【薄雲 11】源氏、藤壺の宮を見舞う 藤壺宮、崩御

大臣は、公《おほやけ》方さまにても、かくやむごとなき人のかぎり、うちつづき亡せたまひなむことを思し嘆く。人知れぬあはれ、はた、限りなくて、御祈禱《いのり》など、思し寄らぬことなし。年ごろ思し絶えたりつる筋さへ、いま一たび聞こえずなりぬるがいみじく思さるれば、近き御几帳のもとによりて、御ありさまなどもさるべき人々に問ひ聞きたまへば、親しきかぎりさぶらひて、こまかに聞こゆ。「月ごろ悩ませたまへる御心地に、御行ひを時の間《ま》もたゆませたまはずせさせたまふつもりの、いとどいたうくづほれさせたまふに、このごろとなりては、柑子《かうじ》などをだに触れさせたまはずなりにたれば、頼みどころなくならせたまひにたること」と泣き嘆く人々多かり。

「院の御遺言にかなひて、内裏《うち》の御後見仕うまつりたまふこと、年ごろ思ひ知りはべること多かれど、何につけてかはその心寄せことなるさまをも漏らしきこえむとのみ、のどかに思ひはべりけるを、いまなむあはれに口惜しく」とほのかにのたまはするも、ほのぼの聞こゆるに、御答へも聞こえやりたまはず泣きたまふさま、いといみじ。などかうしも心弱きさまに、と人目を思し返せど、いにしへよりの御ありさまを、おほかたの世につけてもあたらしく惜しき人の御さまを、心にかなふわざならねばかけとどめきこえむ方なく、言ふかひなく思さるること限りなし。「はかばかしからぬ身ながらも、昔より御|後見《うしろみ》仕うまつるべきことを、心のいたる限りおろかならず思ひたまふるに、太政大臣《おほきおとど》の隠れたまひぬるをだに、世の中心あわたたしく思ひたまへらるるに、またかくおはしませば、よろづに心乱れはべりて、世にはべらむことも残りなき心地なむしはべる」と聞こえたまふほどに、燈火《ともしび》などの消え入るやうにてはてたまひぬれば、いふかひなく悲しきことを思し嘆く。

現代語訳

源氏の大臣は、公的な面からいっても、こうしてご身分の高い方々ばかりが、たてつづけにお亡くなりになりそうなことをお嘆きになる。

藤壺の宮に対する人しれぬ想いは、また限りなくて、御祈祷など、お思い至らないということがない。

幾年もあきらめていらした思いさえも、もう一度申し上げずじまいになってしまうことが悲しくお思いになるので、近くの御几帳のそばによって、ご病状などもしかるべき女房たちにご質問になると、親しい女房たちは皆お仕えしていて、こまかにご病状を申し上げる。

(女房)「幾月もご気分を悪くしていらしたところに、御勤行をつかま間でもいい加減でなくなさった疲れがお重なりになって、たいそうひどくお身体を悪くなさっていらして、このごろになっては、柑子などさえお触れにならないようになったので、頼みどころなくおなりあそばしたこと」と泣き嘆く女房たちも多いのである。

(藤壺)「故院の御遺言にそって、今上の御後見をお務めいただいていますことは、長年とても感謝しておりますが、何につけてその格別な感謝の気持ちをお伝え申し上げようばかり、気長に思ってございましたことが、今はしみじみと無念に思われまして」とほのかにおっしゃるのも、かすかに聞こえるので、源氏の君がお返事も最後まで申し上げなられずにお泣きになっているさまは、まったくいたわしい。

「どうしてこんなに心弱いさまになっているのだろう」と源氏の君は人目を気にして正気を取り戻そうとされるが、昔からの藤壺の宮の御気性を、個人的な思い入れは抜きにしても、もったいなく、惜しいそのお人柄を、人の命は思うままにどうすることもできないので、この世にひきとどめるすべもなく、もうどうしようもなく、はてしもなく意気消沈なさるのである。

「ふがいない身ながらも、昔から御後見申し上げるべきことを、思いつく限りいい加減にせず配慮申し上げてまいりましたが、太政大臣がお亡くなりになられたことさえ、世の無常迅速を思わされますのに、またこういうご容態であられますので、万事心乱れまして、私が世に生きながらえおりますことも残り少ない気持ちがいたします」と申し上げなさるうちに、燈火などが消え入るようにお亡くなりになったので、どうしようもなく悲しいことをお嘆きになる。

語句

■人知れぬあはれ 藤壺に対する秘密の恋心。 ■年ごろ思し絶えたりつる筋 藤壺が出家したのは源氏からのしつような求愛を拒むため(【賢木】)。 ■近き御几帳 藤壺の病床近い御几帳。 ■院の御遺言にかなひて 東宮(冷泉帝)を後見せよとの桐壺院の遺言(【賢木 09】)。 ■その心寄せ 源氏の厚意に対する感謝の念。 ■口惜しく 下に「思ひたまふる」などが省略。 ■ほのぼのと聞こゆるに 源氏は几帳を隔てて藤壺と向かい合い、藤壺つきの女房が藤壺の言葉を取り次いでいる。 ■心弱きさまに 下に「やあらむ」などを省略。 ■人目を 女房たちの手前、あまりに取り乱すことをはばかるのである。 ■おほかたの世につけても これまでの源氏と藤壺宮の特別の関係を抜きにしても、そういう個人的な話を抜きにしても世間一般的にいって、藤壺宮は惜しい御方だ、の意。 ■あたらしく 「あたらし」は勿体ない。現代語の「新しい」は古文では「あらたし」。 ■心にかなふわざならねば 「命だに心にかなふものならば何か別れの悲しからまし」(古今・離別 白女)。歌意は、命さえ心のままになるなら別れも悲しくないのに(実際は人の命は人の意思でどうにもならないから、いっそう悲しさがまさる)。 ■かくおはしませば 藤壺が重体であること。 ■燈火などの消え入るやうに 「無漏ノ妙法ヲ説キテ、無量ノ衆生ヲ度《すく》ヒ、後、当《まさ》に涅槃ニ入ルコト、煙尽キテ燈《ともしび》ノ滅《き》ユルガ如シ」(法華経・安楽行品 釈迦入滅の場面)によるという説がある。

朗読・解説:左大臣光永

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