【澪標 11】朱雀院・源氏・藤壺宮・皇太后・兵部卿宮・太政大臣家 新体制にともなう状況の変化

院はのどやかに思しなりて、時々につけて、をかしき御遊びなど、好ましげにておはします。女御更衣みな例のごとさぶらひたまヘど、春宮《とうぐう》の御母女御のみぞ、とり立てて時めきたまふこともなく、尚侍《かむ》の君の御おぼえにおし消たれたまへりしを、かくひきかへめでたき御幸ひにて、離れ出でて宮に添ひたてまつりたまへる。

この大臣《おとど》の御|宿直所《とのゐどころ》は昔の淑景舎《しげいさ》なり。梨壺《なしつぼ》に春宮はおはしませば、近隣《ちかどなり》の御心寄せに、何ごとも聞こえ通ひて、宮をも後見《うしろみ》たてまつりたまふ。

入道后の宮、御位をまた改めたまふべきならねば、太上天皇《だいじやうてんわう》になずらへて、御封《みふ》賜はらせたまふ。院司《ゐんじ》ともなりて、さまことにいつくし。御行ひ功徳《くどく》の事を、常の御営みにておはします。年ごろ、世に憚りて出で入りも難く、見たてまつりたまはぬ嘆きを、いぶせく思しけるに、思すさまにて参りまかでたまふも、いとめでたければ、大后《おほきさき》は、うきものは世なりけり、と思し嘆く。大臣《おとど》は事にふれて、いと恥づかしげに仕《つか》まつり、心寄せきこえたまふも、なかなかいとほしげなるを、人もやすからず聞こえけり。

兵部卿《ひやうぶきやう》の親王《みこ》、年ごろの御心ばへのつらく思はずにて、ただ世の聞こえをのみ思し憚りたまひしことを、大臣はうきものに思しおきて、昔のやうにも睦《むつ》びきこえたまはず。なべての世には、あまねくめでたき御心なれど、この御あたりは、なかなか情なきふしもうちまぜたまふを、入道の宮は、いとほしう本意なきことに見たてまつりたまへり。

世の中の事、ただ、なかばを分けて、太政大臣《おほきおとど》この大臣の御ままなり。

権中納言の御むすめ、その年の八月に参らせたまふ。祖父殿《おほぢどの》ゐたちて、儀式などいとあらまほし。兵部卿宮の中の君も、さやうに心ざしてかしづきたまふ名高きを、大臣は、人よりまさりたまへ、としも思さずなむありける。いかがしたまはむとすらむ。

現代語訳

院(朱雀院)はのびのびとしたお気持になられて、四季折々に応じて、おもしろい御遊びなどされて、ご機嫌うるわしいようすでいらっしゃる。

女御更衣はみなご退位前とかわらずお仕え申し上げているが、東宮の御母である女御(麗景殿女御)だけが、これまでとり立ててご寵愛をお受けになることもなく、院の尚侍の君に対するご寵愛に押し消されていらしたのを、このように今までとは打って変わって、立太子という目出度き御さいわいとなったので、今は院のお側を離れて東宮にお付き添い申し上げなさっている。

この源氏の大臣の宮中における宿舎は昔の淑景舎《しげいさ》である。梨壺に東宮はいらっしゃるので、近く隣同士のお気軽さで、何ごともお話しあいになって、東宮をもお世話申し上げなさる。

入道の后の宮(藤壺宮)は、ご出家の御身でまた改めて皇太后の御位につくべきではないので、太上天皇に准じて、御封をお受けなさる。院司たちが任命されて、たいそうおごそかなご様子である。おつとめや、功徳ある仏事を、常日ごろの御営みにしていらっしゃる。ここ数年は世間に憚って宮中に出入りすることも難しく、東宮(現・冷泉帝)を拝見することもおできにならなかった嘆きを、気が晴れないと思っていらしたが、今やおぼしめしのままに参内退出なさるのも、たいそう目出度いので、大后(元・弘徽殿大后)は、「情けないものは世の移り変わりであった」と、思い嘆かれる。

