【若菜上 02】朱雀院、東宮に女三の宮の後見を依頼する

原文

春宮《とうぐう》は、かかる御なやみにそへて、世を背かせたまふべき御心づかひになむ、と聞かせたまひて渡らせたまへり。母女御も添ひきこえさせたまひて参りたまへり。すぐれたる御おぼえにしもあらざりしかど、宮のかくておはします御宿世《みすくせ》の限りなくめでたければ、年ごろの御物語こまやかに聞こえかはさせたまひけり。宮にもよろづのこと、世をたもちたまはむ御心づかひなど、聞こえ知らせさせたまふ。御年のほどよりは、いとよくおとなびさせたまひて、御|後見《うしろみ》どもも、こなたかなた軽々《かろがろ》しからぬ仲らひにものしたまへば、いとうしろやすく思ひきこえさせたまふ。

「この世に恨み遺《のこ》ることもはべらず。女宮《をむなみや》たちのあまた残りとどまる行く先を思ひやるなむ、さらぬ別れにも絆《ほだし》なりぬべかりける。さきざき人の上に見聞きしにも、女は心より外《ほか》に、あはあはしく、人におとしめらるる宿世《すくせ》あるなん、いと口惜しく悲しき。いづれをも、思ふやうならん御世には、さまざまにつけて、御心とどめて思し尋ねよ。その中に、後見《うしろみ》などあるは、さる方にも思ひゆづりはべり、三の宮なん、いはけなき齢《よはひ》にて、ただ一人を頼もしきものとならひて、うち棄ててむ後《のち》の世に漂《ただよ》ひさすらへむこと、いといとうしろめたく悲しくはべる」と、御目おし拭《のご》ひつつ聞こえ知らせさせたまふ。

女御にも、心うつくしきさまに聞こえつけさせたまふ。されど、母女御の、人よりはまさりて時めきたまひしに、みないどみかはしたまひしほど、御仲らひどもえうるはしからざりしかば、そのなごりにて、げに、今は、わざと憎しなどはなくとも、まことに心とどめて思ひ後見《うしろみ》むとまでは思さずもやとぞ推《お》しはからるるかし。

現代語訳

東宮は、父朱雀院が、このように御病気であられることに加えて、世を背いてご出家なさりたいお心づもりでいらっしゃるとお聞きになられて、この院においでになられた。母女御(承香殿女御)もお付き添い申し上げなさってご参上になられた。母女御は、院から格別に御目をかけられていらしたわけではなかったが、お二人の間に東宮がこうしておいであそばすご宿縁が限りなくすばらしいものだったので、ここ数年の御物語を細々とお話し合いになられた。朱雀院は、東宮に万事にわたることを、また世をお治めになるためのお心遣いなどを、おさとしになられる。東宮は御年のわりには、まことによく大人びていらして、御後見の人々も、誰も彼も軽々しくはない御方々とのつながりでいらっしゃるので、院は、まことに安心にお思い申し上げなさる。

(朱雀院)「私はこの世に恨みが残ることもございません。しかし女宮たちが多く残りとどまっている、その将来を思いやると、この世を去るにあたっての、引き止められる未練となりそうなのです。これまで他人事として見聞きした話でも、女は本人の思うままにならず、しっかりしたところがなく、人に貶められる宿縁であるというのが、ひどく残念で悲しいことです。女宮たちのいづれも、貴方がご即位されて思うがままにできる御世になりましたら、女宮それぞれに応じて、お心をとどめてお気をかけてやってください。その中で、後見人などがあるのは、その後見人に世話をまかせますが、三の宮だけは、まだ齢幼く、私一人だけをずっと頼みにしてきて、私が俗世を捨てた後の世に漂いさすらうだろうことは、まことにひどく気がかりで、悲しゅうございます」と、御目をぬぐってはお聞かせになられる。

院(朱雀院)は、女御(承香殿女御)にも、やさしい好意を三宮に向けてくださるようお頼みなさる。だが、三宮の母女御(藤壺)が他の女御更衣たちもよりも院の寵愛を受けて時めいていらしたころに、どなたももみなお互いに張り合っておられて、親密な、ま心からの御交際というわけにはいかなかったので、なるほど、今は、ことさら憎いなどということはなくても、女御(承香殿女御)やはり本当に心をとどめて三宮を気遣い、世話しようとまではお思いにならないかもしれない、と推察されるのであった。

語句

■かかる御悩み 前に「例ならず悩みわたらせたまふ」とあった(【若菜上 01】)。 ■渡らせたまへり 朱雀院の御所に。 ■母女御 東宮の母。承香殿女御。 ■すぐれたる御おぼえにしもあらざりしかど 「春宮の御母女御のみぞ、とり立てて時めきたまふこともなく…」(【澪標 14】)。 ■御年のほど 東宮この時十三歳。 ■こなたかなた軽々しからぬ仲らひ 東宮の母承香殿女御は髭黒。東宮后は源氏の娘明石の姫君。よって東宮の将来は盤石。 ■さらぬ別れ 避けられない別れ。死別。「老いぬればさらぬ別れもありといへばいよいよ見まくほしき君かな」(古今・雑上 業平母伊登内親王、伊勢物語八十四段)。「世の憂き目見えぬ山路へ入らむには思ふ人こそほだしなりけれ」(古今・雑下 物部吉名)。 ■心より外 思うままにならないこと。 ■いづれをも 四人の女宮のうちの誰をも。 ■思ふやうならん御世 東宮が即位して後の世。 ■さまざまにつけて 四人の女宮それぞれの境遇に応じて。 ■女御 東宮の母、承香殿女御。 ■心うつくしきさまに 女三の宮に対して。実の娘ではないが、実の娘のように接してほしいと朱雀院はのぞむ。 ■聞こえつけさせたまふ 「聞こえつく」は「言いつく(嘆願する)」の謙譲語。 ■まことに心とどめて… 朱雀院は承香殿女御に、女三宮に対して実の母のように接してほしいとのぞむが、はたしてそのように行くか。かつて女三の宮の実母藤壺は朱雀院の寵愛をうけて時めき、承香殿女御はじめ女御更衣たちは圧迫されていた。そういう過去のいきさつがあるので、承香殿女御も、藤壺の実娘である女三の宮にたいしておもしろく思わないのではないか、といった意味。

朗読・解説:左大臣光永