【初音 05】源氏、明石の君を訪ね、泊まる

原文

暮れ方になるほどに、明石の御方に渡りたまふ。近き渡殿の戸押し開くるより、御簾《みす》の内の追風なまめかしく吹き匂はして、物よりことに気《け》高く思さる。正身《さうじみ》は見えず。いづら、と見まはしたまふに、硯《すずり》のあたりにぎははしく、草子どもとり散らしけるを取りつつ見たまふ。唐《から》の東京錦《とうぎやうき》のことごとしき縁《はし》さしたる褥《しとね》に、をかしげなる琴《きん》うちおき、わざとめきよしある火桶《ひをけ》に、侍従《じじゆう》をくゆらかして物ごとにしめたるに、えひ香《かう》の香《か》の紛《まが》へるいと艶《えん》なり。手習どもの乱れうちとけたるも、筋変り、ゆゑある書きざまなり。ことごとしく草《さう》がちなどにもざれ書かず、めやすく書きすましたり。小松の御返りを、めづらしと見けるままに、あはれなる古言《ふるごと》ども書きまぜて、「めづらしや花のねぐらに木《こ》づたひて谷のふる巣をとへるうぐひす

声待ち出でたる」などもあり。「咲ける岡辺《をかべ》に家しあれば」など、ひき返し慰めたる筋など書きまぜつつあるを、取りて見たまひつつほほ笑みたまへる、恥づかしげなり。

筆さし濡《ぬ》らして、書きすさみたまふほどに、ゐざり出でて、さすがにみづからのもてなしはかしこまりおきて、めやすき用意なるを、なほ人よりはことなりと思す。白きに、けざやかなる髪のかかりの、すこしさはらかなるほどに薄らぎにけるも、いとどなまめかしさ添ひてなつかしければ、新《あらた》しき年御騒がれもや、とつつましけれど、こなたにとまりたまひぬ。なほ、おぼえことなりかし、と、方々に心おきて思す。南の殿《おとど》には、ましてめざましがる人々あり。

まだ曙《あけぼの》のほどに渡りたまひぬ。かくしもあるまじき夜深《よぶか》さぞかし、と思ふに、なごりもただならずあはれに思ふ。待ちとりたまへる、はた、なまけやけしと思すべかめる心の中《うち》はかられたまひて、「あやしきうたた寝をして、若々しかりけるいぎたなさを、さしもおどろかしたまはで」と御気色とりたまふもをかしう見ゆ。ことなる御|答《いら》へもなければ、わづらはしくて、空寝《そらね》をしつつ、日高く大殿籠《おほとのごも》り起きたり。

現代語訳

暮れ方になる頃に、明石の御方においでになる。御殿近い渡殿の戸を押し開けるや、御簾の内から風に乗って吹いてくる薫風が優雅に香り立って、なによりも格別に気品高くお思いになる。ご本人の姿は見えない。どこにいるかとお見回しになると、硯のあたりがにぎやかで、いろいろな草子をとり散らしてあったのを御手に取ってはご覧になる。唐来の東京錦《とうぎょうき》の、おおげさに縁に刺繍をした褥の上に、由緒ありげな琴を置いて、わざわざ用意させたらしい風情ある火桶に、侍従香をくゆらせてあらゆる物に焚き染めているのに、えい香の香がまじっているのがたいそう優雅な風情である。

多くの手習いが気軽にくつろいだ感じで書いてあるのも、普通と筋が違い、素養の深い書きようである。おおげさに草書を多くまぜてあるような才気走った書き方でもなく、好ましくしっとりと書いてある。

小松のお返事を、珍しくうれしいと見たままに、しみじみと情緒深い多くの古歌を書きまぜて、

(明石)「めづらしや…

(珍しく嬉しいこと。今は花の住まいで可愛がられているのに、谷の古巣を訪ねてきてくれた鶯よ)

その声を待ちわびていたが、やっと聞けました」などとも書いてある。「咲ける岡辺に家しあれば」など、気を取り直して自分の心を慰めている筋の言葉などを書きまぜているのを、手に取ってご覧になってほほ笑んでいらっしゃる、源氏の君のお姿は、見ているほうが気後れするほど素晴らしいのである。

源氏の君が、筆の穂を濡らして、戯れ書きをなさっている時に、女君(明石の君)がにじり出てきて、そうはいってもやはり自身のふるまいは遠慮がちにして、人目にも好ましく慎み深いのを、やはり他の人とは違っていると源氏の君はお思いになる。白い表着に、あざやかな黒髪がかかって、すこしさらりとした程度に薄らいでいるのも、とても艶っぽさが加わって趣き深いので、新年早々騒ぎにもなろうかと気兼ねなさるが、それでもこちらにお泊りになった。やはり世間の明石の君に対する見方は違うのだ、と源氏の君は方々に気を遣っていらっしゃる。南の御殿(紫の上の御殿)には、まして明石の君のことをけむたがる女房たちがいる。