大臣(源氏の君)は何かにつけて、大后のほうがひどくばつが悪くなるほどにお仕え申し上げ、お気を遣われるのも、どうにも気の毒なように見えるのだが、世間の人もそれを黙っておらず、あれこれお噂申し上げたのだった。

兵部卿宮はここ数年のお気持ちの持ちようが、源氏の大臣にはつらく心外であって、ただ世間の評判だけを思いはばかっていらしたことを、源氏の大臣は不快なものに思い定められて、兵部卿宮とは昔のように親しくはなさらない。

源氏の大臣は世間一般の人に対しては広く公平に寛容な御心をお持ちだが、この宮のあたりには、むしろ冷淡なお仕打ちも交えていらっしゃることを、入道の宮(藤壺宮)は、気の毒に、不本意なことにお思いなさっておられる。

世の政は、まったく、二分して、太政大臣とこの源氏の大臣とのお心のままである。

権中納言の御むすめが、その年の八月に入内なさる。祖父である太政大臣が立ち回りなさって、入内の儀式などたいそう十分になさった。

兵部卿宮の中の君も、同じように入内を目指して父宮は可愛がっていらっしゃると評判が高いのだが、源氏の大臣は、その中の君が人より抜きん出なさるように、とはお思いにならないでいらっしゃる。どうなさろうというおつもりなのであろうか。

語句

■春宮の御母女御 春宮の母である麗景殿女御。 ■かくひきかへ これまでは院の朧月夜への寵愛に圧倒されて日が当たらなかったが、うってかわってわが子が東宮となり、はなやぐのである。 ■昔の淑景舎 源氏はかつて母桐壺更衣の住まっていた淑景舎を宿直所としていた(【桐壺 16】【花宴 02】)。 ■梨壺 昭陽舎。庭前に梨の木が植えてあったため梨壺とよぶ。 ■また改めたまふべきならねば… 藤壺は出家の身なので、その子冷泉帝が即位したからとて皇太后の位につくことができない。そこで太上天皇(上皇)に准ずる「女院《にょういん》」となる。一条天皇の母で出家した藤原詮子(道長の姉)が太上天皇に准じて東三条院と称されたのがはじめの例。 ■御封 「封」は「封戸」の略。官位勲功に応じて賜る民戸。その民戸からの税収(祖の半分、庸・調のぜんぶ)が収入となる。 ■院司 これまで藤壺宮に仕えていた職員も、准太上天皇=女院の職員となるので院司とよばれることになる。 ■いつくし 「厳し」は威厳があっておごそかである。 ■大后 皇太后。もとの弘徽殿女御。 ■なかなかいとほしげなるを 大后は長年にわたって源氏を憎み嫌ってきた。にも関わらず源氏が今、自分に熱心に奉仕するので、かえって気の毒な思いがするのである。 ■人もやすからず聞こえけり 宮中ばかりでなく世間でも噂をする。噂の内容は記されていないが、「源氏の君はあれほど自分をいじめていらした大后にも熱心にお仕えして立派だ。それに引きかえ大后は…」といったことだろう。 ■兵部卿の親王 藤壺宮の兄。紫の上の父。 ■年ごろ御心ばへのつらく思はずにて 兵部卿宮はとくに源氏が須磨に下向する時、冷淡であった。それを源氏は根に持っている。「父親王はいとおろかに、もとより思しつきにけるに、まして世の聞こえをわづらはしがりて、訪れきこえたまはず、御とぶらひにだに、渡りたまはぬを、…」(【須磨 03】)。 ■なかなか情なきふしもうちまぜたるを 藤壺の兄、紫の上の父という親しい間柄であるにも関わらず。 ■権中納言 もとの頭中将。 ■祖父殿 太政大臣。もとの左大臣。 ■儀式 入内の儀式。 ■兵部卿宮の中の君 紫の上の腹違いの姉妹。 ■人よりまさりたまへ、としも思さず 源氏は兵部卿宮のやることに冷淡。勝手にしろという考え。

朗読・解説:左大臣光永

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