる。 ■かの近き所 二条院東院(【松風 01】)。 ■つらきところ 「かりそめなる所に侍りける女に、心かはりにける男の、ここにてはかくびんなき所なれば、心ざしはありながらなむえ立ちよらぬ、といへりければ、女/宿かへて待つにも見えずなりぬればつらき所の多くもあるかな」。歌意「かりそめの宿に住んでいる女に、心変わりした男が、ここはこんな不便なところだから、お前に対する気持ちはあるのだが、立ち寄ることはしない、といったので、女が/たとえ宿をかえて待っていても訪れが途絶えてしまうとすれば、貴方はひどく冷淡であることですよ」。 ■残りなき心地 もう最後だという絶望の底にたたき落とされると明石の君は心配している。 ■いかに言ひてか 「うらみての後さへ人のつらからばいかにいひてか音をも泣かまし」(拾遺・恋五 読人しらず)。 ■さらばこの若君を 貴女が二条院に移らないならこの明石の姫君を二条院に移しなさいの意。 ■思ふ心 源氏は宿曜道の予言により、姫君が将来后の位につくと信じている(【澪標 05】)。 ■見ならはせて 紫の上に、明石の姫君の世話をさせて。 ■袴着の事 源氏は前段で紫の上に明石の姫君の袴着のことを相談していた(【松風 12】)。 ■人知れぬさまならず 大堰ではなく二条院で袴着を行いたいの意。 ■さ思すらん 「さ」は姫君を二条院に引き取りたいということ。 ■あらためてやんごとなき方に 姫君を紫の上の養女とすること。 ■うしろやすからぬ方にや 継子として粗末に扱われるのではないか。 ■前斎宮 故六条御息所の娘。斎宮の女御。この時二十ニ歳。紫の上は二十三歳。 ■あながちに 「強ち」は無理やり。ひたむきだ。一途だ。紫の上と一歳しか違わない前斎宮を養女にしていることをさす。 ■かく憎みがたげなめるほど 明石の姫君、三歳。 ■心ばへに 下に「こそあれ」などを省略。 ■母方からこそ… 乳母の話の趣旨は、一「母方の身分が低いと子は不遇な思いをすることになる」、ニ「だから姫君は貴女から離れて紫の上さまの養女になるのがよい」、三「仮に母方の身分が高くても正妻腹でないと軽く見られる」、四「だから身分が高く、かつ正妻である紫の上さまは、姫君の養い手として最適なのだ」ということ。筋は通っているが、わが子から引き離され、その上母親という立場すら奪われる明石の君の心中は、ただならぬものがあろう。 ■故大納言 源氏の母桐壺更衣の父。故按察使大納言。 ■いま一階なり劣りたまひて 大臣より一段下の大納言にとどまったこと。 ■更衣腹 大納言の娘は女御になれず更衣あつかい。 ■ただ人 臣下。普通の人。明石の君のこと。 ■なずらふべきことにもあらず 源氏の妻妾である身分の高い女性たちとは比較にならない。仮に姫君を「明石の君の娘」として通した場合、姫君の将来は不遇になる。だから「紫の上の娘」とする必要があるのである。 ■親王たち、大臣の御腹といへど… 以下、たとえ母方の身分が高くても正妻腹でなくては低く見られるという趣旨。 ■さし向かひたる劣り 「さし向かひたる」は正妻。「劣り」は親王や大臣腹よりは身分が劣ること。 ■まして 姫君は親王・大臣の娘の子でもなく、正妻の子でもないから。 ■やむごとなき御方々 源氏の妻妾で身分の高い女性たち。 ■かかる深山隠れ 大堰邸。深山に嵐山を響かせる。

朗読・解説:左大臣光永

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