源氏の君は、まだ夜が明けないうちに南の御殿にお帰りになる。まだ帰らないでもいいほど夜が深いのに、と女君(明石の君)は思うにつけても、その後に引きずる気持も並々でなく切なく思う。南の御殿で待ち受けになっていらっしゃる女君(紫の上)が、また、何となくおもしろからず思っているにちがいない心の内が、源氏の君は自然と察せられるので、(源氏)「変なうたた寝をして、大人げない寝坊をしてしまいましたのを、そう言って起こしてもくださらなかったものだから」と、女君(紫の上)のご機嫌をお取りになるのも、滑稽に見える。それに対して女君(紫の上)から別段のお返事もなかったので、源氏の君はめんどうにお思いになって、寝たふりをしつつ、日が高くなるまでお休みになって、それからお起きになった。

語句

■明石の御方 戌亥の町。 ■にぎははしく 書き散らした紙が散乱している。 ■東京錦 「東京」は唐の東の都、洛陽。長安を西の都というのに対して。東京錦は白地の唐織の錦。帳や鳥、藤の丸模様をあしらう。 ■褥 今の座布団。 ■琴 中国渡来の七弦琴。 ■侍従 侍従香。薫物の名。 ■えひ香 薫物の種類。詳細不明。 ■草がち 「草」は草書体の仮名。 ■ざれ書かず 才気が鼻につくような書き方をしていないの意か。 ■小松の御返り 「小松」は明石の姫君の歌「ひきわかれ年は経れども鶯の巣だちし松の根をわすれめや」(【初音 02】)。 ■めづらしや… 「花のねぐら」は紫の上の御殿。「谷のふる巣」は明石の君の御殿。「鶯」は明石の姫君。「木づたふ」は鶯が木から木へ飛び移ることで、明石の姫君が源氏に抱かれ、紫の上に抱かれしていることを暗示。 ■声待ち出でたる 「あらたまの年たちかへる朝より待たるるものは鶯の声」(拾遺・春 素性)。 ■咲ける岡辺に 「梅の花咲ける岡辺に家しあればともしくもあらず鶯の声」(古今六帖六。万葉集では第三句「家をれば」)。歌意は、梅の花が咲いている岡のあたりに家があるので鶯の声はしょっちゅう聞ける。明石の君はこの歌をふまえ、姫君は紫の上の御殿にいるので、しょっちゅう便りを受け取ることができるといっている。 ■ひき返し 気をとりなおして。 ■白き 源氏が正月用の衣装として明石の君に贈った衣装。「梅の折枝、蝶鳥、飛びちがひ、唐めいたる白き小袿に、濃きが艶やかなる重ねて、明石の御方に」(【玉鬘 17】)。 ■けざやかなる 白い衣の上に黒髪が映えるのである。 ■さはらかなる さらりとした状態。 ■新しき年の 新年の夜は正妻たる紫の上のもとに泊まるのが筋。明石の君のもとに泊まれば後日、源氏と紫の上の間でもめることが予測される。 ■おぼえ 世間の人の、明石の君に対するおぼえ。明石の君は出自が卑しいから世間の人は軽く評価している。 ■曙 夜が白白と明けて来る頃。男が女のもとから帰る時間としてはやや遅いが、それでも明石の君には「もうお帰りなのか…」と残念に思われる。 ■待ちとりたまへる 一晩中、悶々として源氏の帰りを待っていた紫の上の気持。 ■なまけやけし 「けやけし」は不快であること。おもしろくないこと。 ■あやしきうたた寝をして 以下、源氏の言い訳。出先でちょっと寝てしまっただけだの意か。もしくは明石の君と共寝したことをズバリ述べたものか。 ■おどろかしたまはで 紫の上からどうして迎えの使者をよこしてくれなかったの意。紫の上のせいにしようとしている。 ■おどろかしたまはで 下に「結局泊まることになった」の意を補って読む。しかしそれは私の好色ゆえではない、貴女が迎えをよこさなかったからだと、あくまで責任を回避する言い方。 ■をかしう見ゆ 見え見えの弁解をする姿が、紫の上の目には滑稽に映るのである。 ■ことなる御答へもなければ 紫の上は、怒るのも馬鹿らしくて黙っている。

朗読・解説:左大臣光永